No.03-EX02 Alfail story Episode Penetrater
双隻眼のアトリ・イスカ

第四十一話 『恐怖』を孕むモノ

室内を照らすだけにしては、少しばかり過剰に灯された照明。
それはこの刻限、本来の支配者たる闇と影を徹底的に駆逐し――部屋の隅々までをよく見渡す事が出来た。
注意深い者がこの場にいたなら、室内を構成する数々の調度品が他の場所より上質である事にも気付く事が出来たはずだ。
重ねた年月に深い色を帯びた書斎机の上、書類の一つを手挟んだ肉の薄い掌を照らし続けているのは輝く拳大の光球。
先程から脇目も振らずに書面へと剃刀めいた視線を走らせ、愛用の万年筆を滑らせては印を捺し、今度は次の書類へと手を伸ばす。
神経質そうに切り揃えられた髪の下、生真面目に律された三十路過ぎの面持ちは光に照らされ、手にした紙のように白い。
蓄積した色濃い疲労を隠そうともせずに、ただ淡々と目の前の書類を手馴れた様子で捌いていく。
その姿を初めて見た時、殆どの人が彼に抱くイメージは『歯車』――大きな機構の運営を支えるに不可欠の、精密で無機質な部品。
少なくとも、使われる側ではなく使う側に属している者だと一目で看破出来た者が誰もいなかった事だけは記憶に留めている。
モーリス・ヘンリーソン。
階位“4”、古くから続く魔術師の一門・ヘンリーソン家の現当主。
そして――メンフィスという名の活気に溢れる暴れ馬を御し、手綱を握って発展を促してきた領主でもある。
時計の針は既に夜半も幾分も回った位置で、盤面に鋭い影を落としていた。
しかし、ちょっとした家なら収められるほどに広い室内、卓上を走る万年筆の静かな響きは一向に休まる気配を見せない。
衣・食・住を含めた殆どの娯楽に何ら関心を示そうとしない彼が、頑なに自身の拘りを主張する唯一の分野――『仕事』。
書斎も執務室も屋敷には立派なものが存在しているにも拘らず、こうやって自室に仕事を持ち込んでは夜分遅くに至るまで手を休めない。
そこまで聞けばさぞ仕事へ情熱を燃やしているように思えるが――細く縁取られた金属枠の奥。
腺病質気味の輪郭には多少鋭すぎる剃刀めいた双眸に、義務感以上の熱意を浮かべてみせた事はただの一度としてないのだ。
屋敷の使用人達が一度は抱く『変わり者』という不敬な認識に対して、他ならぬモーリス自身が己の内に否定要素を見出せない有様である。
故に屋敷で働く者達は――変わり者である自分達の雇い主が何を好み、何を厭うかという事を熟知していた。
例えば自室での仕事中、第三者の干渉によって集中が妨げられる事を彼が何よりも厭う事など。
その行為は殆どの事象に必要以上の関心を抱かないモーリスにとって、唯一の逆鱗へ触れるにも等しい。
故に使用人達は、警備担当者達の進言を全て跳ね除けて得た個室空間の静謐を乱す真似は決して行なわなかった。
だからこそ。
作業の手を妨げるように響いた、小刻みなノック音。
屋敷の使用人達によるものではない事に気付き、モーリスの手がぴたりと止まる。
極めて善意的に考えたとして、緊急に伝令を伝えに来た魔術師協会からの使者。
そしてごく普通に考えれば、『侵入者』――どちらにせよ、正規の手順を踏んでやってきた来訪者が来る時間ではない。
屋敷の保安方式の万全さは世界有数という話であったが、こう易々と鼠の侵入を許すようなら改善と再考の余地があるだろう。
警備を任せる者達の人選も含めて――既に頭の片隅、大規模な人事異動の草稿を練りながら、指先が書類の束から椅子の肘掛へと滑る。
重厚な色にくすんだ木製の巨大扉は、内側にハイ・ダマスカスの厚い鋼板を挟み込んだ複層構造になっている。
よって力づくで破壊することはほぼ不可能、さらに内側から施された施錠を外部から解除する事はモーリスにさえ出来ない。
