Final Fantasy W
After story
〜第三十七話〜長い長い長い一日(朝〜昼)〜
「……クレセント……ごめんなさい……」
誰もいない、部屋の隅で――ぽつりと漏らされた、声。
がくりと、うなだれた首――そこから出るのは、敗北感に打ちのめされた亡骸の声だ。
……自分は、自分を守るだけの力があると思ったのに。
思った、のに――
「……私……変わっちゃった。……変わっちゃったのよ……」
そう――もう、取り返しの付く次元では、無いのだ。
自分は変わってしまった。
失ってしまったのだ。最も大切なものを。
犀は、投げられてしまったのだ――
あの、知能冴え渡る小さな天才――エルナ・セルリードは。
……クレセントの知る、エルナはもう、どこにも――
「……もう……クレセント、貴方に会わせる顔が……私には無いわ……」
何も出来なかった、無力感。
呟いたのはもう、あの怜悧とさえ表現できるほどに。
知恵冴え渡っていた少女のものではない。
……だが――
「……けど」
顔を、上げたとき。
……その、琥珀色のブラウンの瞳には。
「けど……このままでは終わらない……終われないのよ……!!」
――瞳の奥の輝きは、まだ彼女の中で死んでいなかった。
「はいはい買った買った! 今日の朝一で仕込んできた鮮度バツグン! 鰹だよ!!」
「奥さん! 今日の食材は旬ものが揃ってますぜ! 大根安いよー毎度あり!」
「うちの豚まんは中はぎっしり、皮はふんわり! ジューシーで食べ応えはファブール1だ!
そこの兄ちゃん、観光のお供に一つ、こいつぁ常識だよ!!」
ファブール城の一角――
いや、そこはもう『城』と呼んで正しいのだろうか?
この閑静なファブールの中にあって、唯一強い活気と生活の匂いの染み付いた区画――
一般には『商店区』と呼ばれている、ファブールの有名な区画である。
元はファブールを訪れる者たち相手に商売を始めたのがきっかけのこの区画は、
ファブールの中でも居住区に続く増改築候補地の筆頭であり、すでに幾度と無く拡大・拡張されている。
そのためか、内部は迷路のように非常に複雑な構造をしており――しかもその中に、街一つ分に相当するほどの
大量の商人たちが半ば無理やり自分達のスペースを確保し、商いに勤しんでいるため、その中は正に『混沌』――
一つの街に相当するほどの人数の商人たちがひしめき、声を上げて客を捕まえようとするその活気は世界的にも有名だ。
単純に商業と言う意味なら、商業国家ダムシアンも有名だが――
しかしダムシアンには、どこか活気の中にも整然と整ったところがあった。
しかし、このファブール、この区画は――大きな布を一つ敷き、そこに商品を並べれば『店』と認知される。
ファブール商人の逞しさは、各国の商人たちも一目置いているほどである。
陽光を取り入れるため、天井をアーケード状に変更したこの区画。
人の流れがまるで、大きな河の流れのようになっているその中に――彼もまた、いた。
金の髪、紅の瞳――ラディである。
彼はこの人の海に少々、戸惑いながらも――それでも自分の目的のため、なかなかに健闘を見せていた。
両手に、大きな紙袋を提げたままで。
「……え〜っと……暗黒羊羹は二十、箱でバロンに送ったし……『忘れられし地・ファブール』最新刊は8冊……。
ストラップに、トレカにそれから古書市で『DARK NIGHT』も買ったよ……な、よし」
そう――彼のその大きな紙袋に入っていたのは――全てが全て、暗黒騎士関連のグッズなのであった。
彼は、暗黒騎士に憧れ、目指していると同時に―― 一人のファンとして、暗黒騎士が好きだという一面がある。
しかも、基本的にその生来そのものが地味なラディにしては、情熱の傾け方が尋常ではない。
……もっとも、時代の流れがパラディンに向かっている中、暗黒騎士を愛しているというのがすでにラディらしいのだが。
グッズの箱買いは当たり前、書物は観賞用・保管用・予備・それと他人への配布用に5冊の計8冊は購読。
さらに書物の場合、その内容だけではなくページ数から、一ページ一ページの構図まで完全に暗記する徹底ぶりだ。
その記憶ぶりは尋常ではなく――こと暗黒騎士の知識だけなら、クレセントをも凌駕するのではないだろうか。
無論、彼が暗黒騎士になりたいのは安いファン心理などでは決して無く、浮かれた気持ちで暗黒剣を握っているわけではない。
だが――それでも、戦いの中に身を置いていない時は、基本的に暗黒騎士関連の書物やグッズを集める日々が多かった。
「……それと、デスブリンガー奉納所の予約は済ませたし、レオナルト記念館に入館者サインインはしたし……」
そんな、暗黒騎士オタ……もとい、暗黒騎士を愛する者たちにとって、今ファブールな『聖地』とさえ呼ばれている。
かつては暗黒騎士といえばバロン――なんといっても『暗黒騎士団』が存在していたほどである。
数々の雑誌やグッズ、新聞も彼らの特集を度々組み、ラディもまたその中で育ってきた。
世界に数万人はいるとされる暗黒騎士フリークにとって、バロンに訪れるのは聖地巡礼以外の何者でもなかった。
しかし、今は――バロン国王であるセシルによって暗黒騎士団は解体、バロンは暗黒剣の廃止を開始。
そのために――国として唯一、公式に暗黒騎士の存在を認めるここ、ファブールが現在は聖地と呼ばれているのだ。
このファブール商店区には今、世界各国の暗黒騎士グッズが集結し、知る人ぞ知る静かなブームが沸き起こっていた。
……あくまで知らない人は知らないし、ブームとは本来音を立てて巻き起こるものなのではあるが。
と――考え事をしていたせいだろうか?
