No.03-EX02 Alfail story Episode Penetrater
双隻眼のアトリ・イスカ

第四十五話 夜明けの光

――長く伸びた廊下、重なり合う微かな微かな靴音。
月の光が零れ落ちる音さえ聞こえそうな程の静寂の中、一組の男女が道を共にしている。
「――指令書、貴方の名前で出されていたわね」
静寂を先に破ったのは、瑞々しい桜色の唇――深い知性を湛えて響いた柔らかい女声だった。
透き通るように滑らかな白い肌の上にゆったりとした長袖の装衣を纏い、柔らかな白銀の髪は菫の紫を微かに刷いて揺れる。
緩やかに波打った先端は丁度胸元の辺りで切り揃えられ、豊満な双丘によって押し上げられた装衣の上でさらさらと踊っていた。
包容力を感じさせる女性的な美貌の中、群青とも紫紺とも付かない双眸は魔性めいて深く、故に人心を惹きつけてやまない。
年の頃、二十代も半ばといったところだろうか――深い知性と共に、女性的な魅力も感じさせる柔らかい微笑み。
「指令の該当項目は私の管轄だ。私の署名が無ければ公布しても効力を発揮しない」
だが――彼女の隣、酷薄に引き結んだ唇を薄く開いて応じた声は、百年の恋も冷める謹直さで低音を保った。
妥協無く引き締められた長身痩躯、優美な中にも機能性を追及した黒衣で隙無く身を包む若い男の姿。
同じ銀髪であっても、膝頭にまで達する流れは冬の夜天に冴える銀盤にも似た輝きを帯びて凍えている。
眼鏡の縁に湛えた怜悧と同じ輝きを宿した蒼氷色の双眸、端整な面持ちに浮かばせた冷厳な表情は自然と似合っていた。
その姿は突き放したような雰囲気を纏いながらも、隣を歩く女性と見比べても何一つ劣るところの無い魅力を兼ね備えている。
「そうかしら? ああも非常識な内容の指令の署名を迫られて、黙って引き下がる貴方じゃないと思ったのだけれど」
「彼が自分自身で動いたのであれば、私に異を唱える権限や感情を差し挟む為の余地は残されていない」
「あら……差し挟む余地の無かった感情や異の存在自体は否定しないのかしら?」
「職務上、何に対しても『疑う』事を忘れていないだけだ」
自然な会話の流れでありながら、合間に存在する互いの領域に決して踏み込まず、同時に踏み込ませない言葉の応酬。
傍目には見目麗しい男女の組み合わせは――その水面下、建前で構築された手札の柄から手の内を探る読み合いを繰り返す。
やがて廊下の先は二手に別れて、道を同じくしていた二人の岐路も丁度その場所であったのだが――
「……それだけ落ち着いていられるのは、抑えた手札の柄がそれだけ大きかったという事かしら?」
道を分かつ寸前、投げ掛けられた女性の言葉に――初めて男の足が止まった。
「どういう意味だ?」
「今回の――メンフィスの一件。独断で投下した『姿無き死神』を通じ、貴方が一体何を知り得たのかという事よ」
彼女の指摘に、男は即座に返答を返すことは避けた。
だが、微かな沈黙の合間に浮かんだのは停止した思考ではなく――高速に状況を演算する双眸の怜悧な輝き。
「買い被るのは勝手だが、生憎と提出した報告書以上の事は私にも判らない。
気になるなら、貴女自身の目で確かめればいい――この時期、独断で『泉の精』の投下を決められたように」
深みを帯びた互いの双眸が、真正面から交錯した。
二人の合間に漂う空気が僅かに温度を落し、帯電したような緊張感が鋭く肌を刺す――だが。
「あら、あの子をメンフィスへと投下した理由は別件よ?
