Final Fantasy W
After story
第四十二話 〜blood bullet〜
「………………ファブール大僧正……ヤン・ファン・ライデンの命は…………私達が掌握した。
…………だから動かないでもらおう。…………彼を殺したくないと思うのであれば…………な」
その言葉は、酒を注ぐ音が聞こえるほど静かに――澄み渡っていて。
……静かに酒を楽しめるこの「あまき」だからこそ、店の隅々にまで声は行渡ったのだろうか。
しかし――たとえどれだけその声がか細かろうと。
彼のその言葉の意味する内容の衝撃は、弱められるわけが無かった。
「私の命……だと……?」
自らの頚動脈に、未だ張りはぴたりと押し当てられている。
そうでありながら――ヤンの声に、震えは微塵も感じられなかった。
そしてその瞳は、命を握られた人質のものではなく、敵と向き合った武人のそれ――
だが、それでもヤンが微動だにしないのは、この酒場の店主――いや、店主を名乗っていた男に、
見出すことの出来る隙がまるでなかったからだろうか。
そして男の、ヤンの問いに答える声もまた――これだけの暴挙に出ているとは思えないほど、静かで穏やかだった。
「…………そうだ。……前に、文を…………送っていたはずだが?」
「……!! それでは……お前達が――!?」
ヤンの言葉に、こくりと頷く――男。
シユウ、シャオ――そしてオルステッドの顔に緊張が走った。
……だが――オルステッドのすぐそばのラディには、彼らが何を話しているのか――まるで見えない。
『お前達が』―― 一体、なんだったというのか。
……しかし、そんなラディをよそに――ヤンを人質に取った男と彼らは、話を進めていく。
言葉を切り出したのは、剣の柄へと手をやっているオルステッドだ。
「貴様……判っているのか? 何をしようとしているのかは知らんが、お前達の行動は無駄以外の何者でもない。
人質を取った以上、何を望んでいるのか判らんが……ここでこんな暴挙に出て……大僧正を人質にしたとしても。
『国』がその程度で動くことはない――絶対にな。
……例え、ここで大僧正を殺したとしても」
目の前で取られている人質に対し、あまりに物騒なことを口にするオルステッド――観光客達の間に息を呑む声が上がる。
しかし――口にしたオルステッド、そしてヤン自身の眼差しの奥に、その言葉に対する動揺は微塵も無かった。
「……お前達は、その選択を間違えた……おとなしく武器を捨てて、投降しろ。それが、生き残れる唯一の選択だ。
……これ以上、時間をかけさせるなら…………殺すぞ」
凍てつく赤銅の眼差し――抜き放たれた真剣のようなそれを、しかし受ける黒曜石の眼差しは静謐で、落ち着いている。
「…………なら……殺してみるといい。だが……私を殺した、次の瞬間には…………この針は、大僧正を殺す」
「陳腐な脅しだな……私の言葉が聞こえなかったのか?」
「…………勿論だ。……そして……お前は決して、こうしている限りその剣を振るうことは出来ない……ということも」
「なに……!?」
オルステッドの、言葉に――まるで酒の銘を問われたかのような穏やかさで、男はさらに口を開く。
「……確かに、国としての体面……ここで私達の要求を呑まず…………いっそ大僧正ごと始末するのが、正しい……。
だがそれは…………あくまで、この国に生粋の人間であるから選べる選択肢だ……『魔王』。
どれだけ口を開こうと…………傭兵である、お前は…………依頼主を殺害する選択肢は選べない」
諭すようなその口調に――オルステッドはただ、赤銅の瞳をいっそう鋭くするだけだ。
……しかし――その瞳の奥に、やるせない苛立ちへの揺らぎがあったのを――ヤンは見取っていた。
「…………それから――」
何気ない様子で、男は呟き――しかし次の瞬間、響く甲高い音。
……針がカウンターに深々と突き刺さる、高い音に。
「…………おおかた、その言葉で私を惑わし……時間を稼ぐつもりだったのだろうが……。
気づいていないと思っていたのか………………カイン・ハイウインド…………いや『蒼い稲妻』……?」
まるで、ワインの説明を始めるソムリエのような穏やかな口調で。
振り返ることすらせず――男は背後に座るカインへと喋りかける。
しかしその挙動よりも遥かに速く、鋭く放たれた針は――カウンターの上のカインの指の合間を縫うようにして刺さっていた。
その位置の絶妙さは、狙いが外れたのではなく――狙いをわざとはずしたことを逆に如実に語っていた。
針の穴をも射抜く、尋常ならざるその狙いの鋭さ――だがそれだけなら、果たしてカインがここまで驚愕の表情を見せたろうか。
彼が、自らの手元に突き刺さる針に驚愕を貼り付けた理由。それは――
(……見えなかった……だと!?)