自分の足に毛躓いて、ラディは思い切り地面へとこけてしまった。
倒れる瞬間、紙袋は手放していたため無傷だったが――右腕をさすりながら、少しばつの悪いまま立ち上がって――
「……あ、そうだ」
その時。ふと、思い出して――ラディは紙袋からあるものを取り出す。
「折角手に入れたけど……流石にこれは、保存が利かないしな。今食べておくか」
ファブールの冷たい空気に、ほこほこと湯気を放つそれは―― 一つの饅頭。
小麦粉をこね、発酵させて作った皮で具を包み、蒸し器で蒸して製法するこの国特有のものである。
日の光につややかに輝きを返す、見るからにふんわりと柔らかそうなそれをラディは早速食し――目を、見開く。
「……!! う……美味い! これが……今、暗黒騎士菓子界のニューウェイブ……『あんまん』か!」
正式名称・暗黒饅頭――略して『暗まん』。
この国独特の饅頭・豚まんが、中に豚の挽肉や刻んだ野菜などをベースにした具を内包しているのに対し、
この『あんまん』に入っているのは、小豆を砂糖と水で煮詰めて作ったエブラーナの甘味――『餡子』である。
そして、この甘味は色が黒色――それが「あん」と「暗」をかけているのであろう。どちらかといえば菓子に近い食べ物。
……しかし、この心ときめく名前の『暗まん』――実は、暗黒騎士フリークだけではなく今、ファブールで人気だった。
実はまだ、この『暗まん』が発売されて一週間たっていないのに――すでにその美味の噂は他国にすら響いている。
連日連夜、この『暗まん』を売る小さな屋台の前には凄まじい行列が出来――今では購入に予約券が配布されている。
そんな中、ラディも一人の暗黒騎士好きとして、ゼヒに一度食べたいと願い――そして一個だけ、奇跡的に入手したのだった。
そして、食した感想は――とにかく、美味い。
思わず、両手が塞がっているにも拘らず手で膝を叩いてしまいそうになるほど――美味だった。
皮自体に若干、味を咥えてあるのか――かぶりついた後、まだ口に中身が残っているのに思わずもう一度食べたくなる。
控えめで後味のすっきりとした甘みが、胃に負担をかけることも無く、何度食べても飽きることが無いのである。
この味を表現するには、一体どの形容詞を使えばいいのだろう?
おいしい――そんな素朴な表現すら、この美味すぎる味には粗暴とさえ思えるほどの圧倒的な格の違い。
そう、恐らくそれは――『最強』の形容詞を与えられてもおかしくないほどの、究極的な味――
と、ラディが最後の一口を頬張った――その時だった。
「……! あれは……!?」
それは――この商業区の中で、きちんと建物の中に店舗を構える本屋であった。
小さな店であったが、きちんと小奇麗にされており――店主がきちんとした人ということが伺える。
そんな店の、店頭スペース――週刊誌がセットされ、立ち読みは自由というそのスペースの一角。
そこに、ラディは目を吸い寄せられ――それに引っ張られるように、体が吸い寄せられていく。
そして、その手がするりと抜き取った、一冊の雑誌は――『週刊 暗黒騎士』。
暗黒騎士関連の雑誌では最も古参のものであり――今もなお、不動の一番人気を保ち続けている雑誌である。
しかし今日は確か、この雑誌の発売日ではないはずだが――
「……フライング販売か……」
本というのは、発売日に届くものも確かにあるのだが――基本的に前日あるいはその前に入荷されるものである。
そのため――書店の中にはたまに、発売日に先駆けて本を無断で店頭に並べるようなものも存在するのだ。
あまり感心できることではないが――しかし読者側からすれば、読みたい本が早く読めるのだから文句は無い。
そして、ラディとしても――やはり一秒早く売り出されているのなら、一秒早く読みたいものであった。
「………………」
実はラディ、この『週刊 暗黒騎士』は定期購読しており――
観賞用の一冊は手元に、保存用の二冊はバロンの自宅に送られる算段となっている。
だから店頭では基本的に購入しないのが、彼のスタンスだったのだが――しかし、早く買えるとなると……。
ためらいは――結局、そう長くは無かった。
「すみませーん。これ、頂けますか?」
手早く代金を払い――そのままラディは店を出る。
この決断で、本が減るのならともかく――増えるのであれば、対して問題にはならないという判断からだった。
包装もしてもらうことなく、そのままラディは歩きながら雑誌の中に目を通し――あるページで、止まる。
それはいわゆる、読者の投稿コーナー――その記事に目を滑らせていたラディだったが――
『さて今回も、まず一発目はすっかり常連さんとなったこの人のハガキから! PN.bibi-orさんから!』
「……よしっ!」
その文章を見つけ出した時――ラディは思わず、小さくガッツポーズしていたのだった。
そう――この『bibi-or』とは、ラディのペンネーム――彼はこの雑誌に投稿するハガキ職人でもある。
ちなみにPNは元々『ビビはオルニティア』という名前だったのだが――途中で長いと思い、省略したのだ。
……と、ラディはまず、自分のネタが掲載されたことを確認した後――さらに記事内に視線を走らせる。
そして――次に目が止まった行は――
『――PN.みこっちゃさんからの投稿――』
「……来た来た……なになに……」
その投稿内容に、目を走らせるラディ――
この『みこっちゃ』というハガキ職人もまた、ラディと同じく常連――それも、ラディと同じ頃に投稿を始めたのだ。
そのためだろうか。妙に親近感が湧いてしまい、互いにしのぎを削りあう戦友、そしてライバルとしての想いがあった。
……何故『互い』と言えるのか? それは――ラディがこの『みこっちゃ』と、何年か文通していたことがあったからだ。
そもそもの話は、この雑誌の企画の一つだったのだが――企画終了後も長いこと文通は続き、
よく、文面の上で暗黒騎士の今後や、好きな『暗黒』について熱い討論を繰り広げたものである。
薄いブルーの便箋に、柔らかく丁寧な文字で書かれたその内容は――本当に暗黒騎士が好きだというのがよく伝わってきた。
だから自分がバロンで、暗黒騎士を目指している――そう書いた時、とても喜んでくれていたのを覚えている。
一方『みこっちゃ』の方は、ミシディアでクリスタルの管理関係の仕事をしている女性らしく、
度々バロンに行きたい、一度ラディとあって見たいと漏らしていたのを覚えている。
(……せめて、オレがデビルロードを使えたら……一度、会って話がしたかったんだけどな……)