観測された、“3”以上の力に匹敵する炎熱の爆発現象――報告書にも記述されていた筈だけれど」
「『至宝』の回収か」
「そういう事……自分の興味と私情で『殲滅者』を動かせるほど、私も奔放になった覚えは無いわ」
ふわりと女性が微笑みを浮かべた時、張り詰めていた緊張は陽を浴びた氷のように夜に溶けて失われていた。
「ふふっ……相手の事を買い被っているのは、お互い様かも知れないわね」
その言葉が柔らかく響いた時には、既に女性は分かれた廊下の向こう側へと歩き出していた。
離れ行くその背を見送る形となった男も、やがて歩みを再開するが――ふと無意識に、拳を握り締めていた事に気付く。
掌の表面にうっすらと滲んだ汗の存在を見取った時、彼は軽い驚愕を覚えながら、改めて『彼女』という存在へ思考を巡らせ始めた。
世界で八人しか存在しない階位“2”の到達者にして、魔術師協会最高幹部“長老”の一人。
今と同じ年若い姿を保ち続けたまま、『暗黒期』より以前から存在していたとされる最年長の第二位魔術師。
精密化も改良化も自らに施すこと無く、まるで歳月を重ねる事だけ忘れた姿で存在し続けるその正体については一切が不明。
文献に存在が記述される以前から在るのか、何を目的としているのか。その本当の名前でさえ、定かではない。
彼女の存在を語る時には、誰の耳にも偽名と判る――たった一つの呼び名を以って、こう呼ぶ。
『お姉様』。
『北の魔女』と同じ、神代の伝承に記された神の名を冠する魔術師。
「やはり、尋常な相手ではないか……」
無意識の独白など、彼にとっては珍しいもの。
だが真正面から見据えた双眸の深さ、投げ掛けた視線が吸い込まれたのは決して錯覚ではない。
伊達に重ねてきた年月、潜り抜けてきた場数は尋常ではないという事なのだろう――だが。
いずれは彼女の伏せる手札への見当を付け、その真価を見極めなくてはならない。
凍える冬の双眸に微かな決意を浮かべながら、男――第二位魔術師ヴァイス・クロスロードの姿もまた夜の果てへと溶ける。
彼もまた『お姉様』と同じく、八人の第二位魔術師によって構成される魔術師協会最高幹部“長老”の一柱を担う才覚の若獅子だった。
魔術師協会本部・第二階層。
限られた者しか足を踏み入れる事を許されぬこの場でも、傑物達の思惑はゆっくりと動き始める。
モーリス・ヘンリーソンが殺害されてから、僅か一日後の出来事である。
人と物の交錯する大河・観光都市メンフィス。
陽が落ちた後も『眠らぬ街』の異名高いこの街が、今は重い静寂によって閉ざされていた。
夜の闇に漂う圧迫した雰囲気は決して穏やかなものではなく、街に齎されたのは曇天のような消沈と不安。
戒厳令が敷かれ、夜間の外出が禁じられた今の刻限――我が物顔で歩く者達の胸元、小さく踊った銀の弾丸。
月の光に照らされて灯した微かな輝きで、様々な欲に飢えた猟犬達の横顔をぼんやりと夜の中に照らし出していた。
闇に光を灯すのではなく、闇自身が己の『輝き』を形に現す事があるなら。
それはきっと彼女の様な姿をしているのであろうと、万人が口を揃えた事に違いない。
微かに血の色を透かす白磁の肌も、身に纏うように長く伸びた黒髪も――その夜の中、はっとするほどに映えていた。
白魚の様な指にそっとグラスを支え、唇から零れた吐息は微かな憂いの中に酒精の熱を帯びて静寂の中へと淡く溶ける。
何処か遠くを見据える黒曜の双眸は深く、彼女の姿は『夜』という枠を以って描かれた一枚の絵画さえ思わせて――
「……お腹、空いた…………」
今までの雰囲気も賛辞も真っ向からぶち壊しにする一言と共に、へなへなとカウンターの上に突っ伏した。
その姿を横目に眺めつつグラスを傾けていたのは、隣のスツールへ腰を下ろした銀髪の長躯。
「酒は嫌いだったか?」
「嫌いじゃない……けど、お酒じゃお腹は膨れないのよ……」
今のメンフィスには戒厳令が敷かれ、夜間の外出だけではなく店舗の営業も禁止されていた。
二人がいるこの酒場もその例外ではなく、明かりの灯されていない店内では夜目だけを頼りに互いの姿を認識している。
「思うの……きっと『餓死』っていうのは、この世の中で一番悲しい死に方なんだって」
涙を浮かべながら悲しげに呟き、卓上に『の』の字を書く様子は――ある意味、涙を誘うには充分過ぎた。
流石に放置しておくのも気が引けたか、長躯は傍らにあった自分のボトルを彼女の目の前へと置いてやる。
「まあ、呑む事だ。何も呑まないよりは幾分か気も紛れるだろう」
「そうね……お酒だけなら、浴びるほどある訳だし。何とかそれで凌ぎ続けるしかないわね……」