かつては、高速で空を翔る飛竜を駆り――今は自身で、音の領域を超越した速さで滑空する竜騎士達。
彼らにとって、もっとも重要とされるのが、強靭な足腰と――そして『目』である。
音速で、相手へと迫っていく――それはつまり、相対的には相手もまた音速で自分へと迫ってきているということである。
したがって自然に、彼らには常人とは桁違いな動体視力を要求されていくこととなる。
しかも竜騎士の使う武器は、直線運動の一転集中で相手を葬り去る『槍』――いかに鋭く、いかに速く。
そしていかに正確に槍を相手の急所へと突き入れることが出来るか――ただ「見えている」だけでは無論、不可能だ。
一瞬で音速以上の相手を補足し、弱点を見抜き、僅かな隙に全ての力を注ぎ込む――
対集団戦のプロフェッショナルたる暗黒騎士もそうだが、それ以上に『一瞬』を見抜く動体視力。
対個人戦のエキスパート『竜騎士』――その中でも最高峰の技量を持つカインの動体視力は並大抵のものではない。
だが、そのカインをして――『見えなかった』のだ。
男が、針を投げた――その仕草が。
……ヤンを救い出さんと、男の隙を伺って――僅かにそれが見えた瞬間のことだった。
自分でも気づかないほどの微細の動きを、背を向けたままで察知し――
目に留まらぬほどの速度で、針を投擲してきたのだ
「…………この場での主導権は、完全に私達にある…………それを忘れないことだ。
もう一度だけ…………警告しておく。…………動くな。
今後、妙な素振りを見せる人間が、一人でもいれば……」
軽く、男は店内を一瞥し――そして、呟く。
「…………この店の人間全員…………死んでもらう」
瞬間――感じた強烈な悪寒に、ラディは背を震わせた。
それは決して、錯覚ではない――バーテンダーの服に身を包んだ男が発する、凄まじく研ぎ澄まされた殺気のためだ。
……果たしてこれが、先刻までこの静かな店の店主であり――オルステッドの言葉にやんわりと答えていた男と同じなのか。
まるで店に溶け込むようなあの雰囲気は一転――今の男の纏うそれは、研ぎ澄まされた氷の針すら想起させる。
一瞬で、この店全員の人間の命を奪うのも容易だと、言外に語るその強烈な存在感。
かの、根源たる白き竜――白妙と対峙したときのような、あの爆弾の炸裂したような圧倒的な『量』ではないものの。
極限まで研ぎ澄まされたその『質』は――『蒼い稲妻』や『魔王』と相対してなお、潰されることはないだろう。
……この男、只者では――ない。
「……大僧正を人質に……いったい何をするつもりだ……?」
ちらりと、男から目線を外し――主のそばにいながら何一つ出来なかったシユウの申し訳なさそうな表情に舌打ちし、
しかしゆっくりとその手を、柄から離しながら――射抜くようにしてオルステッドは、男の黒い瞳を睨み付ける。
しかし男は、その言葉を吟味するようにして――即答は控える。
焦らしているのだ。
くだらない挑発であることは判っているが――それでも、心に波風が立つのを抑えるのには苦労した。
「…………その前に…………私達の言っていることを本当に理解しているのか……確認させてもらおうか」
「……武装を解除しろ、とでも言う気か……?」
「…………いや」
オルステッドの言葉に――しかし男は首を横に振る。
そして、間違いをそっと訂正する気優しい人物の口調で――口を開いた。
「…………『魔王』…………そして、『蒼い稲妻』。…………互いに、殺し合え」
「…………!?」
穏やかな声の含む、穏やかならざる言葉――驚愕の波紋が、店の空気に広がっていく――
「…………いくらこの場を掌握しているとはいえ……流石に、その強さで知られる二人に共闘されると少々、厄介だ。
……不確定要素を放置しておくのは、私の性に合わない…………だから、二人で殺し合え」
そして同時に――酒のラベルを示すようなさりげなさで、ヤンの首を少し――前へと示す。
……流石に蹴って断るわけにはいかなかった。
こうなった以上は。
この男の言うとおりにしながら――その中でなんとか、事態を解決させる糸口を見つけ出すより、他に無い――
凍てつく赤銅と、瞬く天空の欠片が一瞬、交錯し――互い、同じことを考えていたことを瞬時に理解する。
だから――カインは軽く舌打ちし、オルステッドはやはり無言で――席を立った。
……手加減をして、ばれない相手ではない――手加減をしていられる相手でもない。
カインは無言でホーリーランスを左手に――ゆっくり、心を切り替える。
全身の筋肉――膂力を爆発させる、そのことだけに全身系を集中し――
張り詰めた空気は、まるで矢をつがえた弓の弦。
それはいつ、爆発するのか――全員が固唾を呑む中で。
……いよいよ、放たれんとした――正にその時だった。
「まぁぁぁうぅぅぅっんぅぅんあってぇぇえんくれぇぉぇええよぉうぅぅぅ!!」
その空気をぶち壊しにするように響く――ろれつの回らないその言葉。
視線の集中したところにいたのは、まるで蝙蝠を思わせる痩身をくねらせ哄笑する男――『トム』だ。
「どぉぉぉぉうんっううせぇぇころぉんっすぅんなら、ボゥクにこぉぉぉろさぁぁせてよ! ヒャハハハハハハ!!」
笑いながら――蛇を想起させる細い、長い舌でその手のナイフを舐め回す。
全員が、固唾を呑む中――ヤンを人質にした男は――
「…………いいぞ」
ゆっくり、首を縦に振っていた。
「ヒャハハハハハハァ――!!」
その瞬間――すでに『トム』と呼ばれた男はカインへと踊りかかっていた。
無論カインは――そしてオルステッドも、戦闘の対象をトムへと切り替えている。
……しかし、このトムという男――薬物で、まともな思考能力を失っているのだろうか?
史上最高の竜騎士『蒼い稲妻』に攻撃を仕掛けるとは、無謀もいいところ――誰もがそう思っていた。
他ならぬ、襲われたカイン自身さえ。
しかし――
(――速い!?)
軟体動物のように足音を感じさせない動きで――しかし両手に構えた大振りのナイフの刃は恐ろしい勢いで迫っていた。
しかもそれでありながら、背後から挟撃しようとしたオルステッドへ牽制にナイフを投擲するのを忘れていない。
トムの奇怪な笑い声が、そのあまりの速度の速さに歪み――
斬撃は紙一重、絶妙にタイミングをずらして左右から襲い掛かってきている。
だが、判断は一瞬だ。
大きく、体を右に裁いて斬撃をやり過ごし――同時に背後から迫る一撃へと肘を叩き込む。
その反動を、利用して――カインは迷うことなく、その左腕のホーリーランスを突き入れる!