デビルロード――かつては五年前、セシル陛下達も使った、ミシディアとバロンを繋ぐ道なき道。
だが、この道の存在は、二国間の交友を深めると同時に――有事の際、侵略の経路に使われる可能性も非常に高い。
使用するには、心身ともにかなりの消費を伴うという抑制がされているが――
バロンの訓練された男たちなら、一往復して帰ってくるくらい何の問題も無いだろう。
そのため、現在でもミシディア側からの通行は自由だが、バロン側では厳しい規制が行なわれている。
一般人なら予約申請、そして――兵士なら、陸兵団・海兵団以上の軍団に所属している者だけが使用可能とされている。
小隊の隊長を務めていたとはいえ、陸兵団にずっと所属していたラディには――使用する権利が無かった。
そしてミシディアの『みこっちゃ』には、そもそもデビルロードの行脚に耐えうる体力が無かったらしい。
……結局、出会うことは一度も無く――ラディが旅に出る決意を彼女に伝え、同時に文通も終わってしまった。
しかし――そんなことに思いを馳せながら、ふと思う。
(……もしかして『みこっちゃ』さんとの文通って、オレの人生の中で唯一、女の人とまともな付き合いだったんじゃ……)
ラディは、基本的に女性と交友関係が殆ど無かったが――冷静に考えれば、年上に可愛がってもらう――
もとい、年上の女性のおもちゃにされていることが多かったような気がする。
特に子供の頃からおもちゃにされた暗黒騎士団のアセルスやレディパールにはいまだに頭が上がらないくらいだ。
思春期の微妙な時期に、彼女たちの『ちょっかい』を受け続けたせいで――女性への苦手意識は一層強くなった。
……だと、いうのに――彼女たちが行なってくる『ちょっかい』にはまるで『慣れる』ことはなかったから困ったものだ。
現に、今だって――
「……考えても仕方ない、か」
不毛な思考を、ラディは無理やり中断する。
そのまま、ぱんっと本を閉じて――紙袋に入れたとき、ラディの目の前には一つの建物があった。
迷うことなく、ラディはその中へと入っていく。
「……黒チョコボ急便へようこそ。本日は、一体どのようなご用件でしょう?」
「この紙袋二つを、ここに書いてある住所に。あ、こっちの紙袋は生ものが入ってるから冷凍便で」
「かしこまりました――只今、お荷物の重量を測りますので少々、お待ち下さい」
店員の指示に、ラディは従って――そのまま近くの椅子に腰掛け、ぼんやりと天井を見上げた。
そこに描かれた、シルエットの黒チョコボが荷物を咥えて飛んでいる絵を、何とはなしに見つめる。
黒チョコボ急便――それはトロイアが、とうとう人の手によって育てられた黒チョコボに、
空を飛行させることに成功したことから始まった、全国利用可能の運送ネットワークの事だ。
全国に存在する支部に荷物を依頼し、それを黒チョコボ――場所が近ければチョコボで運送する。
黒チョコボは臆病な性質ゆえに、基本的に自らの身を隠せる森の中にしか着地しない習性を持っていたが――
黒チョコボ便で使われる育てられたチョコボは訓練を施し、この支部にも着地できるような習性を刷り込ませた。
同じ航空便でも、飛空艇で運送するより遥かにコストも低く、また見た目も案外可愛いというものもあってか、
現在では一般庶民クラスの階級層を中心に、連日連夜黒チョコボ便が空を飛び回っている。
ラディも、先日送った紙袋5つに、今日の買い物で新たに増えた二袋――追加の料金を支払って外に出る。
冷凍便で送ったため、料金は若干割り増しになったが――元々暗黒騎士関連の事には、金に糸目をつけないと決めている。
暗黒騎士になり、一端バロンに帰ったら――多分この荷物だけで、一月は家から出なくなるのだろうが――
「……さて、と。……デスブリンガー奉納所の入場許可までは……まだ少し時間があるか……」
まだ、日も昇りきっていない――今日という日はまだまだ先がある。
遥か上空から、さんさんと降り注ぐ太陽の暖かさ――気温が低いファブールだからこそ感じるありがたみ。
今日もきっと、いい日だ。
そんな事を、しみじみと噛み締めながら――
ラディは素早く横手に自らの身を投げ出した。
そして、次の瞬間――彼のいた空間を突っ切り、赤い残影がそのまま制止も出来ずに通り過ぎ、近くの屋台に激突した。
ラディがかわした瞬間、通り過ぎた人影――赤いローブを纏ったその女性はトップスピードで屋台へ突っ込む。
そこは恐らく、自作のアクセサリーショップだったのだろう――
屋台自体は簡素ながら、本人の飾り付けのセンスがいいのか、なかなかに目を引くものがちらほらとあった。
だが――女性の突撃によって飾りつけはメチャクチャとなり、恐らく製作者本人であろう、
奇抜な格好ながらも人のよさそうな若者もまた、10m程度を横転して気絶する。
通行人の誰もが、その光景に目を留め――足を止めて。
全員の目が、集中する中――ぞろりと、突撃した女性は立ち上がる。
恐らく――というか、絶対に顔から突っ込んだにも拘らず、何故か傷一つ無く立ち上がった、女性。
全身に、ひっかかったアクセサリーがじゃらじゃらと輝く中――そのどれよりも美しい、青鋼玉の双眸――
「……私の抱擁をかわすなんて……案外、成長したわね……ラディ?」
「そりゃまあ、あれだけ何度もやられれば……というか……今日はのっけから異様にテンション高いなミレイユ……」
半ば、感嘆しつつ――半ば呆れつつ。
ラディは身を起こし、その女性――今、自分をからかって遊んでいる年上の女性――ミレイユと向き直る。
「で……今日は一体何なんだ? また酒に付き合えっていうんなら、遠慮した――」
しかし――ラディの、半分冗談を交えるような口調はそこで止まった。
止まらざるを、得なかった。
何故なら――ゆらりと立ち上がったミレイユの、その全身に纏う気配の圧迫感。
圧倒的なまでの、その気迫が――ラディの下を、一瞬にして凍らせてしまったからだ。
「ラディ……今日は、今日は絶対……私と一緒に、お酒……呑んでもらうわよ?」
ぶわりと――風も無いのに、ミレイユの髪がうっすらと広がる。
その全身から発せられる気迫――それはかつて遭遇した、霊山に住む古の白き竜すら彷彿とさせるほど。
ぽたりと、汗が顎から垂れて――それを拭うことすらせず、ラディは慎重に言葉を選んだ。
「……もし……誘いを断ったら?」
全身の筋肉を、戦闘仕様に切り替えつつ――紡いだ、ラディの言葉に。
ぞっとするほど、にこやかにミレイユは笑って――告げた。
「断るなんて――そんな選択肢は存在しないわよ」
――瞬間、ラディは全力で後方に身を投げ出す!