「一応、この店のお酒は私の趣味で蒐集したものでもありますので、浴びるほど呑まれては少々困るのですがね」
非難と呼ぶにはあまりに穏やかな様子で挟まれた第三の声音に、二人の視線が店の奥へと集中した。
重ねた年月を感じさせながら、衰えたところの無い筋の通った言葉の持ち主は――この店を経営する店主のもの。
闇の中から現わした姿も、年季の入ったバーテンダーの格好で隙無く身を包んで老いを感じさせるところがまるで無かった。
「どうしてもというのであれば、商品として提供しますが……それより、貴女にはこちらの方が相応しいかと」
言葉と共に、女性の前に置かれた大きなバスケット――視覚より先に反応を示す、馥郁たる芳香の存在を感じ取った鋭敏な嗅覚。
「あら……♪ あらあらあら♪ サンドイッチかしら、これ?」
「ネフェル=テムにヘンリーソン家の台所と、舌の肥えた貴女に合うかどうかは判りませんが……」
「そんな事は無いわ――最高の調味料は料理人の愛情と、食べる側のお腹の空き具合で決まるものなんだから♪」
先刻までの萎れた姿は何処へやら、陽を浴びた向日葵のような笑顔を咲かせてバスケットの中身を改めるトト。
まるで無邪気な子供のようなその姿に微かに目を細めながら、老店主は空になったアトリのグラスへ新しい酒を注ぐ。
「すまんな。余計な手間をかけさせるような事になって」
「なに、構いません――これくらいは、男の甲斐性というものです」
軽いウインクと共に披露された茶目っ気にアトリが軽く目を見開いた時、店主は微笑みながら手の内の紙束を差し出して。
「そして、貴方にはこれを。依頼品の……メンフィスで起った一連の騒動に対する、魔術師協会の公式見解を纏めたものです」
メンフィスで起きた領主殺害、並びに違法合成獣開発未遂の件について。
協会は主犯である『アトリ・イスカ』からのペネトレイターとしての称号を剥奪。
極めて危険度の高い犯罪者として、全都市の協会支部へ向けてペネトレイト対象の指名手配を執り行った。
ペネトレイター『アトリ・イスカ』は、現在の社会体制に不満を抱く一部の強硬な『懐古派』と共謀。
以前から懐古派の懸念が掛けられていた第四位魔術師モーリス・ヘンリーソンと共に、違法開発した合成獣によるテロ計画を企てる。
しかし、一連の計画をいち早く察知した第一位魔術師ヘクター・アーチボルトは彼らに対し、合成獣開発の即時中止を命令。
これに対し、『アトリ・イスカ』は犯した罪の追求を逃れるため、計画との無関係を偽装したペネトレイトの捏造を画策する。
手始めに、同計画の関与者であり、過去にペネトレイト対象に指定されていた第四位魔術師オズワルド・ウォルターを殺害。
自身の宿泊先で、多数のペネトレイターを雇いモーリスによる襲撃を偽装した後、彼をペネトレイト対象に仕立てるため屋敷内へと進入。
違法合成獣開発の一件を取り上げ、ペネトレイトを捏造するも――現場への突入を敢行したヘクターの大英断によって宣言は無効化。
逆上した『アトリ・イスカ』はその場でモーリスを殺害し、同時に開発中の合成獣全てをメンフィスへ向けて暴走させる。
街へ向わんとした合成獣達はヘクターによって殲滅されるも、その頃には『アトリ・イスカ』は現場からの逃走を図った後だった。
逃走した『アトリ・イスカ』は同計画に関与していたモーリスの部下達を次々に殺害。
現在もメンフィスに潜伏しながら、街からの脱出を図ろうとしていると思われる――
「……茶番になるとは思っていたが、まさかここまでやるものだとはな」
一通り文面に眼を通したアトリは、軽い眩暈さえ感じて苦々しげに呟く。
モーリスの屋敷からこの店に転がり込むように転移して、今日で数えること三日目。
事実が捻じ曲げられる事はある程度予測の内にあったものの、流石にここまでのものは予想だにしていなかった。
「こんな根も葉もないこじつけがよく通るわね、『魔術師協会』って」
「高階位のものが『白』と言えば、『黒』も『白』になるのが魔術師社会とはいえ……な」
サンドイッチを頬張りながら書面を覗き込んだトトに対し、協会を弁護する言葉がまるで見当たらない。
文面には記述されていなかったが、無論彼女に対しても――協会が何らかの措置を取っている可能性は充分に考えられる。
さしあたっては、現代で表向きに周辺へと認知させている『第七位魔術師トト』の協会所属取り消しといったところだろうか。
アトリと動向を常に共にしている事がはっきりと判明すれば、やがて彼女もペネトレイト対象にまで引き上げられるだろう――
悪名を通り越して厄災の代名詞と化した『北の魔女』に対し、今更『措置』などというのも馬鹿馬鹿しい話だが。