だがその『保証』はこの扉に限らず――屋敷内のあらゆる扉、窓、通風孔の一つに至るまで約束されたものだ。
それを何らかの手段を講じて誤魔化してきたというのであれば、この扉だけが例外になりうるという『保証』はどこにも無い。
肘掛に備えられた隠しボタンの滑らかな感触を指の腹で確かめ、扉へと向けたもう片方の手の先に識り込まれていく綿密な構成。
幼い頃からヘンリーソン家の後継者としての教育を施されたモーリスに、荒事の経験などただの一度として無い。
それでも彼の誇る“4”という階位は、魔術師としての相当の実力を約束したものである事には違いなかった。
果たして、静寂に張り詰めた空気の中。
突き刺さる勢いで睨んだ視線の先。
「――はいはい♪ ちょっとお邪魔しまーす、っと」
開いたのは『扉』ではなく――その隣の『壁』だった。
想像の範疇に存在する手段では、突破する事の適わない扉。
故に侵入者の取る手立てが、想像の範疇外の行為であるという覚悟は予め行なっていたつもりだ。
だが――それでも扉の横、何の変哲も無いただの『壁』をがちゃりと開けられてしまっては『まさか』の二の句も告げられない。
言葉を失ったモーリスの目の前、まるで最初からそのような仕掛けと細工が施されていたように内側へ開く分厚い『壁』。
切れ目も取っ手も蝶番も存在しない場所を滑らかに押し開きながら、あっさりと侵入者は室内に足を踏み入れる。
骨董品めいて古い三角帽子を載せて――夜空よりなお深い黒髪の下、白磁にうっすらと透けた頬の薔薇色が輝く。
清楚な様相の白いブラウスを内側から窮屈そうに押し上げ、存在を主張するのは張りと弾力を備えた柔らかな双つの丘陵。
対照的に引き締まった腰元から下を飾って、扇情的な短さで闇を切り取ったスカート――伸びる曲線は優美に、気品さえ備えて長く。
神か魔の悪戯めいて造形の極致を体現した姿は美しいだけではなく、輝かんばかりの瑞々しい生命の力を感じさせるものでもあった。
故にその黒曜の双眸から投げ掛けられる深い眼差しに、突き上げんばかりの始原的な衝動を抑える事は同性でさえ難しかったかもしれない。
だが、幸か不幸か――モーリスという男は。
朴念仁さえ呆れるほど、性欲に対しても淡白たる事をを極めていた。
視覚から得たのは、女性が客観的に美しいと称される容姿であるという事実のみ。
心に受けた衝撃もまた、目前の光景の異様さに対しての――鮮烈ではあっても持続する事の無いもの。
――即座に識り上げた構成を展開すると同時、肘掛の内側へ強く指を押し込む。
黒髪の女性の姿はたちまち生じた炎熱の中に呑まれ、生じた紅蓮の大輪に閃いた無機質な九つの刃。
結晶状に圧縮化されていた九体の自動人形達は、与えられた命令に瞬時に解凍されると同時に侵入者を包囲している。
爆発の瞬間、女性が構成を識った様子は無く――自動人形達が手にした長剣は面白みに欠けるほどの鋭さで無防備な彼女を捉えていた。
仮にこの部屋に第三者がいたならば、彼女の美貌が無惨に焼き焦され、八つ裂きに切り刻まれた姿を幻視して思わず目を背けたに違いない。
だが、魔術によって生じた炎熱が急速に退き。
“4”の破壊力の前に、耐魔術処理を施された床や壁も煤けた現実の中。
――まるで何事も生じなかったように、火傷一つ無い姿で立ち尽くす女性の姿。
その全身に向けて抜き放たれた九つの硬刃は、確かに彼女の姿を捉えて喰らい付いている。
だが氷の様に研ぎ澄まされた刃は、全てが彼女の衣服と肌の前に阻まれ――毛筋ほどの緋色を描く事も赦されない。
「ふふ……この全てを包み込む大きさと柔らかさ。私の自慢の一品よ?」
横薙ぎに吸い込まれた刃が豊満な胸元で柔らかく沈み込む様子に、くすりと女性は微笑を浮かべた。
そのままぬらりと輝く黒髪の合間へと繊手を滑らせた時、取り出したのは鈍い光を帯びた一振りの銀の魔杖。