その目前で――おびただしい量の『糸』に切り刻まれた床が、切断面もあらわに宙を舞い、粉々に切り裂かれる。
「今日は力づくでもラディ――私に付き合ってもらうわよ!」
ミレイユの手が、その場で舞うように振られる。
それに操られ、光に煌きを返す幾千の軌道が――辺り一帯、何区別なく微塵に切り裂いていく。
人こそ、まだ切り刻まれていないが――柱がつややかな切断面を残し、壁は細切れに地面に詰まれる。
一瞬で、一角は絶叫とパニックの支配するところとなり――そんな中、ラディは五体を駆使してその『糸』から逃れていた。
「案外すばしっこいわねぇ……でも、私の『糸』の包囲網から、逃れようなんてことは出来ないわよ♪」
「……くっ!」
悔しいが――ミレイユの言ったとおりであった。
ミレイユと戦ったことは、よく考えれば今まで一度も無かったが――こうも厄介なものとは正直、思っていなかった。
時には積極的に、時には婉曲に――幾多幾千の軌道を描き、じわじわとラディの退路をはばめていく『糸』。
少しでも気を抜けば――この糸に絡めとられ、身動きを封じられて連行される。
……だが――
「オレが丸腰だったら、確かにこのままじゃジリ貧だ……だがっ!」
ラディは瞬間、ターンしながらその腰の捻りで鞘を走らせる――そこから引き抜かれた、清々しいほどの黒!
「あくまで強硬手段に出るなら――オレもそれを切り裂いていくだけだッ!」
右手の中に納まった、父の遺した暗黒剣――それを手に、ラディは力の乗った一撃を、横手の『糸』へと叩き込む。
――だが、暗黒剣が『糸』へと触れたとき――その手に返ってくるのは、弾力性のある手ごたえ――
「なっ……消滅しない!?」
「この糸はね……前に倒した、あのオクトクラーケンから抽出した有機繊維で紡いだ糸なのよ♪」
「……有機繊維……?」
「ようするに……命をもった糸ってことよ♪ 勿論、時間さえかければテュルフングでも切れるけど……。
その前にラディを捕まえれば万事オッケーってコ・ト♪」
瞬間の判断は、間違えなかった。
ラディは素早く剣を引き、その場を離れる。
そこを襲撃した『糸』が、石畳を打って瞬間、ばらばらに爆ぜた。
それを横目に流しながら――ラディは背筋にぞっとしたものを感じ、ミレイユを見上げる。
「……ミレイユ……『本気』だな?」
「当然よ。……でなきゃ、こんなこともあろうかと対ラディ用に仕上げたこの糸なんて使わないもの」
紅鋼玉と青鋼玉――二つの瞳が交錯した瞬間、そこにあったのは――決意の輝き。
だからラディも――冗談抜きに、一気に決めることとした。
ミレイユの、現在の糸の展開は、あくまで包囲――こちらを捕縛するための広範囲のものだ。
包囲とは、普通には捕まえられないような素早い相手を捕らえるために使用されるもの。
従って、たとえフットワークを活かして活路を見出そうとしても――それはかえって逆効果になる。
こういう場合、活路を見出すための行動は――たった一つ!
「――はあああああああああああああああああっ!!」
ラディはテュルフングを構え――そして猛然と突撃した方向は、ミレイユのいる方向。
そう――こういう場合のセオリーは、その包囲を行なっている元凶を叩いて進む――
そこに活路はある!
しかし、ミレイユとてその程度のことを想定していないわけがない。
包囲展開した糸はそのまま――まだ余っている場所から、ありったけ『糸』を掴み――前面に見せ付けるように展開する!
それは、テュルフングを妨げるために作り出された、即席の盾――
そして――そこに剣は叩きつけられ、黒い微粒子が吹き荒れる中、互い全く譲らず拮抗する!
「ぐっ……ミ、ミレイユ……こんなに、力……あったのか……?」
「力なんて無くってもね……今日は、今日だけは……私も引き下がるわけにはいかないのよ!」
軍で鍛え上げられた、ラディの膂力に全く引けをとらないミレイユ――それは、単なる筋力の問題ではない。
いつもの彼女から、想像もつかないほどの気迫――
正に『鬼気迫った』その気迫が、質量があるかのようにラディを圧迫しているのだ。
「……別に……ただ、酒を飲むんだったら……ひ、一人でも……いい、だろ……っ!!
