No.03-EX02 Alfail story Episode Penetrater
双隻眼のアトリ・イスカ

第四十話 Scientia

人が瞬きをするのと同様、長年に渡って眼鏡の装用を続けているといつしか無意識の癖と化す行為。
顔を覆う金属の縁へと、軽く指を添えようとして――『博士』はそれに失敗した。
指先が眼鏡をすり抜けて皮膚に直接触れた時、刺激された痛覚に眼鏡などとうに弾き飛ばされた事を思い出す。
しかし間抜けな行為を嘲笑うように鋭く刺したこの痛みは、果たして指の傷に拠るものなのか、はたまた顔の傷に拠るものだったか。
『シュー』
脚を持たない鋼の巨人が、痛みに顔をしかめる創造主に気遣わしげな視線を送る。
表情はおろか、そもそも『顔』さえ存在しないような無機質な機械の仕草に感情の存在を錯覚するほど。
紅い単眼の先に立っていた『博士』の姿は――称するならば『悲惨』の二文字に尽きた。
纏う白衣は血と泥に汚れて所々が煤け、全身に負った大火傷は白煙を伴いながら蛋白質の焦げる異臭を放つ。
焼け焦げて固まった黒髪は鳥の巣にも似て、止らぬ汗のように額から顎先へ垂れ落ちる流れの色は濃い紅。
世の女性達の殆どが卒倒してしまいそうな美脚も、今は片方を冥界に突っ込んだような凄惨な有様。
それでも自らの足で立っているだけ、『博士』はまだ幾分かましな方だった。
全く同じ損傷を負い――目の前で倒れた銀髪の長躯は、糸が切れた操り人形のようにぴくりとも動かない。
うっすらと開いた瞼から覗いた白目には意思の輝きを看取ることは出来ず、地に沈んだ肉体に一切の『力』は感じられなかった。
「……ふ……」
裂けた唇の皮からは血が滲み、『博士』の独白は掠れて殆ど聞き取れない。
それでも焼けた肺の奥、張り裂けんばかりの夜気を孕んで――自らの勝利を高らかに、夜空へ向けて宣言する。
「勝ったッ! 第三部・完ッ!!」
「――何がだ」
足元から響く平淡な呟きは言葉の意味を打ち消し、続く銃声は言葉そのものを物理的に引き裂きながら吼えた。
生命在らざる喉から迸った鋼の咆哮は、『博士』の体へと吸い込まれてその体を衝き上げる。
寸分の狂いも無く心臓へ狙いを描いた十八の射線は、十八度の長きに渡って桁外れの衝撃で胸郭を打ち据え続けた。
やがて全ての弾丸が解き放たれた時、空弾倉と共に滑り落ちた銃把に代わり――膝から崩れる白衣の両肩を、しっかりと掴み取って。
「――返すぞ」
弾丸を叩く檄鉄の勢いにも似て、跳ね上がったアトリの額が『博士』の額を叩き割った。
炸裂した衝撃は先程に微塵も劣らず、二つの長躯を震わせて――新たに吹き上がった紅の噴水が、銀髪をべしゃりと濡らす。
爆ぜ割れた額から噴出する生温い迸りもそのまま、俯いた二つの姿に沈黙が漂う。
時間に空白が生じたような奇妙な静寂は――やがて喉の奥を震わせる、獣のような唸りによって掻き消されて。
跳ね上がった掌と掌が、鏡と向かい合うようにして真正面から激突した。
互いの掌をがっちりと組み合わせて、力比べのような姿で拮抗した満身創痍の長躯達。
その姿から立ち上るのは無力に焼かれた肉の白煙などではなく、相対するだけで人を殺す桁外れの鬼気二つだ。