槍の軌道――その延長線上に、遮るものは何もない。
愚かなトムの体を貫き、爆砕させたかに見えたその一撃。
しかし――あまりに軽すぎる手ごたえは、それを真っ向から否定していたのだった。
「あぁぁぶぅないあぶなぁぁい……もぉぉうんぅすんこぁぉうしでてゅらぬかれるところだったくにゅらあうよ!」
その声は、下に――視線をめぐらせたカインは軽く目を見開く。
何故なら、床にしっかりとつけたトムの足――その下から、歪んだ声は響いてきたからだ。
まるで、ブリッジの要領で――トムは刺突の瞬間、上体を逸らし――そしてそのまま、
反り返って自らの股下まで頭を持っていっていたのである。
骨格というものを完全に無視したかのような、脅威の柔軟性と身体バランス感覚――
だが感嘆している余裕は無かった。
トムはそのまま、床に手を突き――両足を思い切り振り上げたのだ。
たちまち、背筋に引かれ――ばね仕掛けのように跳ね上がった両足は、それだけで十分な凶器となりえた。
寸前、退いたカインの前髪を数本、切り払って――刃を想起させるその両足をぴたりと合わせ、
器械体操の要領で手を跳ね上げ、着地するトムだったが――
「――甘いな」
聞く者を完全に凍てつかせるような、冷ややかな声は――トムの背後から、静謐に。
そして次には、空間を烈断しかねないほどの苛烈極まる鋼の軌跡が、トムの左肩から股下を斬り落としている。
停滞は、無い。
その軌道は床につく寸前、爆裂したように跳ね上がり――今度は逆の軌道で、トムの右肩から抜けて。
そしてトムの姿がかき消える。
……残像だと、悟ったときには――けたましい哄笑は、頭上――天井からだ。
「ヒャハハハハハハ!! おぉぉぉぉぉもぉぅゅうぅんぅえあろぅしろぉぉんゅういにゅううあああああっ!?」
まるで流動体のように、天井にへばりつくようにして制止するトムの姿は、どこか蝙蝠すら連想させる。
しかし、撓めた筋肉が爆発した次の瞬間、そこにいたのは獲物を求める猛禽のそれだ。
ぬらりと輝く二つの軌道から、男たちは逃れ――着地の瞬間、えぐれた床板の欠片が辺りへと飛び散る。
それは、たいした殺傷力を持っているわけではなかったが――巻き込まれていた観光客達に、
この光景が現実のものだと思い起こさせるのには十分すぎる火種となった。
悲鳴、怒号、絶叫――パニックの多重奏の中、すでにカインはトムの間合いへと踏み込んでいた。
そして屹立した『壁』――カインの左腕から繰り出される刺突の嵐は、正に隙間無く『壁』そのものだ。
カイン自身の放つ、圧倒的な気迫と相まって――常人なら一瞬で押し潰され、挽肉と化しているであろうその攻撃。
しかしそれを、まるで冗談のように体をぐねぐねと曲げ、紙一重で躱すトム――カインは思わず舌打ちする。
『柳の動き』とでも言えばいいのだろうか――相手の動きに抗わず、受けるのではなく流す、その独自の体の運び。
十分に戦いの素質がある人間でも、会得できるのは数千人に一人、あるかないかと言われる一種の『極意』のようなものだ。
この動きを会得している者には、強い一撃であればあるほど――苛烈な一撃であればあるほど、それをさらりと流してしまう。
どこか、あのホブス山でラディの見せた、あの異常な肉体の動かし方にも共通したこの動きは――もっとも戦いづらい。
しかし、だからといって焦れば――おそらく瞬時に、その両腕のナイフは自分の首をかききるだろう。
最早カインは、このトムという男をただの薬物中毒者などとは見ていなかった。
「――らあああああああああああああッ!!」
さらに一歩、踏み込み――音すらも貫き、壊しかねないほどの圧倒的な速さの一閃。
しかしそれは、寸前――ぐにゃりと曲がったトムの脇を、ただ空しく貫いていくだけだった。
「ヒャハハハハハハ――!!」
まるで、突き出した左腕を這い上がってくるような感覚――それは錯覚などではない。
殺気は、行動より一瞬早く、カインの腕をぞろりと駆け上がり――次の瞬間、ナイフは迷うことなくその左腕を貫かんと迫る。
間に合わない――
しかし、そのナイフがカインの腕を貫くことは無かった。
寸前、トムは大きく体制を崩し――もう片方の手に握ったナイフは宙を舞っていたからだ。
オルステッドが、その愛剣であるブライオンの鞘を使い、トムの手へと叩きつけた一撃――それが彼にナイフを取り落とさせていた。
だが、トムのその行動は決して失態ではない。
もし、ナイフを取り落とさず――オルステッドのその一撃『ハンマーパワー』を受け流していなければ。
……戦槌の一撃にも匹敵するその一撃は、トムの掌の骨を完全に破壊してしまっていただろう。
しかしそれでも――カインを目の前にして、その体勢は致命的としか言いようが無かった。
空気の抵抗を食い破り、疾走する光の穂先――寸分たがわず、心臓を貫かんと迫るその一撃。
カイン達には勝利をもたらす一撃であり、トムには死をもたらす一撃。
絶体絶命の状況にありながら――だがオルステッドは、見た。
トムの表情に浮かんだ、喜色を。
ナイフを取り落とした手が、迫る。
理屈ではない、それは戦士としての勘か――オルステッドは鞘を自らの前に掲げ、全力で地面を蹴って後退する。
そしてそれが――結果として彼の命を救うこととなった。
トムをして、無理な体勢からの一撃――ホーリーランスの一撃をかわしきれず、胸元に描かれる紅の一文字。
しかしそれでも、トムの手は止まらず――オルステッドの喉を掴もうとして、鞘に阻まれた。
そして、次の瞬間――喉を浅く裂く、灼熱感――
トムはブライオンの鞘を『握り潰し』、そのままその指はオルステッドの喉笛を浅く引き裂いていたのだった。
幸い、命に支障をきたすようなほど抉られてはいないものの――滅多に損傷しない部分の痛みに、オルステッドは顔を顰める。
……尋常な、握力ではない――もし鞘を掲げていなければ、握り潰されていたのは――