瞬く事の無い紅瞳の意匠に映したのは、刃を振るった姿のままで微動だにしない自動人形達の姿。
その姿を蜘蛛糸のように絡め取っていたのが、足元に佇む影から伸び上がった漆黒の『髪』である事にモーリスが気付いた時。
「隠匿された“至福”――『イメン』」
大気を圧し潰しながらその領域を拡張したのは、瞬時に膨張した『黒』。
その光景は刹那にも満たない合間に収束して――後にはただ、先刻と何も変わらぬ黒髪の女性の姿。
黒髪の女性の姿だけを残し、霞のように消え失せた九体の自動人形達。
「――頭から『ぱくっ』と♪」
唇にそっと人差し指を押し当てて、悪戯げな微笑をふわりと浮かべた時。
喰い千切られたような人形の指が黒髪の合間から零れ落ち――かつんと硬い音をたてた。
「……何故、扉の方を開けようとしなかった?」
不可解な力で自動人形達を殲滅し、律動的に靴音を響かせながら迫る黒髪の女性――トトに対して。
モーリスが口にしたのは悲鳴でも狼狽でもなく、場違いなほど落ち着いた声音で放たれた疑問だった。
「あら? こういった潜入任務の醍醐味といえば『誰も開ける事の出来ない扉への挑戦』というものじゃない。
それならいっそのこと、錠を下ろしてるだけの扉より――始めから開かない壁に挑戦してみたほうが面白そうよ?」
だが、それに輪をかけて場の空気がまるで読めないのが『北の魔女』の恐るべきところだ。
『いっそのこと』で繋げるべき台詞で無ければ、可能な所業でも無い事なのだが――そこに彼女が思い至る事は無い。
しかし『変わり者』と称される偏屈な領主は、トトのその返答に目元を軽く押さえながら溜息を零しただけで。
「……成る程。その様子なら、屋敷の保安方式は完全に使い物にならなくなっているのだろうな」
新しい書類を手元に引き寄せながら再び卓上の万年筆を手に取り、黙々と目の前の仕事を再開していた。
侵入者を目の前にしての反応としてはあまりに落ち着き払ったその様子に、トトの形のよい眉が軽く跳ねる。
「あら……ひょっとして私の事、通りすがりの新聞屋さんと思ってたり?」
「とすると、私は新聞屋相手に万全の保安方式を打倒され、命の危機に晒されている事になるな」
「その割には、全然驚いてないみたいに見えるのだけど」
「これ以上無いほど驚いている。だが大仰に驚いてみせれば、果たして私は君に生き永らえさせてでも貰えるのか」
まるで開き直ったようなその態度は――掛け値無しに口にした、この男の本心だった。
宿屋でもアトリが評していたが、モーリスの領主としての手腕はあまり高い評価を得られてはいない。
『褒める場所が見つからないが、かといって謗るための手落ちも見当たらない』――そんな言葉の似合う『並』の手前。
だがそれはあくまでも、魔術師協会』いう組織の眼鏡を通して見た視点からの評価に過ぎない。
『世界の中心』から――『大観光都市』へ。
大胆なほどの様変わりを見せて、その在り方を変えられたかつての魔術都市。
その変化の煽りを一身に受ける事になったのが、半ば世襲のように長い間この街を治めてきたヘンリーソン家だった。
直接に街の変化を体験する事になったメンフィスの領主は、丁度モーリスの実父に当たる先代当主。
彼の統治者としての手腕はなかなかに高く評価されていたものの、この劇的な変革の前には流石に首を捻り、弱り果てた。
街の舵取りをするにあたっての方針・思考・手段――あまりにも違っていて、今まで培ってきた経験や知識の殆どが役に立たない。
その事は魔術師協会も憂慮していた点であったため、協会から派遣された幾人ものアドバイザーが彼の補佐を担当する事になったが。
それが決して、額面通りの『善意』から来るものでは無かった事を、先代も幼いモーリスも自覚していた。
街がその方針を劇的に変える事となったのは、この街を中心に『人間嫌い』――