火花を散らす意思は肉体の限界を超えて、組み合った掌同士から響き渡る軋んだ音は相手の掌を握り潰す勢いで筋肉を隆起させる。
交錯する金と黒の視線にあるのは、臨界寸前の爆発光――そこには人としての理性など、一欠片も残されていなかった。
このまま拮抗が続いていれば、やがて双方の力は互いの手首から先を挽肉へと変えてしまっていたに違いない。
しかし両者のこの競り合いは、やがて頭一つ飛び抜けた長躯を誇るアトリに軍配が上がることとなる。
裂帛の怒号がアトリの喉を衝いて出た時、抵抗を続ける『博士』の体は高々と投げ飛ばされていた。
まるで嵐の只中に放り出されたように、揉みくちゃに振り回された白衣は――軽業師のように宙で一転、迫る木の幹を鋭く蹴り付けている。
加えられた衝撃に悲鳴を上げて撓む巨木の幹に靴裏で『着地』した時、既に驚嘆すべき平衡感覚は体勢の立て直しを完了。
撓みを戻す反動の勢いもそのまま加速に加えた『博士』の勢いは、アトリの想定していたものよりも遥かに早く、鋭い――
唸りを上げて頬桁に叩き込まれた拳に、首を捻り切るような衝撃が伴う。
大きく震える双隻眼の半身に、さらなる追撃を仕掛けんと『博士』は空いた拳を固める。
だがその目前、奇術のように現れた白銀の銃口の存在に気づいた時には――轟音。
吐き出された衝撃は黒い双眸の合間を正確に貫いて、『博士』の世界を揺さぶりながら大きく吹き飛ばしていた。
砕けた奥歯の欠片を血と共に吐き出しながら、次弾を装填した拳銃を閃かせるアトリ。
鼻腔の奥から噴出する血に構いもせず、双脚を鋭く踏み込んで拳を振り上げる『博士』。
そして――硝子板を錐で引き裂く絶叫と共に、地面を突き破った最後の『虐殺者』が。
激突する寸前の刹那を共有し、相対した。
それは最後の一頭にして、地の奥底で獲物が疲弊する機会を狙っていた狡猾な一頭だった。
予定外の乱入者に描いた当初の予定を多少狂わされたものの、馬鹿な人間達は互いに相争って今や疲弊の極みにある。
この機会を見逃す理由は何処にも無く――ある一要因さえ考えなければ、『虐殺者』の判断力は極めて高いものと言えた。
裏を返せばその『一要因』を失念した事が、致命的なまでの愚慮を生んだと言っても過言ではないのだが。
それは――醒め切った一瞥を投げ掛けるだけで、存在を気にも掛けなかった銀髪の長躯も。
「我輩と『双隻眼』の争いにッ! 今更つまらぬ横槍を差すな――回虫風情があぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
全身から切り裂くような気迫を噴出して憤った白衣の男も、『人間』という枠組みから逸脱した戦闘能力を誇っていたという事だ。
「ドラァァァァァァァァァァァッ!!」
打ち込まれた拳は榴弾さえも圧倒する衝撃で、『虐殺者』の腹部を貫く。
銃撃さえ痛痒に感じないその肉体が、たった一撃で苦悶の叫びに身を捩じらせて――だが。
襲い掛かる衝撃は一撃で終わらず、永遠に続く悪夢の勢いで次々に『虐殺者』の体へと連続して叩き込まれ続けた。
「ドラァッ――ドラッドララララララララァラララッドラララララララララララァッ!
ドラララララララララッドララッドラララララララララララッラッドラアアアアアアア!!