一方、トムもまたカインの一撃の反動を利用して、独楽のように跳躍し、着地し――その爪に残ったオルステッドの血を眺めやる。
「ヒャハハハハハハ!! やぁぁぁっぷぅぁあありいいんっううなぁ……ひとをぉぉころぉぉゅうすのって、いいなああああ!!」
そして、次の瞬間――トムの全身からもまた、凄まじいまでの鬼気が放出される。
それは、男の放つ洗練されたそれとは真逆に位置するとでも言えばいいのか――
殺戮の本能に委ねた原初の鼓動、狂気に彩られた灼熱の気迫。
その場にいるだけで、焼け付きそうなほどに狂おしいその気迫は――先刻、ナイフを投げてきたときと比べ物にならない。
改めて――二人はこのトムを、ただの薬物中毒者から訂正した。
常軌を逸した、その行動――だがそれ以上に常軌を逸する、その柔軟性と戦闘センス――そしてこのプレッシャー。
……少しでも、気を緩めれば。
その瞬間が――命を失う瞬間だ。
頬を伝った一筋の汗が、足元に散らばるグラスの欠片に小さく跳ねた。
誰もが、その超人たちの戦いに目を奪われていて。
……だから、誰も気づけなかった。
ヤンを人質に取った、美しい面持ちの黒い男――その首筋に当てた針はぴくりとも動かさぬまま。
しかし、もう片方に握っていた針が――増えている。
その微細な変化に気づいたのは――他ならぬ、捕らえられていたヤン自身だった。
「…………私は、仕事にあまり不確定要素を含むのは嫌いな方だ…………。」
…………トムもそうだが…………基本的に、何も考えていないからな…………私が……頭脳役というわけだ」
ヤンが口を開く前に、口を開いたのは――男の方から。そこには僅かな苦笑の響きさえある。
しかしヤンが口を止めたのは、男が針を首筋に当てる、その力を若干強めたからだ。
そして――彼が口を再び開いた時。
そこにあったのは――凄まじく研ぎ澄まされた、殺戮者のそれだった。
「…………目撃者を残すわけにはいかない。全て…………残らず、始末する」
「――!?」
瞬間、氷の針が心臓に打ち込まれたような、そんな殺意に――店の全員が、男に視線を向ける。
死と隣り合わせの戦いを繰り広げているオルステッドとカインですら――そうせざるを得なかった。
それほど、その殺気は苛烈で――鋭く。
非戦闘員でなくとも気づけるほど、直接的で。
そして等しく、全員へと向けられていて。
男の握る針は、この店にいる人間の数と全く同じ。
そして――男はすでに、その手を高く掲げていたのだった。
だがその挙動に――たった一人、先んじて気付いていた人物がいた。
ラディだ。
それは偶然のいたずらか、それとも同じ「投擲具」というものを操る故に、気付くことが出来たのか。
しかし――気付けた瞬間、彼はこの状況から来る、その直後の未来をシュミレートし――愕然となった。
――間に合わない。
尋常ではない反射神経を持つ、オルステッドとカインならば、自らに飛来する針は受け止められるだろう。
魔道を極めたクレセントもまた――何らかの方法で、この一撃を相殺できる可能性はある。
シャオに飛来する針は――シユウが体を張れば、なんとか防げないものではない。
だが。
……それ以外の人間は――間に合わない。
この男の、投擲具の技量は――カイン相手に見せたあの一撃で、殆ど見極めていた。
だからこそ――戦闘訓練など受けたことの無い一般の観光客は、認識することすら出来ず絶命するだろう。
鍛錬を極めたモンク僧たちも――彼らをもってしても、躱すことは不可能だ。
そして何より。
……テーブルの陰に隠れている、ミレイユ――
あの針は、テーブルなど簡単に貫通し――確実にその背後まで到達する。
……ならば、ミレイユは。
このままでは、ミレイユが――殺され――
「……しかし、忘れるな。お前の暗黒は『力』としては完成を見た。
だが真なる意味で『完成』した訳ではない――」
「罪滅ぼしをしたいからなのか?」
――お前が、この少女を――
――誰も、守れなかった癖に。
迷いが無いわけではなかった。
だが――ラディはその迷いを、心から引き千切る。
迷いは、剣を鈍らせ――鈍った剣は、何も斬れない。何も為せない。
――何一つ、守ることなど出来ない。
守ることの出来る、力がある――ならば。
それの使いどころを、見誤ることなど――あってはならないことだ!
瞬時に抜いた、父の遺志継ぐ暗黒剣へ。
右腕を介し、自らを注ぎ込むイメージ。
最早慣れた鼓動、全断の刃――いや、違う。
彼が欲するのは、全てを断ち切る刃ではない――!!
「――全てを――全てを遮断する、壁を――!!」
振り下ろされる、手の前に――ラディは跳躍し、立ち塞がって。
「全断の領域・アポカリプス――アポカリプス・フィールドォォォォッ!!」
瞬間――全断の刃は、その刀身を十数メートルの巨大な刃へと変え――文字通り「壁」となって、男の前に立ち塞がった。
男の放った針は、全てがその全断の領域『アポカリプス・フィールド』へと喰らいつき――そして、『消失』した。
静謐と余裕を保っていた男の表情に、初めて入る驚愕の亀裂。
生まれた、一瞬の隙――それを『魔王』も、『蒼い稲妻』も――見逃さぬ訳が無かった。
トムを一瞬で置き去りにして、ヤンを取り返そうと床を叩き。
とうとう、二人はヤンの奪回に成功する――かに、思えた。
その流れを変えたのは、凄まじいまでの破砕音と――粉塵だった。
粉塵は、まるで煙幕のように店に充満し――その場にいた全員の視界を遮った。
それが、破壊されたこのファブール城の塔の外壁と、いち早く気付いたのはオルステッドだ。
いかな力を加えられれば、こうなるのだろう――堅牢な石造りの外壁は、見事なまでに微塵に粉砕されて。
……巨大な穴を開けた居酒屋『あまき』に、静かに降り注ぐのは月の光だ。
だが、その夜気を貫き――店内に無数に飛来する高速の物体!