『懐古派』とも呼ばれる、人間と魔術師の融和を良しとしない魔術師達が再び力を蓄える事を阻止するため。
かつての中心地を人間と魔術師の交流の場にする事によって、各地に潜伏する懐古派達の心の拠り所を潰すためでもある。
そしてヘンリーソン家が『希望期』後半において人間達の勢に鞍替えしたのは、家の取り潰しを避けるためのものに過ぎない。
根底に変わらず『人間嫌い』を抱いた者が、変革を必要とする街の当主のままでいる事は魔術師協会にとって思わしくない事態だった。
しかし一応は人間との融和を表明している以上、無理に領主としての地位を剥奪する事は不必要な諍いを招く事へと発展しかねない――
そこで魔術師協会が取ったのが、アドバイザーと称した『監視者』達をヘンリーソン家へ送り込む事。
不審な行動を起こさないかどうか常に見張り続け――そして何か手落ちが生じれば、それを機に領主としての地位を剥奪するために。
自分の本分とする領域に逐一口を挟み、公人としての立場だけではなく私生活においてまで在り方を監視し続けられる。
プライドで生きる生き物でもある『魔術師』にとって――ヘンリーソン家にとって、これほど屈辱的な事は無かった。
結論から言えば、先代当主は非常に上手くやってみせた。
常に気を抜く事も出来ない状況の中、一度も彼等に弱みを掴ませる事なく領主としての自身を全うしてみせたのだから。
そして――彼の没後、領主の地位と家督を継いだモーリスの瞼の裏側には、父の背中と遺志が焼き付くほどに残されていた。
「私には仕事がある――領主として、私にしか出来ない事がある。
この書類に記されている内容は一枚一枚が確実にこの街を改善し、堅牢なものへと変えていく。
これらを承認する事が出来るのは私だけだ。私が今ここに生きる意味は、その一点に集約している。
そこで仮に――君を必死の形相で説得し、それによって私の命が一時間ばかり永らえるのだとしよう。
そこで捻出された貴重な一時間の間に、果たして私はどれだけの書類に眼を通すことが出来るだろうか――
答えは零だ。何故ならば私はその一時間を以ってさらなる時間を稼ぐために弁舌を揮い、生きる為だけに時間を浪費する。
そこに何の意味がある? 私が私のために使う時間など――それこそ何の意味も見出せぬ『無駄』なものに過ぎん」
それは『凡才』に口に出来る台詞ではなく、『凡才』が掲げられる覚悟でもない。
変革のためならば、自分の命さえ紙より軽いものとして捉えているのは剃刀めいた双眸。
この冷えた決意が、魔術師協会から派遣されたアドバイザー達をそれぞれに理由をつけて全員を自身の体制から追い出し。
新たな基盤を支えるための柱を手駒から見繕い、自身の補佐――そして万一の際の後継として育て上げてきたのである。
「既に後継は育ってきている。私が斃れたとしても、今ならばこの街の基盤が揺らぐ事は無いだろう。
財が欲しければ屋敷から手持ち一杯持っていくがいい。命が欲しいならこの粗末な体を引き裂いていくがいい。
だが、私の時間と――私の仕事だけは渡せん。これは私の命などより、余程重いものなのでな」
語るべきことは全て語ったとばかり言葉を打ち切り、それ以後は黒髪の侵入者の存在さえ忘れたように黙々と筆先を走らせる。
一方、打ち切られた側は――予想だにもしなかった目前の男の態度と覚悟に、始めこそ軽く眼を見開いて驚いていたが。
やがてこの鉄面皮をどうやって自分の流れに持ち込んだものか、あれこれと考案を始めていた。
互いに限りなく真剣でありながら、どこか間抜けな空気が漂う中。
響くのはた、時計の秒針が刻む律動的な器械音と、万年筆の筆先が卓上を滑る音のみ。
それはともすれば、やがてこの場に第三者が現れるまでずっと続いていたかもしれない可能性を秘めていたが――
現実は、決してそのようにはならなかった。