ドラッ!! ドララッ!! ドララララッラララララァラッラララララララァァァァァァァッ!!」
襲い掛かる鉄拳の嵐は、『虐殺者』の外皮を容赦なく抉り続ける。
衝撃を分散させる暇さえ与えられぬ連撃に、壁のように聳える巨躯が撓み――軋んで。
やがて最後には引き裂かれ、裂傷から猛烈な腐食性を伴う体液を噴出させて絶叫を迸らせた。
それでも拳は止まることを知らず、銀の輝きに包まれた『博士』の体は体液に冒される事も無く閃き続け――
「『科学』を備えし我輩の拳にッ! 貫けぬものなど存在せぬわぁッ!! グレェェェェェェェェェェトッ!!」
昇星の勢いで天を貫く最後の一撃が、苦悶に体を折った『虐殺者』の頭部を木っ端微塵に爆砕する。
反動で勢い良く持ち上がった白の巨塔は、失った頭部に想いを馳せるように一度だけ天を仰いで。
やがて轟音と共に木々を薙ぎ倒し、斃れた時――傷付いた拳は既に鋭く畳まれ、次の獲物へ向けて旋回していた。
迫り来る銃弾の悉くを躱そうともせず、真っ向から突き出した拳によって打ち砕く。
だが、横手から迫った射線の一つを裏拳で粉砕した時――銃弾とは異なる感触が手の甲を弾け、『博士』の双眸に跳ね返っていた。
「ぬぅッ!? 眼が見えぬッ!!」
染みるような痛みと共に、生暖かい血糊が『博士』の双眸から光を奪い去っていた時。
自身から流れる血を目潰しに放ったアトリは鋭く間を詰めて、大きな掌で『博士』の頭を掴み取っている。
「銃弾が通じんというのなら――!」
黒髪を引き千切る勢いで――そのまま、引き摺り倒すように。
「拳! 肘! 膝! ――好きな所を持っていくがいい!!」
跳ね上げた膝頭が、『博士』の顔面を真正面から捉えていた。
巨大な杭打ち機を叩き込まれたような衝撃に、一度だけ白衣が震え――やがてぴくりとも、動かなくなる。
金瞳を炯々と輝かせながら、アトリは鼻骨を粉砕した感触と共に血の糸を引く膝で猛然と地面を踏み込んでいた。
猛烈に回転する風車の様に逞しい腕が大きな弧を描いた終点は、堂々と聳え立つ一本の巨木。
叩きつける速度と力は、人間の頭を西瓜のように爆ぜ散らせるには充分過ぎる勢いを備え――唸りを上げて。
それ以上の速度で飛来した鉄槍の破片が、アトリの腹部を深々と貫いていた。
襲い掛かる衝撃と激痛に描いた軌道は大きく逸れ、寸前で衝突を回避した『博士』の体がその半ばで放り出される。
腹筋を突き破り、背面で長々と顔を覗かせた鋭い穂先に――噛み締め損なった奥歯が、軋りながら横手へ滑った。
白く明滅する視界の中、それでも膝を折ることを良しとしない意識だけが崩れた体勢から爪先を旋回させて。
硬いものを砕いた感触を伴い、無力に投げ出された白衣の姿――そこに全ての追撃行為を中止した『杉』の腕を伸ばされていた。
銃弾にも劣らぬ速度で鉄槍を投擲した機械仕掛けの腕が、間一髪で地面に放り出される寸前の『博士』の体を掬い上げた時。
軽い衝撃と共に巻き付いた異物の存在へ向け、単眼の輝きが鋭く収束する。
そこに巻き付いていたのは、丈夫な拵えの分厚い腰帯。
衣服を留めるためのものではなく、収納を確保するために幾つも取り付けられたポケットの中。
収納の半数以上を占めていたのは、『双隻眼』が保有する夥しい数の榴弾。
即座に左腕部を切り離そうとする『杉』の行動。
その腕の中でぐったりと動かない『博士』の存在。
二人を先制して響き渡った『双隻眼』の重たい銃声。
全てが、直後に生じた大爆発に一瞬で呑まれ――白光の中に掻き消された。
焦土に掲げた月、非情なほど透明な輝きをしんしんと注ぐ。
手を伸ばせば掴めそうなほどに濃密に漂っていた闇も、鬱蒼と生い茂っていた木々達も無い。
何もかも吹き散らされて、皮肉な程に見通しの良くなった世界の中――佇む銀髪の長躯は目を引いた。