粉塵のせいで、正体はわからない――だが人を貫き、殺すには十分すぎる速さと鋭さを持っていることは判った。
放置しておけば、多数の死傷者を生み出しかねないだろう。
しかし、それでも――オルステッドが契約しているのは、ファブール大僧正ヤン・ファン・ライデンのみ。
多少の犠牲を払おうと、ここで彼を奪回せねば――次にいつこのような機会が訪れるか、知れたものではない。
だから、オルステッドはそのまま――ヤンの元へと、駆けようとした。
……だがその時――偶然、視界に入った金髪の若者。
『暗黒』を使い、全断の領域を展開した彼の姿が、視界に入って。
気付けば、オルステッドは踏みとどまり――ブライオンを構えていた。
「――インケイジ」
瞬間、凄まじい速度でオルステッドの剣が辺りを薙ぎ払う。
あえかな光に燐光を返し――彼を中心に『剣の結界』とでも言うべき濃密な斬撃の嵐が巻き起こった。
瞬く間に、飛来する物体の殆どが叩き落され――しかしそれでも全てを薙ぎ払うことは出来ていなかったが――
「輝け――ホーリーランスッ!!」
見れば、カインのホーリーランスから無数に発生した光の槍が、彼の撃ちもらしたそれを全て消滅させていた。
そんな中――おそらく自分が叩き落したものだろう、飛来してきたあの物体が足元に偶然、転がっている。
すばやくしゃがみこんで拾えば――それは、クロスボウやボウガンに利用するための、クオレルと呼ばれる金属の矢――
「……どうだぁ? 挨拶代わりのクオレルの味は。流石はこの『メルトドウゲン』さまさまだなぁオイ?」
「…………『オートボウガン』だ。…………二文字しかあってない……」
「ん? そうだっだか……いけねぇなぁ。がっははははははは!!」
針を手にした、静かな男の突っ込みを笑い飛ばし――壁にあいた大穴からゆっくりと現れたのは。
一言で言うならば、巨漢とでも言えばいいのだろうか――2m前後の長身をややかがめ、穴をくぐった男。
その鍛え抜かれた肉体は、丁度甲冑を着込んだクレセントと同じぐらいに太く、そして厚い。
だがクレセントと違い、その厚みを構成するのは――傷を勲章代わりに、全て混じりっ気なしの鍛えられた筋肉だ。
その手に握られた、複雑な形のクロスボウ――そこから、今のクオレルが放たれたのだろう。
年齢は40がらみといったところか――禿げ上がった頭の下、豪快に笑う男だった。
そして気付けば、ヤンを人質にした黒人の美青年――そしてトムが、彼の左右を固めるようにして立っている。
……説明されるまでも無い――この壮年の巨漢もまた、男たちの仲間らしい。
と――
「おい……そこの。黒い甲冑着込んだ、オメェのことだよ」
巨漢は笑いを納めながら――その視線をクレセントへと向けている。
そして、どこか酒場で酒を楽しんでいるかのような陽気な口調で――告げた。
「それ以上は止めとけや……それ以上、その妙ちくりんな魔法の詠唱を続けるのは、よ……」
「……!?」
その言葉に――クレセントに、少なからぬ動揺が走る。
「おおかた、大僧正を助けるため……気取られねぇように、言葉を使わないで魔法を練り上げてたんだろ?
だが……おいたは、ここまでだ。……オメェの魔法は、どうやら相当に速ぇみてぇだがな――」
瞬間――巨漢の手に握られた『オートボウガン』が軽く跳ね上がる。
そこに番えられた、クオレルの矢尻は――クレセントの額へ、寸分の狂い無く狙点されている――
「――だが、こいつの引き金も相当……軽いんだぜ?」
浮かべる、シニカルな笑み。
……クレセントはその『設計図』の構成を霧散させるより無かった。
捕らえられたヤンには影響を与えず、確実に男のみを葬り去るよう、改編し練り上げていた魔法の『設計図』――
無論、『気付いた』という巨漢の言葉がはったりでないという確証は無い。
……だが――この重戦士然とした巨大な甲冑に身を包んだ自分を一瞬で魔道士と見抜き。
そして誰にも気取られぬよう、思念だけで練り上げていた『設計図』の位置を、即座に見て取るなどという偶然があるだろうか?