質の悪い笑い話にもならない、この文面の仕打ち。
ユキの襲撃の際に知り合ったあの新聞記者が知れば、果たしてどのような反応を見せたのだろうか。
「最高階位に達した魔術師に対し、面と向って異を唱えることの出来るものは誰も居ない。
その価値観に捉われていない俺達人間は、そもそも社会の上層部に立ち入る事が出来ない――」
そこまで呟き、思い出したのは。
ヘンリーソン家の敷地内、拳を交えた白衣の男。
一挙一投足が奇天烈を極め、存在自体が出来の悪い冗談の様な男だったが。
刻み込むように呟いた、言葉の一つ一つ――今、思い返してみれば。
「……なるほどな。確かにこれは――『強者から与えられた平等』だ」
アトリ達が店主の下に転がり込んだ時、先行させていたはずの若い新聞記者の姿は何処にも無かった。
その時には既に、店主は驚くほどの手際の良さで彼をメンフィスから脱出させていたためだ。
そして――今回の一件における自身達の状況を把握した今、アトリ達もこれ以上この地に滞在する理由は無い。
街から脱出する為の『準備』に店主が店の奥へと消えてから、いつしか店内は深い静寂に支配されていた。
店舗を取り囲むようにして設置された付与魔術の結界によって、店内の様子は結界外のペネトレイター達に気取られていない。
結界の外にいる者達は直接に視覚や聴覚を誤魔化されていることに加え、意識の内から興味の度合いを逸らされてしまっている。
ペネトレイター達の『眼』では付与魔術の構成が補足出来ないという特徴を突いた、元ペネトレイターの店主らしいやり方だが――
この方法では、付与魔術以上の階位を持った魔術師の認識を誤魔化す事が出来ないという欠点も存在する。
事実、戒厳令が敷かれる直前――メンフィス保安局によって行なわれたアトリ・イスカの徹底的な捜索。
構成員の大半が魔術師に占められた保安局に『目を瞑ってもらう』ために店主が用いた交渉材料は、決して安いものでは無かった。
追い立てられる身となった悲壮感などまるで無い様子で、アトリは空になったグラスに新たな琥珀の液体を注ぐ。
二人はいつしか言葉を交えることも無くなったが、居心地の悪さを感じるものではない――それぞれに、静寂を満喫しているのだ。
追う側が埒の明かない捜索に神経を尖らせていく中、追われる側が至って泰然とした様子で腰を下ろした様はどこか滑稽ですらある。
だが、『静』であったアトリを『動』に変えた本能の警鐘――心の奥で鳴り響く、危機に対する第六感。
衝動の突き動かすまま、卓上へと置かれた木製の御品書きを掴むなり側頭部へと盾代わりに掲げて。
銃弾さえ食い止められそうな分厚い木板が、次の瞬間には木っ端微塵に粉砕された光景。
中指を軽く溜め、弾く――トトの放ったデコピンの一撃は、銃撃を凌駕する破壊力で御品書きを容易に貫いてしまっていた。
「……あら? ひょっとして力の加減、間違えたかしら」
「反応が遅れていれば、炸裂していたのは俺の頭の方だったろうな」
淡々と指摘すると、トトは申し訳なさそうに苦笑を浮かべ――再び中指を弾く。
眉間を貫いた衝撃は本能的な危機感を呼び覚ますものではなかったが、割り箸ぐらいなら叩き折ることも出来ただろう。
しかも衝撃は一度限りのものではなく、細く白い指は連続して眉間を弾き続けるまま、一向に止まる気配を見せない。
「痛いぞ」
「当たり前じゃない、痛くしてるんだから」
無表情に抗議したアトリに対し、トトはにっこりと微笑みながら彼の両頬を指で挟んで摘み上げた。
「これは『おしおき』なんだから、痛くなかったらおしおきにならないじゃない」
「おしおき……?」
「そう。無茶無鉄砲、向こう見ずな暴挙ばっかりするアトリへの、お・し・お・き」
そのまま、両側に大きく引っ張る――やっている事は微笑ましいが、皮膚が千切れる寸前まで伸ばされた頬が発する痛みは尋常ではない。
そして殆ど拷問に近いレベルで顔の下半分を弄ばれながら、上半分の表情を殆ど変えないアトリの神経は剛胆を通り越して鈍感である。
「俺は無茶と暴挙は打たんぞ」
「『アルフェイル』を、自発的に使うなんていう行動、暴挙じゃなかったらどんな大博打なのよ?」
「ああしなければ、俺は今こうしてここに座っていることは出来なかった――それだけだ。
それに俺は、確証の無い賭けが出来るほどの剛毅さは持ち合わせていないんでな。使うと選択した以上、扱えるだけの確信はあった」
「……事前に何の情報も無かった事で、私が抑え込めなくなる可能性は考えなかったの?」
トトの呟きに対し、アトリは軽く片眉を上げてみせると。
「――それは考えていなかったな。お前なら、何とかなると思っていた」