オレはこれ以上……ミレイユの、あのペースに巻き込まれるのは……イヤ、なんだよ……っ!!」
「なに言ってるのよ……こ、こんな美人のおねーさんのお誘いを断るなんて……刺される、わよ……!!
それに……今回は、状況が状況なの……ラディの意思は、残念ながら……この際、無視っ!!」
「状況……?」
そういえば、先刻からずっと――そんなようなことを口にしていたような気がする。
こんな切迫した状況の中――眉根を寄せたラディに、ミレイユはふっと笑って――告げた。
「……二人で行けば、ね……『護羅無衷』が……口に出来るのよ……!!」
「――!? ごっ……『護羅無衷』!?」
ラディの表情が、音を立てて崩れるのを――ミレイユは笑いなどしなかった。
一介の、酒飲みならば――人ならば、その反応は当然だからである。
そして当然――ラディがその名前を知らないはずが無かった。
ミレイユと比較して、すぐに酔いつぶれているような印象を受けるラディであるが――彼はこれでも、
バロンにいたころは『赤い徳利』の二つ名で知られており――バロンではトップクラスの酒飲みなのである。
戦闘ならば、カインにはまだ一歩及ばない――だが酒飲みならば、カインに負ける気もしない自負があった。
それほどの――それほどの酒飲みであるラディが、その名を知らないはずが無かった。
『神の産み落とした酒』『永遠の幸福を秘めた雫』――そう呼ばれる秘酒『護羅無衷』。
酒を愛し、酒に愛される者――誰もが一度は憧れる、究極の一品なのである。
「……ラディは『護羅無衷』を口に出来て、しかも美人のおねーさんが一緒に付き合ってくれる。
私は楽しくお酒が飲めて、『護羅無衷』も堪能できる――どう? 悪い条件だとは思わないけど?」
「……くっ……!」
苦悶の表情を浮かべたラディから――押し殺したような声が思わず漏れた。
どんなことがあろうと、甘言にはもう乗らない――そう心に誓ったラディだったが。
だったのだが――その鋼の誓いが、今激しく揺さぶられていた。
……それほどまでに、この『護羅無衷』という酒の魅力が凄まじいものだったのだ。
心の中で、誰かが自分へと、そっと囁きかける――
――何故、抗おうとする?
そうだ――ミレイユの言う通りではないか。
別に、この条件に屈したからといって――ラディには別段、デメリットは無い。
確かに、ミレイユに付き合えば潰されるまで酔わされるが――だが、別に杯を交わすこと自体は悪くないと思う。
いや――むしろ、一緒に呑んでいて楽しいと思える部分があるのも、事実だ。
そして――『護羅無衷』。
この、酒が呑める――そんな僥倖が今、自分の前に置かれているのだ。
それを取って、何が悪いというのだろう?
――ならば、何の問題も無いではないか。
――さあ、抗うことを止めて。
――その心を、自らに素直に差し出し――
……問題?
その、言葉が――心に引っかかって。
ラディはその時、思い出した。
……思い出したのだ――
「……ミレイユと、酒を呑めば……単純に量から、その飲酒量はばかにならない……」
「……?」
「これがダムシアンなら……あれだけ物流も良くて、品揃えも豊富なら……オレだって、止めなかった。……だけど!!」
ラディの瞳が、ミレイユを映す。
そこに湛えられたのは、悲壮なまでの――しかし、頑として揺るがない決意の輝き――
「この国はファブール……そんなに酒の量が豊富じゃないんだ! そんなところで、酒を呑んでしまったら……。
この国に残っている酒が、全て飲み干されてしまう! ……そうしたら、一体どうなる?
娯楽の少ない、この国で――唯一、酒場での憩いのひと時を楽しもうとした多くの人たちはそれが出来なくなる。
それこそ、沢山の人の……沢山の人々の楽しみを――笑顔を奪ってしまうことになる!!」
ラディの心に浮かぶ、情景――
このファブールという国で、日々を送る沢山の人々の笑顔が、絶望の淵に沈んでいくその様を、見て。
……ラディは。
ラディは――
「だから……オレは呑まない! 呑むわけにはいかない!! 『護羅無衷』がどうしたぁぁぁぁぁっ!!」
瞬間――ミレイユの靴底が、地面を噛んで音を漏らした。
――そう。拮抗が、破られていく――ラディの力が、ゆっくりとミレイユのそれを上回っていく――
「『護羅無衷』がどうした……ここで……ここで、オレが……オレが……欲望に負けて……ミレイユを許したら!!
許したら……守れない……守ることが、出来なくなる……っ……!!
許してしまったら――オレは守れなくなるんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
全ての意識を――右腕へ。
右腕を通して――テュルフングへと注ぎ込む。
「ってちょっとちょっとちょっと!? ラディ、まさか――」
「ミレイユが……立ちふさがるのなら! そんなにも魅力ある誘いが、オレの前に立ち塞がるというのなら――」
自らを――自らの根源そのものを、テュルフングへと反映させるイメージ――それを今、爆発させる!
「オレの剣は立ち塞がるもの全てを――そう、全てを断つ刃――全断していくだけだぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「ひえええええええええええええええっ!?」
全てを切り裂くイメージに――テュルフングが今、鼓動を返す!
黒が拡大し――膨れ上がる刀身が今――斬鉄剣に切り込みを入れる。
そのまま――全てを断つ全断の刃の名を、ラディは言葉にし――現実へと固着させた!