腹部を貫いた鉄槍は奇妙なオブジェのように存在感を主張し、先端からは今も生命の源を含んだ紅が流れ落ちている。
その姿から若干の距離を隔てた場所に転がった鋼鉄の残骸。
各部装甲はひしゃげて青白い放電光を覗かせ、爆心となった左腕は完全に喪われて。
明滅する不安定な単眼の輝きに、再び動き出す気配を見取る事は出来ず――それは破壊された『杉』に身を預ける男の姿にも通じた。
炎熱に殴打された全身は襤褸切れのように傷付き、辛うじて繋がった四肢の存在が何とか人としての原型を留めさせている。
人の肉体など粉々に消し飛ぶ破壊力に晒された事を思えば驚異的な耐久力であったが、死に瀕した姿である事も違いは無かった。
既にその姿に、戦う力は一握りも残されていない。
生命の灯火を灯し続ける力さえ、果たして残されていたのかどうか。
だからこそ――だったのだろうか。
「……何故」
アトリの呟きは独白にはならず、明確な問い掛けの意思を備えて投げかけられる。
「……何故……そこまで。お前はその『科学』を……貫く……?」
切れ切れに紡がれた言葉は弱々しく、ともすれば吹き抜ける夜風に打ち消されてしまいそうだった。
それでも――はっきりとその声を捉えた『博士』は、最早動かすことも困難であろう焼けた唇を微かに開いて。
「……我輩は、ただ……人の持つ可能性の真価というものを追い求めている……それだけの事よ」
時折、喉の奥を詰まらせながらも――胸の内を語る彼の言葉に、迷いは無かった。
「『魔術』の存在が歴史に現れたのは……今から、五千年前を遡る……。
魔術師達の間に伝わる伝承に拠れば、数々の文明技術と共に……『神』によって齎された力だと、いう……」
『博士』が口にしたその伝承は、アトリも何度か耳にした事があった。
魔術師達の歴史を語る上では決して欠かすことの出来ない、人と魔術の最初の『邂逅』。
「……この際、神の有無や……史実としての信憑性は、あえて問うまい。
伝承というものは、得てしてそういうものだ……それに『魔術』の起源には、些か……不明瞭な点が、多い。
自然に生じたものにしては、前身となる技術体系が存在せず……史上で存在を確認された時には既に、基礎が確立していた。
……『世界の恩恵』のようなものが……魔術の起源にもあったのか。あるいは本当に、『神』から授けられた力、か――」
体を預けた『杉』の胴から、自力で立ち上がろうと試みて――失敗した。
血濡れた掌は自重を支えきれずに装甲の上を滑り、肩から激突した衝撃に息が詰まる。
「……まあ、それは……それこそ、魔術師達に任せることとしよう……。
伝承を引き合いに出したのは……伝承そのものについて、語りたかった……訳ではない。
この、伝承の後……『魔術』を基軸とし、発展を遂げた五千年の歩みの……『本質』を表すのに……丁度、良かったからだ」
手の皮はずるりと剥けて、微かに指先を曲げるだけでも外気に晒された痛覚は激痛を迸らせる。
既に握力など、殆ど残されていない掌で――それでも諦めず、手がかりを探り続けながら。
「双隻眼よ……貴様は、気付いていたか……?」
彷徨う掌は、やがて衝撃に歪んだ装甲の窪みの一つを探り当てる。
「我輩達の歴史における『変格』……それが常に、何者かに『与えられてきた』ものばかりだという事に」
それをしっかりと掴み取りながら――『博士』が初めて顔を上げた。
倍ほどに腫れ上がった顔面は汚れて傷付き、鼻骨を砕かれた様相は別人の様に変わり果てていたが。
「『希望期』……『魔術師達から自由を勝ち取った』。……なるほど確かに聞こえはいい……。
そして現に時代は変わり、我輩達の待遇は大幅に改善された……だがな、双隻眼。
我輩達の自由は『何』によって保障されている……我輩達の自由は何に『赦されて』ここに在る。