「……もう。それじゃ怒ればいいのか喜べばいいのか、全然判断出来ないじゃない」
ただ失念してしまっていたのか、それとも信頼を置いていたが故の言葉であるのか。
どちらも可能性としては考えられるために、トトの笑顔が思わず苦笑の形へと崩れる。
そうして暖かさを取り戻した表情のまま、限界まで引っ張り上げた両頬を――最後にぱちんと、軽く掌で挟み込みながら。
「右腕……どこもおかしく、なってないのよね?」
「少なくとも、感覚の欠損や伝達系の支障といったような反動は特に見当たらないな。
こちら側から呼び掛けてみたのは初めてだったが、この様子なら『奇跡』という訳でもあるまい」
「でも……突然ね。ここ暫く目覚める事が無かったとしても、いきなり制御が効くようになるなんて」
「気分屋なのはいつもの事だ。もっとも……上手くいったのは、これの存在も大きいんだろうが」
冷えた銀の眼差しを、己へと向けて落とした時。
夜の闇へと迸りながら、ひとりでに解き放たれる――黒の布帯。
「右腕に巻いていたのは僥倖だったな。これに織り込まれているのはお前の髪だ。
制御の際、何らかの効果があったとしても不思議な話ではないだろう」
幾重にも織り重ねられた黒の合間から、少しづつその姿を外気へと晒していく右腕。
鍛え抜かれてはいるが、特には何の変哲も無いただの腕――だが、それを見つめるアトリの表情は。
まるで布帯によって厳重に封印し、存在自体を秘匿してしまっているかのような錯覚を覚えさせる程に真剣なもの。
「制御といっても、せいぜい寝返りを打たせてやる事が出来るようになった程度だが……。
一度の覚醒で三回。連続でやれと言われれば辛いものがあるが、これぐらいなら今後も安定して扱えるだろう」
「……今後、扱わなければいけない局面に遭遇することなんてあるのかしら」
「間違いなくあるだろうな。俺がこれを扱えるようになった事に、いずれ『奴』は気付く」
『奴』と言う言葉が、唇を付いて出た時――アトリの周囲に漂う空気の質が、変わった。
「そうなった時、静観を決め込もうとする筈が無い。俺が『奴』ならそうしている」
微かに店内を吹きぬけた夜風に前髪が払われ、色違いの双眸が夜の闇へと露わになる。
色合いも性質も異なる双つの瞳に、共通して浮かび上がっていた一つの感情の輝き。
「でも……まだ、気付いてはいないんでしょう? だったら――」
「勿論、無闇に使うつもりは無い。だが俺もいつまでも、現状に甘んじているつもりは無いんでな」
赤熱する溶鉱の輝きにも似た灼熱の内に、紅蓮地獄の凍土さえ凍てつくほどの鋭さを孕む。
かつてその名を口にしたユキへと見せた感情の猛りを、より研ぎ澄ませたようなその感情の正体は。
「『奴』が出てくるつもりが無いなら……こちらから決着をつけに行くだけだ」
自らも、撃ち殺しかねない程の『復讐』。
「……そっか」
両の頬を抑えていた掌が、滑り落ちるようにそっと離れた。
微かに引いた顎、垂れた黒髪に隠されて浮かべた表情を見取る事は出来ない。
既にアトリの表情から、業火のような感情は消え去っていたが――言葉を交わすことは、無く。
小さく刻まれる時計の針の音は、かえって合間に漂う沈黙を強める事にしかならない。
「……痛いぞ」
やがて、俯いたままに伸ばされた白い手が――布帯の下の右腕を、そっと掴んで抓ってみせる。
「……痛いなら、いいの。だって痛くしてるんだもの」
スツール一つの距離を隔て、ゆっくりとトトが顔を上げた時。
「痛いなら、この手が届くすぐ傍らに……互いがいるって判るでしょう?」
微かに零れる、月の光。
砂漠に咲いた一輪のように、そっと微笑みが華開く。
「……そうだな」
その笑顔を前にして、アトリは微かに同意を示すと。
「だが、どうせならこちらの方が――より確かだと思うがな」
ふわりと、空気が動いた時。
力強い暖かさを、トトはすぐ傍らで感じ取る。
花弁のように白く、細いその肩を抱き寄せて。
寂しげに華開く微笑みを、逞しい両腕が包み込んでいた。
「……やはりいいな、お前は。一度こうして抱き寄せると、手離す気にはなれなくなる」
眼を見開いたまま停止した彼女の時間を、事も無げに呟く低い声が再び動かし始める。
「俺には『独占欲』のような感情は無縁だと思っていたが……自分を捉えることは難しいな。
お前のこの髪も、肩も、体も……この、香りも。他の男には抱かせたくない」
「な……っ、ちょっと……!?」
突然の行動に虚を突かれたところに投じられた言葉は、山のように泰然と在るトトの平常心を根元から揺らがせた。
一瞬で頬は少女のように紅に染まり、容易く調子を狂わされてしまった事への羞恥が赤面の度合いをさらに強いものへと促す。