「アポカリプスッ!!」
瞬間――ミレイユの『糸』が、瞬時に切り裂かれる。
その僅かなタイムラグに、全てをかけて――ミレイユは全力で横手に体を投げ出していた。
そして、瞬間――その横を、黒が。
何者をも切り裂く、全断の刃が通り過ぎていった。
幸い、すでにこの騒動で商人も観光客もこの近くにはいなかったため――人員的被害は出ていないものの、
ラディの精製したアポカリプスは、その延長線上にあった一切を真っ二つに切り裂いていた。
……彼女の足元、そこに振りぬいたアポカリプスの刃の後が、まるで断層のように穿たれているのに――背筋が凍る。
そのまま、ミレイユはラディの方へと首を傾けて――
が。
「……あ……あら?」
そこに、あの金髪の青年の姿はどこにも無い。
しばし、ぱちくりと何もないそこを見やって――
慌てて辺りをきょろきょろと見渡してみるが、やはりラディの姿はまるで煙のように、影も形もなくなっていた。
そのことが、何を示すのか――ミレイユは数秒の時間を、要して。
「…………っいくら……いくらイヤだからって……ラディ……っ!!」
ぷるぷると、震える拳を突き上げて――ミレイユは大声で叫んだ。
「いくらイヤだからって――アポカリプス使ってまで逃げようとすること無いでしょうがああっ!!」
……それから、五分ほどたった後。
目を話した一瞬の隙に逃げ出したラディを探しに、ミレイユが疾走して言った後で――
「……やっと行ったか……」
そう呟いて――本棚の影からひょっこりと顔を上げたのは、逃げ出したはずのラディだった。
あの瞬間――アポカリプスを放った瞬間、ミレイユの意識が逸れたその一瞬の隙にラディは、
近くにあった本屋――週刊暗黒騎士を購入したあの書店に急いで飛び込み、身を潜めたのだった。
気配を消す訓練は受けていたが――それでもミレイユに感づかれずに済んだのは、彼女が少なからず動揺したため。
(……まさか本当に『アポカリプス』を使うとは思って無かったろうしな……)
逆に言えば、あれほどの反則的な手を打たなければ、ミレイユの裏はかけない――そういうことである。
とりあえずは、ミレイユの手から逃れたことにほっと胸をなでおろし――
身を潜めていた間、何も言わなかったここの店主に感謝しようと、ラディがゆっくり立ち上がった――その時だった。
「……随分と元気なのだな、ラディ殿」
「! ……ヤン……大僧正!?」
本棚の近く―― 一冊の本を片手に、若干苦い笑いを浮かべていたのは――この国の最高権力者ヤン・ファン・ライデン。
「連日、仲がいいようだが……くれぐれも、ほどほどにしておいてくれ。
いくらダムシアンが修理費を全面見てくれるといっても、
ギルバート殿とて振れば金の出てくる魔法の財布を持っているわけではないのだからな」
「すっ……すみません」
その言葉には――恐縮するよりほかに無く、申し訳なく頭を下げるラディ。
「いやいや、そこまで恐縮しなくとも大丈夫だ。……かつてはセシル殿も、結構な無茶をしてくれたものだからな」
「……セシル陛下が……?」
「うむ。……五年前、赤い翼が攻めて来た時……セシル殿は城内にも関わらず『暗黒』を連発し続けていたからな。
ギルバート殿と私に回復役を勤めさせて、あとはとにかく動くものが見えれば『暗黒』……。
あのときの城の損害に比べればまだ今回の一件は大したことは無い。安心したまえ」
「は、はあ……」
確かに――城の中で暗黒を撃つなど、はっきり言って無謀極まりない戦闘方法である。
しかし、それを行なわないとまともに戦えないというほどの戦力差があったのも事実だったのだが。
……だが――ファブール300年の歴史の中、最も危機迫った状況を比較対照に持ち出されている時点で、
根本的な部分において問題があるような気がする。
……そう考えると、どことなくヤンの笑みも引きつっているように見えて――ラディは慌て、話題を変える。
「そっ……そういえば、大僧正はどうして、ここにいらっしゃったんですか……?」
「ああ……これを買いに来たのだよ」
そう言って、彼がラディに差し出したその本――それは経済学に関する専門書。
「……国王というのは、思ったより遥かにしなくてはいけない仕事も多い……。
その区分ごとに、専門の部署が存在しているのは確かだが、彼らに任せきりでは王は傀儡の存在になってしまう。
それに彼らは本来、私などでは出来ようはずも無い高度な仕事をするために立てられた部署だ。
……だから私も、彼らに負担をかけないよう――自分で出来る範囲の仕事をしなくてはならんからな」
「なるほど……」
そういえば――前にヤンとシャオの家に行った時、本棚に幾つかの本が置かれていたのを思い出す。
それらは近年出版されたというのに――何度も、何十度も読み返されて、くたびれきっていた。
「……大僧正は、勤勉な方なんですね……」
「……なに、他人より要領が悪いから、人の何倍も時間をかけなければそこまで到達できないだけだ。
昔は己の肉体の鍛錬さえ欠かさなければよかったが……まあ、まさか私が本当に国の長になるとは思わなかったからな」
ヤンはそう笑って、本を片手にレジへと進む。
「ラディ殿も一度なってみるといい」
「なってみると……って、そう簡単になれるものじゃないんですけど――ん?」
そこまで口にして――ふっとラディは振り返る。
「……どうした?」
「いえ……ちょっと」
ラディが、目を引かれたのは――平積みにされた絵本だった。
一冊、手にとってみる――そこに描かれていたのは、茶色のローブを纏い、包丁を持った魚のような小人――
「……それは、この国に古くから伝わる――」
「トンベリ……でしたよね?」
その名前が、先にラディの口から出てきたことに――ヤンは軽く目を見開く。
「ほう……知っているのか? この国の者以外でこれを知るものは、そうそういないのだが……」
「この国に来る前に、ちょっと……ミレイユに教えてもらったんです」
そう――ホブス山からこの国に来るまでの間、ミレイユがこのトンベリについて講義していたのを思い出したのだ。
「……本当に、童話になってたんですね……これ」
「ファブールでは有名な話だ。……心の清い若者が、ある日浜辺で子供にいじめられるトンベリを見つけた。
子供たちを追い払ってトンベリを助けると、次の日には見目麗しい女性が若者の家を訪ねてきた。
二人は結婚し、沢山の子供をもうけて幸せに暮らすが――その女性が、実は助けたトンベリだったという話だ。
人に親切にすれば、それは縁となって巡り巡って自分に返ってくるということを教えた童話だな」
さらりと、物語の概要を説明するヤン。
あまりこういったものに縁の無さそうな彼でもこれだけすぐ口に出来るということは、本当に有名らしい。
「……そういえば……この話って、実話を基にしたって、クレセントがいっていたんですけど……」
「……それを知っているとは……クレセント殿は、この国の出身なのか?」
「ええ。……ファブールの近くの森に小屋を立てて、そこに子供の頃住んでたと言っていました」
「そうか……」
それを聞いて――感慨深げに呟くヤンは、一体何を思っていたのだろう?