……所詮、今の我輩達が享受する自由は……それを赦す魔術師協会という存在に『与えられた』ものに過ぎん。
何処まで行こうとも、な……魔術師は人間にとって……同胞ではなく、絶対的強者と、弱者の……間柄なのだ。
魔術師協会の重要幹部や、都市の領主といった席に、ただの一人も人間がいないのが……何よりの証拠」
唯一つ、嵌められていた黒の双眸だけは変わる事無く、真っ直ぐに前を見つめて。
「……双隻眼よ。我輩達とは……そんなにも脆弱で、愚鈍な存在だろうか?」
装甲を掴んでいた右腕が――うっすらと銀の輝きを帯びた。
「人間は……魔術師という、絶対的な上位者によって『与えられ』……生かされている。
だが、その……魔術師達を絶対の高みに引き上げる魔術は……神に『与えられた』ものだという。
そうやって我輩達は、これからも常に絶対の上位から何かを与えられ続けなければ、何も成せぬ存在だと言うのか?」
その輝きはゆっくり這い上がり、やがて『博士』の全身を銀色に包み込む。
「我輩は――そうは思わぬ」
纏う光は指先を伝い、崩折れる鉄巨人の装甲を駆け上りながら幾何学線状に迸って。
「我輩達はそのような、『優しき絶対者』に依存せずとも……自らの足で歩いていける。
自らで考え、自らで思い、悩み……自らの手で『生み出す』事を可能とする力を秘めている。
それこそが五千年にも及ぶ魔術文明を発展させ続け、そして『希望期』を生み出すに至った……原動力」
紅の単眼が再び、力強い輝きを取り戻した時。
小鹿のように震えていた足はいつしかその長躯を支え、声は再び朗々たる響きで夜を震わせていた。
「故に我輩は追い求める。人が持つ真の力を――この身を以って実践する。
『魔術』という絶対の力への依存と甘えを、人の生み出した『科学』が打倒するその時まで。
足先砕ければ己が膝を以って地に抗い、拳砕ければ肘を以って己が道を貫く――
例え鋼の飛礫、電火熱鉄をもって刀刃を交え我が頭上に雨降らすとも、この歩みを止めるにはあたわじ」
瞳に湛えた輝きは衰える事を知らず――何度傷付こうとも立ち上がる『博士』の姿は。
「それこそが我輩――『科学者』というものだ」
精神にて肉体さえも超越する、科学の力に他ならなかった。
遮るものの何もない焼け跡の中を、冷たい風が吹き抜ける。
穏やかな中に肌を刺すような痛みを孕んで、傷付いた二人の男の合間を吹き抜けていく。
「さあ、双隻眼よ。……そろそろ我輩達の戦いにも、終止符を打つ時が来た」
最早、拳を握り固める事も難しいような手を掲げながら――『博士』は指の腹をそっと合わせる。
その挙動に合わせるようにして、展開した『杉』の胸部装甲から迫り出したのは大口径の巨大な砲身。
「貴様に負わされた損傷は、『杉』をして決して軽いものなどでは無かったが……まだ『オーダー』は残っている。
現状の損傷度を考慮すればおおよそ限界は十五秒――それでも、今の貴様に引導を渡すには充分過ぎる程であろうよ」
『シュー』
右腕を支えにして自身の体勢を保つ『杉』。
虚ろに開いた胸部砲口に灯った銀色の輝きは、『虐殺者』達を一瞬で葬ったあの光条と同じ。
狙いの正確さ、鋭さ、その破壊力も含め、例え肉体が五体満足の状態であっても確実に躱せるとは限らない。
ましてや今のアトリは鉄槍に肉体を貫かれ、大量の失血に加えて全身に負った無視できない深みの痛手の存在――
だが。
「それは――どうだろうな」
気負った様子も、諦めの覚悟も無く――淡々と呟きながら立ち上がるアトリ。
そしてまるで無造作な様子で、自らに突き刺さったままの槍身を掴んで引き抜いていた。
たちまち、背と腹の二箇所から噴出する夥しい量の出血。
塞ぐものを失い、引き抜いた勢いで傷口はさらに広がりを見せている。