憶測だけで物事を楽観視することは出来ない――こと事態は、ヤンの命が関わっているのだから。
「……さて、あんまり性急すぎるのもアレだ……今日のところは、ここいらで帰りてぇトコなんだが……そうもいかねぇみたいだな?」
巨漢は、呟きながら店内を見渡し――獰猛とも言える、嬉しそうなな笑みを――よりいっそう強めて呟く。
「『魔王』がいるって話は聞いてたが……まっさか『蒼い稲妻』までいるたぁな……オールスター登場、ってか? がっはははははは!」
「……私達の二つ名を知り、互角に打ち合う……お前達は一体……何者だ……?」
鞘を失ったブライオンを、掲げるようにして構えたまま――オルステッドは場の緊張を壊さぬように問うた。
そして、3人の男たちはそこで、それぞれに似合った笑みを浮かべ――
「ボゥクぅぅぅんゅうううぃうはぁぁトォォムだよぅ! ヒャハハハハハハ!!」
「………………リーウェイル、だ」
「で、オレの名前がゴルズ・アリト……流石に、傭兵の中でも伝説みてぇな『魔王』さんには、
『ブラッドバレット』の名前は聞いたことねぇってか? がっはははははは!!」
「ブラッドバレット…………だと!?」
豪快に笑う、巨漢・ゴルズの言葉に――オルステッドの声がひび割れたことに、ラディは驚愕していた。
無論、ラディは『ブラッドバレット』などというものは知らない。
だが、今の反応を見る限り、オルステッドは何かを知っている上に――彼の声に、含まれていたのは。
驚愕と、戦慄――
しかし、『魔王』に恐怖などという感情は存在しない。
一瞬の瞑目の後――さらに鋭い視線で、三人を睨み――その全身を、激突の一瞬に向け、備えていく――
「……テメェ達はこの大僧正を取り返したい……オレ達は今後のために、大僧正を連れ去りたい。
互いに、口じゃあ引けねぇ場面だ……さて、どうしたもんだかな……愉快な状況だぜ」
ブラッドバレットを名乗る三人と、ラディ達は互い――予断ならぬ様子で、睨み合う。
そして、皮肉なことに――ゴルズの参入は、かえってこの事態を硬直させることとなってしまっていた。
先刻までと変わらず、美形の黒人――リーウェイルはヤンを捕らえてはいるものの、
その立ち位置がカウンターの中だった先刻とは違い――彼の背後に回りこむという選択肢が新たに増えていた。
また、この位置ならばカインやオルステッドだけではなく――クレセントやラディ、ミレイユにも奪回のチャンスがある。
……しかしそれを、三人は決して許さないだろう――気概だけではなく、その実力が語っている。
付け入る場所が生まれたとはいえ、ヤンを救い出せる可能性を持つ今後の行動は――二つ。
全員が全力で、ヤンを救出するためだけに力を注ぐか。
それとも、全力でこの3人に挑みかかり、乱戦の中に救い出す機会を見出すか――
だが、2つしかない選択肢ならば、どちらかに対処されれば瞬間、その可能性は消えてしまうだろう。
果たしてラディ達が、どちらの手段でヤンを救い出そうとするのか。
そしてゴルズ達は、どちらの手段でくると踏んで、対処してくるんのか――
互い、先の先の先を読む心理戦のみが続き。
限界にまで引き絞られた空気は、その終焉の時を今か今かと待ちわびている――そんな、状況。
……だが、それは次の瞬間――木っ端微塵に、打ち砕かれてしまったのだった。
むくり――そんな音がしたかと思えるほど、その挙動はゆっくりと、不気味だった。
ラディ達は互い、視線は外さぬままに――それが誰の挙動であるかに意識を傾ける。
それは、今の今まで意識を失っていた――白衣を着た、亜麻色の髪の少女・エルナのもの。
彼女は顔を伏せたまま――のそりと、平常の彼女からは考え付きもしないほどものぐさな挙動で立ち上がる。
「…………ふふふ…………ふふふふふふふ……」
伏せた顔から、彼女の表情を汲み取ることは出来ない。
しかし、その体から放っている、異様といえる雰囲気は一体、何なのだろうか。
「ふふふ……ふふふふふふふふふ…………」
何がおかしいのか――小刻みに肩を震わせ、笑うエルナに――示し合わせたように、ラディもゴルズ達も視線をそちらへ向ける。
……そして――変化が、起こった。
「ふふふ――きゃははははははははっ♪」
顔を上げた、エルナの瞳――普段ならば、そこには落ち着いた知性の輝きが宿っているはずなのに。
今のエルナの瞳にあるのは、まるで乙女のようなきらきらした星の輝き――それもどことなく、危険な輝きだ。
彼女はそのまま、その場でびしっとポーズを決め、叫ぶ。
「この世の悪に明日は無し……愛と正義は力で伏せる!!」
台詞に合わせた振り付けは恐ろしく切れのいい動きで――どこか見るものを引き付ける、不思議な魅力さえあった。
「弱きを挫き、強きは滅殺! ご存知毒舌理系美少女、魔法少女「プリティ☆エルナ」ただいま参上っ♪」
びしっとポーズを決め、ウインクをしたエルナ。
その背後で――何か凄まじい視覚効果が発生した気がした。
……そして。
「…………………………………………………………」
その場にいた全員が――完全に、呆けてしまっていた。
中でも、オルステッド・カイン・クレセント――
冷静・冷徹・冷厳の三つ揃えで決めたこの伊達男三人衆が、そろって『間抜け』と形容できるほど呆気に取られている。
これは、過去の歴史を紐解いても、そうそう見られるような表情ではなかったに違いない。
普段のエルナとの、あまりといえばあんまりなその『ギャップ』に、一瞬とはいえ完全にこの状況を忘れ去っている。
「…………あちゃー…………やっぱり、『出ちゃった』か……」
嘆くように呟くミレイユの言葉さえ、聞こえないほどに。
一方、この場を白けきらせたエルナといえば――頬に指を当て、小首をかしげるようにして呟く。
その挙動さえ、普段の彼女から想像もつかない仕草である。