だが、次に開いた口から出てきた言葉は、彼の考えていたこととはまったく別のことだった。
「確かにこの童話は実話だ。……もっとも、トンベリが美しい女になって……という辺りは信憑性が薄いがな。
昔はたびたび、トンベリの姿は目撃されていたらしい……今も残っている絵画などに時折姿を見出せるからな」
「へぇ……」
「……もっとも――」
と――ヤンが何気なく、次の発言に爆弾を放り込む。
「この童話ではないが……私も昔、トンベリを助けたことがあったな」
「――ええっ!?」
驚愕するラディに――ヤンは昔を思い起こすように上を見上げ、目を細めると、
「……そうだな……あれはもう、15年ほど前になるか……私がまだ一介のモンク僧として修行していた頃だ。
丁度、この童話のように……浜辺で子供たちが、トンベリを寄ってたかって小突いていた。
ただし、この絵本のものとは少し違って……頭の上に、珊瑚で出来たティアラのようなものがあったがな。
もっとも当時の私には、それがトンベリだと言うことが判らなかったが……見過ごすのも気が引ける。
そこで子供たちを説得し、傷ついたトンベリを助けた。
するとトンベリは、手にしていた包丁を私に手渡し、そのまま海に帰っていった。
……時折、私のほうを振り返りながらな」
「……それで……その後は?」
期待のまなざしで、ヤンを見上げるラディに――しかしヤンは肩をすくめると、
「……それきり、何も無かった。期待に添えなくて残念だが……異様によく切れる包丁をもらっただけのことだ。
第一、
あれは私が勝手にやっただけのこと……恩を感じられるようなことをしたわけではないからな」
「そ……そうなんですか……」
まあ……得てして、現実とはそういうものである。
「……ああ、少し変わったことといえば……シャオが私の家に転がり込んできたのは、その次の日だったな」
「――え?」
「何でも、家を飛び出してきたとか……ファブールにはよく、そうやって駆け込む女性が多かったからな。
普通なら、そういう女性にはきちんと専用の寝所が与えられるのだが……
シャオのたっての希望で、私の住んでいた部屋に同居という形になったのだ。……しかし、私も正直助かった。
あまりに切れすぎて、私でも扱いかねるあの包丁を、まるで自分のもののように使いこなしてみせたからな。
……まさかあの頃は、ここまで長い付き合いになるとは思わなかったものだが――」
「――大僧正! こちらにいらっしゃられましたか!」
と――昔話を続けようとしたヤンの言葉を中断したのは、一人のモンク僧。
全力で走って探していたのか、息を切らしながらも――ヤンの近くに寄り、そっと何かを耳打ちする。
その内容を、ラディは聞き取ることは出来なかったが――ヤンの表情が厳しいものに変わったのは見て取ることが出来た。
「……すまない。少しばかり、厄介な事が起こったようだ。私はこれで失礼させてもらう」
「い……いえ。そちらこそ、頑張ってください」
「うむ」
ヤンは一礼し――先刻のモンク僧を連れて、小走りに店を後にしていく。
その背を見やりながら――ラディは持ったままの絵本へと改めて目を落とした。
――トンベリを助けると、次の日には見目麗しい女性が若者の家を訪ねてきた――
――その女性が、実は助けたトンベリだったという話だ――
――この童話ではないが……私も昔、トンベリを助けたことがあった――
――シャオが私の家に転がり込んできたのは、その次の日だったな――
「……いや……まさか、な」
ふっとよぎった、あまりに無茶すぎる考えを――ラディは頭を振って追いやった。
「ハァ……ハァ…………ハァ……もう……ラディ……どこにいるのよ〜……」
荒い息に、肩を――ついでに胸なども揺らしながら、ミレイユは重く息を吐いた。
同じ商業区でも、先刻暴れまわった場所からは大分離れており――この辺りにはあのパニックの波は届いていない。
人の動きがまるで緩やかな河の流れのようで、この人ごみに紛れていれば――地味さが目立つラディなら見分けがつくまい。
……きっとそう考えるだろうと踏んで、ずっと探し回っていたのだが――
(……もしかして……逃げたと見せかけて、実はあの区画にまだいたりしてるのかしら?)