普段ならいくらでも浮かぶ調子の良い言葉は全て頭から吹き飛んで、もどかしげに唇を噛んだ――彼女の、耳元で。
「……何を不安に思っているのかは知らんが、俺はお前のような『死にたがり』では無いんでな。
一度『死』が決まれば異を唱えるつもりはないが、生きられる可能性があるのなら俺は『生』を強く望む。
でなければ、お前をこうして求められん。単純な理由だが……すぐに忘れるお前でも、これなら覚えやすいだろう?」
「……こんなのに執着するのなんて、アトリくらいの変わり者だけよ」
「そうか。まあ、別に構わん。お前の可愛さを、俺が知っていればそれでいい」
「…………馬鹿」
目の前の逞しい胸板に額を押し当て、消え入るような声で呟く。
敗北を悟った『北の魔女』の意地っ張りな最後の抵抗に、アトリは穏やかな表情を浮かべる。
「だから、痛いと言っている」
「……いいのよ。そこまで言って『愛してる』の一言も無い卑怯者には、これで充分なんだから」
俯いたまま、右腕を軽く抓った指先の存在に――苦笑とともに、そっと自分の手を重ねながら。
「褒め言葉として受け取っておこう――お前の事を、愛している」
顔を上げたトトの唇に、自分の唇を深く重ねた。
「……もう少し、時間を置いてから顔を出すべきでしたか」
どれだけの間、そうしていたのか――控えめな様子で店主が言葉をかけるまで、二人のキスは続いていた。
甘く酔いしれるような唇からそっと顔を離したアトリは、恥じ入った様子も見せず銀の眼差しを彼へ向けると。
「先刻からずっと柱の影で覗いておいて、今更そんな台詞を言うな」
「おや、気付いていましたか」
「別に見て減るものでもないんでな」
減る・減らないの問題では無いのだが――店主はあえて何も言わない。
ただ、昔からは想像も付かないほど女性の扱いに上手くなったアトリの成長を喜ぶようにそっと口元を微笑ませながら。
「脱出の準備が整いました。……お二人とも、こちらへ」
先導する店主の後をついて、アトリとトトは店の奥へと足を踏み入れる。
といっても、表通りの木造店舗に許された空間は少ない――僅かな生活の場を除けば、小さな倉庫が一つあるだけだ。
二人が招かれたのは丁度その倉庫部屋で、限られた空間内には様々な工夫を施され、収納の効率化が巧みに図られている。
だが二人が興味を抱いたのはその整頓術ではなく、靴裏に感じた床の感触が木材から別のものへと変化したこと点にあった。
「この辺り一帯は、かつて魔術都市として機能していた頃に研究施設が集中していた場所でしてね。
魔術による建築術で建造された部屋は、倉庫には丁度良い。一部屋だけ、取り壊さずに残してもらっていたのですよ」
もっとも、そのお陰で土地代がなかなかに張るのですが――と、店主は困ったように苦労を語ると。
「ただ、私にとっては非常にいい買い物でした。このような『おまけ』も付いていましたからね」
掲げた指を、店主が軽く弾き鳴らす。
微かな音と共に、滑らかな動きで床の一部が開き始めたのはその時だ。
人間の技術力では決して為しえない仕掛けによって、隠されていた地下への階段がゆっくりと姿を現わす。
「……地下通路か」
「この部屋が研究施設の一部屋だった頃に、万一の避難経路として用意されていたものだと思います。
もっとも、魔術師達自身はこんなものを使わずとも転移を用いれば容易に脱出など出来るのですから――
逃がすのは人ではなく、研究資料や機材といったものの損失を防ぐために作られたものなのでしょうね」
メンフィスの地下を走る通路は複数の施設で共有していたものらしく、出口は複数に存在する。
その内の幾つかがメンフィスの外にまで繋がっており、脱出経路としてはこれ以上のものは他に無かった。
「これが地下通路全体の見取り図と、街から最も遠い出口に脱出するための道順です」
手渡された地図を受け取ったアトリは――数秒間、穴が開くほど記された経路を眺めた後にその地図を店主へと返す。
「助かった」
「おや、必要ないのですか? 内部は複雑に入り組んでいます。地図が無ければ迷うと思ったのですが――」
「問題ない。地図があろうと無かろうと、現在地を忘れるような俺の記憶力では確実に迷う。
ならば最初から地図を頼らず、直感を頼って切り抜ける方が確実だ」
「相変わらず、忘却する速さは並じゃありませんね……“彼”とはまるで対照的だ」
店主は何かを思い出したように苦笑を浮かべながら、返された地図をトトへと預けた。
その時には既に、アトリは地下深く続く階段へと身を半分以上は沈めていたが――ふと、店主へと振り返ると。
「……この後、この店は一体どうするつもりだ?