「あっれれー? おっかしぃなぁ……みんな、ノリが悪いよ? う〜ん……どーしたら、みんな楽しくなれるのかな……」
しばらく、体を振るようにしてその表情に「?」マークを浮かべていた彼女だったが――
「あ、そーだっ♪」
瞬間、エルナの頭の上で豆電球が点灯した――ような錯覚を、覚えた。
「気分を盛り上げるときは……やっぱりこれだよねっ♪」
そう言って、彼女は腰の辺りに手を伸ばす――そして引き抜かれたのは、明らかに過剰というべき本数の、試験管――
「そぉ〜れ、きれいなおっほしっさまぁ〜っ♪」
ウインクしたところから、パステルカラーの星が零れ落ちたような――そんな仕草で。
エルナは、試験管をあたりにぶちまけて――
瞬間、連続する爆発と紅蓮の炎が店内を席巻していった。
……実際には、爆発は小規模で、温度も低く――よほど至近距離でもない限り、軽く火傷するかしないかといった程度のもの。
だがしかし――目の前で連続して咲く紅蓮の花は、観光客達をパニックに叩き込むには十分すぎるほどだった。
極限に飽和した恐怖がもたらした仮初の平穏を、再び阿鼻叫喚の混沌支配するるつぼへと変えた当の少女はといえば――
「ほ〜ら、みんなたのしそうなのが一番よねっ♪ きゃはははははははははっ♪」
まだ倒れていなかったテーブルに座り、足をぶらぶらさせて童女のように笑っていた。
そして――その変化は、硬直した彼らの状況すらも変化させていた。
ブラッドバレットと自らを呼んだ3人――彼らは、先刻ゴルズの空けた大穴の淵へと後退して。
「ま、なんだか判らねぇが……オレ達はこう見えても慎重でな。今日のところはここらでおいとまさせてもらうぜ?」
「くっ――待て!!」
このまま、ヤンを連れて行かれるわけには行かない――オルステッドは瞬間、彼らの元へと疾走し。
……だが――
「――なら、返してやるよ」
何も考えていないような口調で、軽くゴルズは喋って――そしてその言葉通り、ヤンを開放した。
「……!?」
彼らの意図が読めず――だが、実際にヤンは開放されている――自分の方へと押しやられたヤンを、慌てて抱きとめた時。
……オルステッドはそこでようやく、この人質解放の意図を完全に把握した。
だが――
「じゃあ――あばよっ!」
ゴルズの手にした、複雑な機械――それが瞬間、凄まじい光を放ったのだ。
文字通り、目がくらみ――潰れるかもしれないほどの、圧倒的な光量。
オルステッドは視界を失わぬよう、寸前目の前に腕をかざして――だが、光が消えたときにはすでに、彼らの姿は無かった。
慌てて穴の方へと駆け寄れば――塔の三階分の高さを悠々と落下し、危なげなく着地していたゴルズ達はすでにチョコボに乗り、
その背は一秒ごとに小さく、見えなくなっていく――
(逃げられたか……!!)
内心、臍をかむオルステッド――
あのままヤンを連れ帰れば、ファブールは全ての状況を投げ打ってでも大僧正を取り返さんと躍起になるだろう。
恐らくここで目撃者を全て消すことにより――彼らは追撃までにかかる時間を利用して逃走する予定だったのだ。
しかしそれも――自分や『蒼い稲妻』、ラディ達がいたことによって失敗してしまった。
だから、大僧正を開放し――それにより第一の目的を達したことによる達成感と、次の目的の優先順位を混乱させ、
その隙を突いて逃走するというとっさの判断を下したのだ。
咄嗟とは考えられないほど、鮮やかな引き際の見極め――それが示すのは、相当に修羅場を潜ってきたことで、
生と死を分けるその場の『流れ』を見極める、傭兵として最も大切な感覚が研ぎ澄まされているという証拠――
(ブラッドバレット……名を語る偽者じゃない……あれは本物か。だとすると、厄介なことになったな……)
これからのことを考えると、頭が痛くなってくるようだったが――しかし。
最優先事項であった、大僧正の救出ということを達成できただけ、まだ運がよかったと見るべきだろう――
「大僧正……お怪我はありませんか!?」
「あんた、どこか痛いところはないかい!?」
「うむ……大丈夫だ。……すまんな、シユウ……オルステッド。むざむざと、人質に取られてしまって……」
「いえ……悪いのは大僧正ではありません! 私がもっと、しっかり大僧正を守っていれば……」
「護衛として私達は雇われている。……今回の一件は、私達の手落ちだ……すまない」
オルステッドは静かに頭を下げ――ともあれ、これで一件は落着し――
「きゃはははっ♪ きゃははははははははっ♪」
まったく落着などしていなかった。
完全に、別の人格になったようにしか見えない、今のエルナ。
まるで子供のように足をぶらぶらとさせ、頬にさした朱はどこかりんごを思わせる。
「さあ、まだまだ夜は終わらない? つぎ、いってみよっか〜っ♪」
「ミレイユ……あれは一体……なんなんだ?」
「何で私にそれを聞くのよ?」
「だってイロモノ系はミレイユ担当だろ」
「真顔で言わないでよラディ〜……ま、知ってるけどね♪」
「やっぱり……」
どこかぐったりしたようなラディだが――内心は誰もが彼とそう変わらない。
一人ミレイユはどこかこの状況を楽しんでいるかのように楽しげに、指をぴっとおっ立てる。
「エルナはね……基本的に、お酒がぜんっぜんダメで、すぐに酔っ払っちゃうんだけどね……。
酔うとぜんっぜん性格が変わっちゃうのよ。……あんなふうに」
ミレイユの指差す、エルナの姿――まあいちいち言葉にしなくとも変わっているのは一目瞭然だ。
「なんというか、あの子って昔っから自分に結構厳しいタイプだったから……その反動、なのかしらね。
普段大人ぶってる分、お酒が入るとかなりあーぱーな性格になるのよね……まったく、誰に似たのかしら?」
その言葉を口にした瞬間、全員から突き刺さる視線を軽やかにミレイユが無視する中。
(……そういえば、先日の商業区での時も似たような雰囲気だったが……無意識の願望の現われなのだろうか?)