始まりは、今までに類を見ない強烈な振動――天地をひっくり返したような激震に、室内が滅茶苦茶に掻き回される。
卓上の書類は散乱して宙を白く染め上げた時には、不規則なタップダンスを踊る家具は次々に倒れて轟音を響かせていた。
モーリス自身の魔術を以ってさえ傷一つ付かない強化硝子の窓は一斉に内側へと砕け、瞬く間に室内を満たしたのは『蒼』の洪水。
只事ではない事態に、庭園の状況を見定めようとモーリスは椅子を蹴って立ち上がった――その時。
その顔面を断絶する勢いで、一筋の『黒』が迸った。
「!?」
既にメンフィスを離れて遠く、琥珀の髪を逆立てた眼鏡の若者は思わず振り返る。
爆発した大気が勢い良く全身を殴りつける中、モーリスの屋敷から立ち上った巨大な『蒼』の奔流。
それが果たして何であるのかの知識を、若者は持ちえていない――だが。
肌が泡立つような感覚と共に、酷く懐かしい感情が胸の内からこみ上げてきている。
「……何だ……あの光……?」
世界を染め上げるように炸裂する蒼い光に、呼応するかのように疼く右手の『至宝』。
その事に気付き、ふと彼がその視線を――自らの手元へと落とした時。
「ぐぅ――ッ!? がッ、あ、あああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁッ!!」
爆発するように吹き上がった炎の柱が、骨を焼き焦がす勢いで盛大に天を衝いた。
結論から言えば――モーリスは迸った『黒』に対して反応を取る事が出来なかった。
剣の様に鋭い先端が微かに頬の皮を裂いたに留まったのは、別の力によって強引に『黒』の軌道が変えられたためだ。
「あ……あ、あ……っ……!?」
鋼刃のように硬質化した『黒』髪の一房を、モーリスの背後の壁へと突き立てながら。
まるで壊れた蓄音機の様な苦鳴を洩らしたのは、最前まで艶やかな声を紡いでいた唇と同じものだ。
その変調は唐突であり、かつ重症だった――明晰な瞳からは光を欠いて焦点は定まらず、顔色は蒼白を超えて土気色に変わっている。
さながら糸の縺れた操り人形の様に不自然に折り曲げた体を抱え、数歩よろめいた姿からは先刻まで備えていた美しさと力強さは消え失せていた。
その様子には流石の『鉄面皮』も穏やかならぬものを感じ、彼女へと声をかけようとモーリスが薄い唇を開いた時。
すぐ傍らに突き立った黒髪が、生在るもののように蠢く。
剃刀色の瞳の先、束ねた髪の合間から噴出する――煙の様な昏いもやを捉えた時。
モーリスの背筋を滑り落ちる、溶けることの無い心の氷塊。
「あ――ああ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
そして。
堪えきれぬように――罅割れた絶叫が、白く細い喉を引き裂きながら迸った瞬間。
膨れ上がった黒髪が、無秩序な嵐と化して室内へと炸裂した。
「があああああああっ――あ、ああ、が、あがあああああああああああああッ!!」
喉を迸る叫びは、既に人の形を保ててはいなかった。
生きた松明と化した右腕を抱え、制御を試みる若者の世界で暴走する二つの意思。
心臓頚椎脳髄眼窩耳朶口腔四肢全身、全て内側から引き裂いて解き放たれようとする『解放』。
そしてそれを外側から無理矢理に押し留めようとする、一遍の慈悲も無い万力の様な『拘束』。
相反する二つは決して相殺しあう事無く、彼を彼として構成する皮膚一枚の境界線で暴威を振るう。
沸騰した血液が焼き切れるような勢いで全身を逆流し、神経に溶かした鉛を注ぎ込まれたような激痛が迸った。
細胞が活性化した音がめくれ上がった脳の裏側で響いた時、過負荷に耐えかねた眼球の毛細血管が破裂して双眸を紅く染めた。
骨と言う骨が軋み、内臓は跳ね回って存在を主張し、白濁する意識の中でかろうじて認識したのは、閃光を放つ至宝から齎されたさらなる変化。