保安局に対して手を打った事実は消えん以上は、いずれ外の手合いも嗅ぎ付けてくる筈だ」
そうなった時――この地下通路の存在が明らかになるだけではない。
ペネトレイト対象を匿ったとして、店主もまたペネトレイトの対象とみなされるだろう。
アトリの眼差しを真正面から受け止めながら、店主はほんの少し様相を崩すと。
「勿論、私もそう遠くない内に撤退させて頂きますよ。
ただ、まだ一仕事残っておりますので――それを片付けてからという事になりますが」
普段と何も変わらない、穏やかで筋の通った言葉。
「……そうか」
暫しの間、その場に留まっていたアトリは――やがて小さな呟きと共に、鋭く身を翻す。
足早に階段を駆け下りていく彼が、背を振り返ることは二度と無かった。
夜はさらに深く更けて、既に明け近く。
月も地平の果てへその身を倒し、うっすらと東の空が明るみを帯び始める。
連続して咆哮した猛々しい銃声と共に、弾丸の嵐が店内を蹂躙してのけたのはその時の事だった。
卓机が破壊され、壁の棚板が弾け飛び、飾られていた酒瓶が次々に割れて床へその中身をぶち撒ける。
僅か数秒で滅茶苦茶に荒らされた店内に、半分食い千切られたスイングドアの蝶番を蹴り飛ばして続々と踏み入った足音。
体格も服装もばらばらな彼らにただ一つ共通していたのは、胸元と双眸に湛えた――欲に飢えた粘性の輝き。
「出て来やがれ、アトリ・イスカ!」
先頭に立っていた男の一人が天井へ向けて発砲し、ヤニ臭い唾の塊を床へ吐き棄てて靴裏で踏みつける。
「テメェがここにいるってのはとうに調べがついてるんだよ!!
さっさとその面出さねぇと、店ごと全身蜂の巣にしてぶっ殺すぞ!!」
彼に率いられた二十人以上のペネトレイター達の拳銃ならば、それを実行できるだけの力があった。
だが、怒声は空しくも静寂の中に吸い込まれ――額に青筋を浮かべた男は、銃爪にかけた指に力を込めると――
「……いらっしゃいませ」
店の奥からゆっくりと姿を現わしたのは、バーテンダーの制服に身を包む背の高い老人だった。
『客』と呼ぶにはあまりに無粋で荒々しい気配を纏った男達にさえ、普段の丁寧さを崩さず一礼するが――
その足元、轟音を上げて床板へと突き刺さった弾丸は硝煙を纏いながら革靴の爪先を微かに焦がす。
「テメェはお呼びじゃねぇんだよ――いいか糞爺、これは『お願い』じゃなくて『命令』だ。
その耄碌した古臭ェ脳味噌、店ン中にブチ撒けたくなかったらさっさとアトリ・イスカを出しやがれ!!」
――メンフィスの保安局で、口止めをされていた事実と彼の正体を知ったのはつい先刻の事。
希望期を生き抜いたペネトレイターというだけあって、流石に年齢の割には随分と立派な体躯をしていた。
だが言い換えればそれだけの事であり、引退したこの年寄りは『銃』を所持しているわけでは無い。
二十以上の銃口の前に晒されて平静でいられるはずもなく、顔を上げた店主の顔は死への恐怖に強張っていた。
「わ……私は脅されていたんです。この街で顔が効く事を利用して、街からの脱出を図るために」
「繰り言は冥界で紡いでな。そんな出任せで時間稼ぎなんざ――」
「本当です! み、店の奥を見てください!! そこにある隠し階段を使って、地下からたった今逃げ出したばかりです!!」
紳士の仮面を剥ぎ取られ、恐怖に引き攣る老人の声は聞き苦しかったが――男は目線で後続に指示を飛ばす。
たちまちその内の数人が店主の傍を通り過ぎ、店の奥へと突入していく。
「ペネトレイト対象を匿った奴は、自らもペネトレイト対象になる……元ペネトレイターなら、それも判ってるんだろう?」
「し、指名手配犯をペネトレイトする為の有益な情報を提供した場合、酌量の余地も幾らかは残されていた筈です」
「そこまでして死にたくねぇか。みっともなく生き恥晒すだけの糞爺が」
呟きながら――男は銃爪を引き絞る事無く、舌打ちを洩らした。
いくらみっともなかろうと、この男がメンフィスの街でかなりの影響力をもっている事に違いは無い。
この場の衝動だけで射殺して、それがペネトレイトとして認められなかった場合――厄介な事になるのは確かだ。
「――ありました! 奥の倉庫に、地下に続く隠し階段があります!!」
加えて、提供された情報が確かである以上――この場で射殺することは難しかった。
忌々しげに舌打ちを洩らした後、男はホルスターに拳銃を納めながら店主の横を通り過ぎる。