「双隻眼よ、貴様……一体何を――」
突き刺さっていた槍を引き抜けば、こうなることは判っていた筈。
自殺行為以外の何者にも見えない彼の選択の真意を汲めず、『博士』がさらに言葉を重ねようとした時――
どくん、と。
強い鼓動が、響き渡った。
「……ッ!?」
『博士』の鼓膜を震わせたのは、心臓の脈打つ音。
だがそれは、自分の中からではない――自分の脈拍が、こうもはっきり耳朶を震わせるはずがない。
誰かの胸元に耳を押し当てたようにはっきりと聞こえた脈動は、一定のリズムを刻む感触さえ備えて『博士』を叩く。
たった一つの心臓が、周囲を取り囲んでいるかのように――否、まるで世界が脈打っているかのように。
――アトリの心臓の鼓動が、世界を震わせている。
「……お前は俺を『伝説』と呼んだ」
脈打つ勢いが少しづつ加速を開始した時、腹部からの出血は納まっていた。
それだけではない――桁外れの存在感を周囲に撒き散らすアトリの全身から立ち上る白煙。
それは異常励起して活発化された全身の代謝が、原生生物並みの速度で肉体を高速再生する事の副産物。
「なら、それに応えてやろう――今からやってみせるのは、俺にとっても初めての試みだ」
右腕に巻き付いていた黒の布帯がゆっくりと解き放たれ、包まれていた右腕を月下の元に晒す。
「失敗すればその時は、メンフィスも含めた一帯全てが焦土と化して消え去るだろう」
剥き出しの右腕が、腰に帯びた長剣の柄へと伸びた時――柄頭に抱いた宝珠が、内側から『蒼』を放って。
「だが――成功したその時は。お前は本当の『伝説』とやらを目にする事になる」
冷ややかな月の輝きを湛えていたアトリの銀の瞳もまた、果てなく深い遥かな蒼へと。
今や太陽の様な鋭い輝きを放つ金燭との『双隻眼』に真正面から見据えられた時、『博士』の全身からどっと汗が噴出していた。
ただそこに在るだけで全身の毛穴は開き、相対するだけで己の肉体が粉々に圧し潰されるような圧迫感。
しかし『博士』は、その絶望的な危機感を前にして――
「ならばその伝説――我輩の胸にしかと刻もう。そうして貴様は果てるがいい。この場この時、我輩の礎としてな」
物怖じする様子も無く、掲げた右腕に全ての神経を集中させた。
二人の全身から立ち上る蒼と銀の輝きは、互いに絡み合いながら雌雄を決する時を待ち侘びる。
「中々に面白かったぞ。別の形で出会ったなら、その時は杯でも交えてみたかった」
「ほう、そこは我輩と意見が一致したか。――だが生憎と、過去形で称される予定は我輩には無いのでな」
「それは俺も同じだ」
正にそれは、嵐の前の静けさのように。
満身創痍の男達がここに来て浮かべていたのは、至って穏やかな表情だった。
目の前にいる相手の事が、別に憎いわけではない。
ただ彼らは、己の道を突き進む過程で真っ向から出会ってしまった。
故に彼らは踏み止まれない。
――己の道を、ただ真っ直ぐに突き進むために。
「最後に一つ答えろ。何故お前は――相手に、俺を選んだ?」
アトリの、その言葉に。
『博士』はふっと――男臭い笑みを浮かべると。
「ふ……それは愚問と言うものだ。科学者が真理を追い求め、探究の手を休めぬように。
強さに焦がれ、常に強き者へと挑戦すること――それは『漢』として望むところ、当然の行為であろう?」
打算も何も無い、馬鹿馬鹿しいほど簡潔な『本音』。
問うた者も、応えた者も。
どちらの口元にも、満足したような笑みが浮かんで。
――そして、爆発した。
「『杉』――ラスト・オーダー」
掲げた指を弾いた瞬間――『杉』の巨躯は肉眼に映らない速度で完全に消え去り。
「“深蝕開始”」
柄を握り締めた腕は――鞘走りの音と共に『アルフェイル』を引き抜く。
銀光、迸って。
世界は『蒼』に塗り潰された。