至宝からあふれ出すように迸った長い黒髪が、右腕の内側を喰い破りながら駆け上がって若者を侵食していく。
骨が貫かれて筋肉が断たれ、直接に貫かれた神経が放つ想像を絶する激痛――やがては皮膚を貫き、彼を黒く犯していった。
内臓を蝕み、絶叫を迸らせる喉を瞬く間に塞ぎ、這い登って舌を食い破りながら視神経の内側を舐めるように喰らい尽す。
やがて若者の姿は――人なのか、それとも人の形をした黒髪の塊であるのかの判別もつかなく――
「…………ふ……ざけん、な……!!」
だが。
暴れまわる黒髪の中から、微かに響いた若者の声は。
「ふざけんじゃねええええええええええええええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
猛き緋焔にも似た絶叫が夜天を貫き、握り締められた右の拳が地面へ向けて叩き込まれる。
炸裂した爆発は若者の姿ごと、数十dcに渡る一切を破壊の半球の中へと呑み込んで弾けた――
暴れ狂う黒髪は大蛇の群れのようにのた打ち回りながら、鋼鉄よりなお鋭い切っ先で室内を蹂躙した。
壁を撃ち貫き、天井を抉り取り、床板を派手に捲り上げながら置かれた調度品を次々に粉砕して回っていく。
だが、原始的なまでに直接に吹き荒れる死と破壊の嵐を前にしてさえ、モーリスは自身を見失う事が無かった。
唯一心をざわつかせているものといえば、吹き荒れる暴威の中に紛れて響く――壮年の情けない絶叫の響き程度。
その存在に微かに顔をしかめ、一体誰がそんな叫びを上げているのかを確認しようとして。
それが、自分の喉を震わせていることに気付いたのはその瞬間。
両目の端から涙を零し、一色の恐怖に染まった悲鳴を上げ続けていたのは――誰でもない、自分自身。
彼は紛れなく、恐怖に我を忘れていた。
だが、それは目の前で繰り広げられている光景に対してのものではない。
また――それを為している女性に対して抱いたものでもない。
対象の存在しない恐怖。
恐怖という感情だけ先行して存在し、その後に全てが引き摺られる。
全ては、彼女の髪の毛から溢れ出す昏い輝きを目の当たりにした時から。
『黒』ではない――『黒』などと言葉で表現出来るような、生易しいものではない。
ただひたすらに濃く、深く、細胞の一片に至るまでを恐怖へと誘う昏さ。
それがモーリスの心から、無理矢理に理性の遥か底に沈殿する原色の恐怖を引き摺り出している。
暴れまわる髪の毛が段々と室内を黒で埋め尽くした事よりも、昏い輝きが自身を取り囲むような錯覚に彼は恐怖した。
奇跡的に放置され続けていたモーリスの肉体も、やがて格好の獲物として黒髪が捉える。
あるいは、彼の恐怖を高まらせるために周囲をわざと破壊しまわっていたのかもしれなかった。
光の一粒も進入を許さぬように張り巡らされた数十万の穂先が、一斉に鎌首を擡げて絶叫する彼と肉薄する。
柔らかい皮膚を貫き、血肉を吸い上げて骨の髄まで喰らい尽くさんまでの飢餓に喘ぐ『黒』の前に、最早彼には成す術も無く――
……だが。
まるで赤子のように身を縮めて目を閉じたモーリスの肉体に、苦痛は永遠に訪れなかった。
あるいは、痛みを感じるまえに死を迎えてしまったのか――そう思いながら、涙で滲む視界を微かに瞬かせる。
自分の掌さえも識別できないほどの濃密な闇の中、自身の一寸手前で静止していた黒髪の先端達。
さらに顔を上げた時、この光無き世界で唯一はっきりと目にする事の出来た――トトの姿を見つける。
だがしかし、今の彼女の姿を見る事が無かったほうがモーリスにとっては幸せな事であったかもしれない。
「――やめなさい」
誰彼と無く、己で作り出した深い闇へと呟く。
果たしてそれは、先刻まで目の前に存在していた黒髪の女性と同じ人物であったのだろうか?