「ちっ……命拾いしやがって。おれが行くまでその場で待ってろ!!」
「お……お待ち下さい」
その背中にかけられた震える声に、苛立ちさえ覚えながら胡乱げに男は振り返った。
「これ以上何だ。――時間稼ぎのつもりなら即座に眉間に風穴が開くぞ?」
「いえ、私の事を信じて下さったお礼に……皆様に一瓶づつ、お酒を提供したいと思いまして。
小さな瓶ですから持ち運べるものですし、この戒厳令の中――暫くアルコールは口にされていないでしょう?」
店主の善意の提案に、後続のペネトレイター達の間から歓声や口笛が上がった。
重度のアルコール依存症である事が多い彼らにとって、その差し入れは充分に魅力的で歓迎に値するものだ。
先頭にいた男にも、その甘美さは変わらない――もっとも、店主の提案が『善意』ではない事も充分に承知している。
アトリ・イスカを捉えた後に、片棒を担ぐ事となった店主の罪を如何様にするかは自分達の発言に拠るところが大きい。
故の『点数稼ぎ』であった事は見え透いていたものであったが、それを差し引いても数日振りの酒は抗い難い魅力を発していた。
「チッ……さっさとしろよ? 安酒振舞うようならこの場で撃ち殺してやるからな」
「勿論、心得ております……当店で扱っているものの中でも、一番のものを提供させて頂きます」
いそいそと店主はカウンターテーブルの中へ沈むと、幾つか積んであった木箱の一つを持ち上げる。
だが、極度の恐怖から汗に濡れた掌ではしっかり支える事が出来なかったのか――箱の重みに、片方の手の指が外れた。
派手な音と共に卓上で砕けた木箱から、次々と中身が店中に転がる様子にペネトレイター達の間から失笑が漏れる。
しかし、彼らが各々の足元に転がった木箱の中身へと目を落とした時。
薄ら笑いを浮かべていた表情は凍て付き――縫い止められたように、その場に立ち尽くした。
店中に転がった、細長い円筒――先端に導火線を備えた、夥しい数の爆薬。
「――私の田舎芝居を信じてくださった事へのお礼です。当店で最高の、最も刺激的なものを用意させて頂きました」
落ち着き払った言葉と共に、店主はマッチ箱の尻を軽く叩き――細い木軸を指先に摘むと。
「当店、最後の振舞いです。存分にお楽しみ下さい」
我に返った男達が、手にした相棒の銃爪を引き絞るより僅かに早く。
撒き散らされたアルコールの上、真一文字に先端を擦った。
欠けた銀盤が、地平の果てへとその身を没し。
やがて紺碧は東から、ゆっくりと白みを帯び始める――夜明け前。
「……ん……風が、心地良いわね♪」
何も遮るものの無い荒野に吹き抜ける風に帽子を飛ばされないよう、手で軽く抑えながら。
肌を擽る感触を楽しみ、微かにトトは眼を細めながら――ゆっくりと背後を振り返る。
「かなり揺れたみたいだけど……大丈夫かしら?」
「普通なら、間違いなく死んでいるだろうな」
彼女の隣で長躯を外套に包んだアトリも、今は遠いメンフィスの街並みを見据えて呟く。
店主が『残した一仕事』が果たして何であったのか、振り返ったあの時に察しは付いていた。
気の利いた判断で常にこちらの要望以上の事をしてくれる彼は、今回もまた最大限に気を利かせてくれたのだ。
アトリ達と繋がる『自分』という存在を隠滅することにより、より『メンフィスを脱出する』という目的を果たしやすくするために。
「だがあの人の場合、恐らくはそうはならん」
「それって、アトリの勘?」
「ああ――だが、当たる。きっとどこかでまた会うだろうさ」
それを信じて疑わず――アトリは帽子の縁を抑える。
冷たく乾いた風が砂塵を巻き上げ、東の空に照らされてうっすらと白い輝きを帯びた。
「これから……どうする?」
荒野を歩き始めた彼の傍ら、同じ道を共にする『北の魔女』の言葉。
「……あの男は『アルフェイル』を知っている。何処で誰に教わったのかを問い質す必要があるだろう」
並ぶ二人の横顔が、眩い光に照らし出される。
夜が終わり、また新たな世界の始まりを告げる夜明けの銀光。
「それに俺はペネトレイターでは無くなったが、俺自身を辞めた覚えは無い。
なら例え、ペネトレイターを追放されようが――俺のする事は一つだ」
異彩の輝きを秘めた双眸に、揺るぎない決意を湛えて。
「ヘクター・アーチボルト――奴をペネトレイトする」
――『双隻眼』、新たな始まりを告げる。