息を整えながら――あらゆる可能性を考慮し、考えを巡らせていたミレイユだったが――
「……そこの綺麗なお姉さん、誰か探してるッスか?」
かけられた声に、振り返る――そこにいたのは、一人の男。
いや、まだ少年といっていいだろうか――ラディより若干、年下と言う感じに見える。
身長はラディより低いが、自分よりは高い。日に焼けた肌に、潮焼けして色の薄くなった金髪。
ただ、来ている格好はかなり奇抜――恐らくこの国に住んでいるのではなく、観光客の一人なのだろうが。
人懐っこそうな顔をして、手にしたボールを指の上で回転させている――いかにもスポーツ万能といった感じだ。
「……もしかして、お姉さん『護羅無衷』呑みたくて、その相手を探してる――そうじゃないッスか?」
「うっ……な、何でそれを……」
「だって『あまき』のチラシ、それだけ力いっぱい握り締めてたら誰でもすぐ判るッスよ」
指摘され――確かに、くしゃくしゃになるまで力一杯握り締めていたことに気付く。
「……けど、そんな血眼になっても見つからないんじゃ……もうその相手、近くにいないんじゃないッスか?」
「だから探してるの……なに? それとも……君がおねーさんを手伝ってくれるのかしら?」
「冗談。……そうじゃなくって――」
指で回転していたボールを、ぴっと放り上げて――片手でキャッチして。
「だったらオレと一緒に呑まないッスか?」
その、太陽のような人懐っこそうな笑顔を作って――少年はミレイユに近寄ってくる。
「あら♪ ……それっておねーさん、ナンパされちゃってるってことかしら?」
「これだけの美人、放っておくほうがおかしいッスよ」
……この少年、見た目どおりかなりナンパに長けているようだったが――実際、少年の言うことは間違ってはいない。
彼女はあの白皙の美貌で知られるギルバートの、腹違いとはいえ妹なのだ。
ただ―― 一般的に男の子は母親に、女の子は父親にその外見が似るといわれている。
ギルバートの場合、彼女の母親もまた、上流階級の箱入り娘――それも幾度か王家と婚姻を結んでいた縁のため、
ダムシアン王家に特有の美しく白い肌や、青鋼玉の瞳を持ちながらも――どこか線の細い、しなやかな美しさを持っていた。
一方、ミレイユの場合は母親は一般階級の女性だったが――父親である前ギルバート王もまた若き日は美男子であったために、
その血を濃く受け継ぎ――正統的なダムシアン王家の特徴である白い肌や、
青鋼玉のような美しい瞳などの特徴が強く出ていた。そして造詣の美しさもさることながら、
全身からあふれ出しているようなその強い生命力――それが彼女の美しさを、自ら輝かせていたのである。
格好こそ、標準的なモンスター学者のそれながら――ファブールでも大抵の男が一度はミレイユを振り返っていた。
「『護羅無衷』、数も限られてるし……オレ、結構酒に自身があるッス。お姉さんを、飽きさせないッスよ?」
そう言って、笑ってみせる少年――それは地味さが前面に出たラディとは気持ちいいほどに対照的だった。
恐らく、この笑顔で迫れば大抵の女性はどこか、母性本能をくすぐられるようで放っておけないだろうし――
この少年自身、それを使って今までやって来たに違いない。
『場数を踏んだ違い』のようなものを――ミレイユは看取っていた。
そして実際、一緒に酒を呑めば――ラディよりも遥かに話も面白く、楽しいだろうということも。
……だが――
「……ん〜……うれしいお誘いだけど……生憎、先約がいるのよ。……ゴメンなさいね♪」
「先約って……彼氏ッスか?」
「ちょ〜っと、いや……大分、違うけど……でも、とにかくダメなの。それじゃね♪」
にこりと、笑いかけながら――それでもあっさりと断ると、ミレイユは少年に背を向け走り出そうとする。
だが――
「あ、ちょっ、ま、待ってくれって!」
少年は、走り去ろうとするミレイユの肩を強引に掴んだ。
「……その手、離してくれないかしら?」
「いいじゃないッスか。……別にそいつ、彼氏じゃないんっしょ? だったらそんな奴ほっといて、
オレと一緒にいきましょうって。絶対ソイツなんかより、オレのほうが1000倍はお姉さんを楽しませ――」
少年がそこまで言った――その時だった。
肩を掴んだはずなのに、ミレイユは少年から一歩遠ざかる。
どういうことかと、少年が眉根を寄せた時――ぽとりと地面に何かが落ちる。
それを目にして――少年の喉が、驚愕に詰まった。
……なぜならそれは、つい先刻までミレイユの肩を掴んでいた――彼自身の手だったのだから。
「その手を離して――そう、言ったわよね?」
髪を掻き揚げるようにして――気だるげに呟く、ミレイユ。
手を切り落とされた男の手首からは――しかし、一滴も血は流れていなかった。
それは、あまりに鋭利で――しかも一瞬の内に切り裂かれたために、切口が収縮してしまったため。
……だが――彼女が刃物を使っているような様子は微塵も無かったのに、何故――?
「……私を他の女と一緒にしないでくれるかしらね……こう見えても、別に尻軽ってワケじゃないの。
一体アンタがどれだけそうやって他の女引っ掛けてきたか知らないけど……相手を間違えてるんじゃないかしら?」
そう呟くミレイユの、両腕。
そこに煌く輝きは、彼女の手首から無数に放たれた『糸』が、日の光に反射を返しているため――
そしてその『糸』は、ただ美しいだけではない――たった今、男の手を切り落としたように。
……それは、ミレイユの美しさにも共通したところがあった。
「……私はね、自分が許した相手以外に……絶対に体を触らせないようにしてるの。判るかしら?
確かに年下の坊やは嫌いじゃない……けど、最初からなれなれしいのは……一番、嫌いなの」
彼女が浮かべた微笑――それは美しい。
美しいが――とても硬質で冷たいものだ。
まるで、抜き放たれた真剣を連想させるようなその笑み。
そして、全身から自分へと放たれた、薄い氷の刃のようなその殺気――
触れただけで切り刻まれそうなそれに威圧され、指一本動かせない。
「……だから――」
……少年はようやく――悟った。
彼女が、自分が手を出せるようなところにあるような女性ではない――そのことに。
それに気付けず、近づけば――命は無い。