「聞こえなかった? やめなさいと、私は言った」
その美しい造詣は、何一つとして変わってはいない。
だが、その姿から感じる雰囲気、気配、仕草の一つ一つに至るまでの全てが。
人としての熱を、絶望的なまでに欠落させている。
モーリスも『鉄面皮』と呼ばれ、皮膚の下に流れているのは血ではなく水銀と称されるような男だった。
だがそれと、今の彼女が見せている貌とは起因する根本的な部分からが全く異なっている。
彼女が浮かべていたのは。
――絶望の、貌だ。
「昼間の件といい、あまり図に乗らない事ね。貴方が出張る道理は無いのよ」
彼女の声音と並べれば、絶対零度も熱があるだろう。
美しく響く言葉の一つ一つが、心に鏨を打ち込むような絶望感を刻む。
己の黒髪を塵のように見据えながら――掲げた右手は、愛子を撫ぜる様に優しく。
「寄生している分際で私の言う事が聞けないのなら――遠慮なく壊すわよ」
赤子の脇腹から抉り出した臓腑をゆっくりと握り潰すように、優しく右手が閉ざされていく。
同時に震え始めた彼女の右手首が不可視の力に拘束され、異音を立てながら歪み始めた。
それはまるで彼女自身が、自分の手首を潰そうとしているかのように。
加えた力は緩めず、加えられた過負荷の力に耐えかねて潰れていく右手――千切れるのも、時間の問題かと思われたが。
始まりが唐突であったなら、事態の終焉もまた――呆気無いほど唐突に訪れた。
八方に張り巡らされていた黒髪が一瞬にして元の長さへと収縮し、突然に世界は元の色彩を取り戻す。
「……まったくもう。悪戯っこにも困ったものね」
黒曜石の双眸には深く優しい光を湛え、常に機嫌が良さそうに緩やかな弧を描く唇。
やれやれと肩を竦めながらさらりと髪をかき上げた姿には、先刻の気配は微塵も残されていなかった。
千切れる寸前であった右手首にはその痕跡さえ残っておらず、黒髪から漏れ出ていた昏い輝きもいつの間にか消えている。
――全ては、夢だったのか?
その自問に対しての答えを得られぬまま、モーリスは脱力したように椅子へと腰を崩した。
その顔はたった数分で十年ばかり老け込んだかのように著しく生気を欠き、疲れ果てている。
夢ならば全てを悪夢として、目覚めて忘れ去ってしまいたかった。
だが災難な事に、彼にとっての『夜』は――まだ折り返し地点にさえ、到達してはいなかったのである。
「――随分と派手にやったようだな」
冷えた鋼を叩いたような低すぎる呟きは、一つの嵐を終えて静寂に至った室内にはよく響いた。
続けて響いた鈍い音と共に、鉄骨で補強した爪先で蹴り砕いた窓枠からするりと体を滑り込ませた長躯。
「あら、それをアトリが言うのかしら? これでも大変だったんだから」
非難するように口を尖らせながらも、トトの目は優しく微笑んでいる。
「……一応、埋め合わせくらいは考えておこう。
だが今はまだ、他にやる事がある――そうだろう? 魔術師モーリス・ヘンリーソン」
淡々と紡がれた言葉に、モーリスの顔に苦いものが走った。
剃刀と呼ぶにはあまりに力無い瞳が上げられた時――そこに立っていた銀髪の長躯。
鋼の様に鍛え上げられて引き締まった体躯の上、肩の上に載せられた精悍な面持ちの中。
彼の全てを象徴する――金と銀の、異彩の双眸。
「……『双隻眼』……!」
厚い胸元で輝く銀の弾丸は、照らし出された照明に冷たい輝きを跳ね返していた。