ただ一人、クレセントだけが若干違うことを考えていた。
……もっとも、この場合は年相応に素直になったというより、かなり幼児退行しているきらいがあるような気もするのだが。
「けど……あーぱーになってても、基本的にはエルナのまんまだから……めっぽう強いのよね……。
普段は抑えてる手加減とかも一切無くなるし……それに昔と違って『ブレンド』もあるし……困ったわねぇ」
「困ったって……何か対処方法とか無いのか?」
「まあ、お酒が抜ければ元に戻るから……もう一度気絶でもさせれば何とかなると思うけど……よっと♪」
ミレイユは両手首を一度大きく振るい――引き出した大量の『糸』をその手に握る。
「ま、自業自得とはいえ……私も責任感じてないワケじゃないしね♪ ……さ、エルナ。よい子はもう寝る時間よ?」
「むむぅ……出たなぁ、おっぱい星人! 世界の敵めー!!」
いかに酔って、性格が変わっているとはいえ――あんまりといえばあんまりなエルナの言葉に、ミレイユは思わず噴出す。
しかし、それも一瞬のこと――すっと目を、細めたとき。
「大丈夫よ♪ ……痛くはしないから」
その口調と裏腹に――ミレイユの表情は真剣そのものとなっている。
それは今のエルナが、冗談を交えていては止めることなど出来ないだけの力を備えているためだ。
そして次の瞬間――ミレイユの繊手から放たれたおびただしい量の『糸』。
きらきらと月の光に瞬くそれは、幻想的でありながら――全く隙の無い動きで、エルナへと踊りかかっていった――
しかし。
「ちょっと胸がでかいくらいで……いいきになるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
エルナの腕が――まるでミレイユのように閃いて。
瞬間――全ての『糸』が弾かれ、あらぬ方へと飛ばされる――違う。
(…………え?)
糸は、エルナを一本も捉えられなかった。
だが、あらぬ方にそれたのならば、その勢いを失い――だらんと垂れ下がってしまうはずだというのに。
ミレイユの指にはまだ、しっかりと『糸』の感覚が残っている――
もう一度、エルナを見る。
彼女は弾いたうちの一本を、その指につまんでいた。
きらきらと輝くそれを目で追えば――弾かれた『糸』全てが緻密に組み合わせられ――そして、その輝きは自分の方へと――
「それだけ、胸胸胸って自慢するなら……いっぺんみせてみろってんだー!!」
瞬間、エルナの手が閃いて――彼女の操る『糸』は、彼女の思うとおりに切り裂いていく。
……最初、ミレイユにはエルナが何を切り刻んだのか――判らなかった。
ミレイユの視界に、それは――丁度、羽毛の枕が裂けて中身が出てきた、あの情景を連想させるようにそれは見えて。
……だが、そうだとするならその羽毛は黒に赤――ずいぶん奇妙な色ということとなる。
やがてそれが、羽などではなく布地の端切れと気付いたとき。
……急に肌寒くなった、自身に。
目を、落として――
「…………ひゃあああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
「ふ……ブラだけは残しておいたわ……これが武士の、せめてもの情けってやつよ……」
全く意味不明なエルナの言葉など、聴いておらず――ミレイユは胸元を隠すようにしてその場にへたり込む。
エルナが弾き、組みなおした『糸』が切り裂いたもの。
それは――ミレイユの服だったのだ。
彼女の、上半身――あの赤のローブも黒のニットワンピースも、へそから上が見事に切り裂かれ、珠肌を外気に晒していた。
いかにファブールとはいえ、やはり酒場である以上――これほどの美人の艶姿に、店内は歓声で持ちきりとなる。
そしてその中で――流石のミレイユも平気ではいられなかったか、耳の先まで赤くなってうつむいていた。
……とても戦闘どころの騒ぎではない。
(…………しかし以前、カイポでは確かシーツ一枚で平然としていたように思ったが……やはり、違うものなのだろうか?)
そんな中、やはり他人とは違う――というより、少しずれたことを考えているクレセント。
(……薄いピンクか。意外だな)
(この類の女の定番は黒だと思っていたが……)
そしてこの状況でさえ冷静に分析し、バロンきっての美形二人が抱いた感想も――かなり状況とちぐはぐである。
……見かねたシャオが、ミレイユをそっと店の隅へと連れて行き――
エルナが『正義は勝つ』だの、『これからは大きいことより慎ましやかさ』などと意味不明な事を叫んで笑う中。
ふっとカインは、あることを思い出し――顔を向ける。
「…………ラディ。意識は……あるか?」
「……………………………………はっ、はいっ!?」
予想通りというべきか――まるで思春期の少年が、年上のお姉さんの着替えを偶然除いてしまったかのように。
完全に、上の空でぼうっとしていたラディ。
どうやら、ヤンを救い出したことにより、一時的に緊張が解けてしまったのがまずかったらしい。
戦闘時の自身になりきれていなかったラディには、相当の破壊力を持った光景だったようだ。
だが、心配そうに伺うカインの表情に――ラディはあわてて自分の胸をばしっと叩くと、
「だっ……だだ、大丈夫です! ミミ、ミミミミレイユがあ、ああなった以上、今度はオオオレが――」
「…………本っ当に大丈夫か?」
「だ、大丈夫ですって! ほらこのとおり、剣を抜く手も鮮やかに……って、ぐ、ふっ……ぬ……抜け……うわあっ!?」
鞘から短剣を抜くことさえおぼつかなかったラディ――だが引き抜いた瞬間、思い切り自分の足に蹴躓く。
前方につんのめりそうになり――あわてて体制を整えれば今度は横に足が滑る。
バランスを保とうと、あがいてみるものの――やはり重力の束縛に、抗うことなど出来はしなかった。
ラディはそのまま、派手に転倒し――カウンターにあった酒棚に頭から突っ込んでいった。
グラスやボトルが砕け散り、棚は倒され、凄まじい物音が連続して――やがて、静寂。
そこには、何一つ動く気配は感じられなかった。
ラディ・オルティニア