No.03-EX02 Alfail story Episode Penetrater
双隻眼のアトリ・イスカ

第三十七話 そして、今また一人

闇の中に漂っていた熱の残滓もやがて失せ、アトリはただ一人取り残されたように立ち尽くしていた。
目前に銃を突きつけたにも拘らずその姿を取り逃がしたのは、あの自動人形――ユキに続いてこれで二人目の事だ。
この失態は今までに彼が刻んだ『双隻眼』の伝説の数々を思えば致命的とも言えたが、体面を取り繕う事に彼は微塵の関心も無かった。
アトリ・イスカという男は、『双隻眼』という『伝説』を目指してここまで歩き続けてきた訳ではない。
伝説はただ、彼の歩いてきた道の後を追って今へと辿り着いただけのもの。
目の前の状況を受け止め、幾多に示された選択肢の中、己自身をただ真っ直ぐに貫く彼の歩き方――
今も昔も変わりなく、今回もまた心の中、既に取るべき選択は終えていた。
硝子球のように感情を映さない瞳の自動人形には徹底した破壊を。
そして、猛った獣の様な輝きを宿した鳶色の双眸を持つ若者には――
「……次に会うその時までに、俺の記憶が保てばいいがな」
翻した背中には後ろ髪を引かれるよな後悔は無く、力強く大地を蹴って一直線に屋敷を目指す――
そのつもりだった長身は数歩を駆け出したところで、影を地面へと縫い止められたように足を止めていた。
振り返った視線の先、若者が地面に擂鉢状のクレーターを穿ってから暫くは大人しくなっていた不安定な地の揺らぎ。
それが息を吹き返したとばかりに、突き上げるような強烈な振動を伴っていよいよ臨界点を迎えようとしていたのである。
地の底から現れようとする新たな脅威を前にして、アトリの両手にはいつの間にか白と黒の戦闘拳銃が居座っていた。
規格外の大きさと重量を伴った相棒達を軽々と構え、どんな相手を前にしても決して怖気づく事の無い異色の双眸を細めて。
「鬼が出るか蛇が出るか――まったく、とんだ伏魔殿だ」
状況をたった一言で片付けた瞬間、勢いよく炸裂した土砂が煙のように月光を透かし――天を衝く巨大な影が躍っていた。
保安方式によって幾重もの入室制限を設けた中央制御室はその特性上、清掃員等を入室させる事が出来ない。
定められた十人程度の利用とはいえ、流石に何ヶ月も手入れを行なわねば埃は層を重ね、空気も淀んでいってしまう。
だが現実には、トトが大きく背筋を伸ばす室内の空気は澄み渡っていて、部屋の隅にさえ塵一つ見受けることは出来ない。
整えられた空調、及び室内の自動清掃機能――部屋の主達に快適な環境を提供するという、たったそれだけのために刻まれた付与魔術。
部屋の主達が瀕死で床に這い蹲り、堂々と居座る侵入者の為に今もその機能が正常に働いているというのは皮肉なものだったが。
「――侵入者へ通告する」
だが、その埃一つ浮かばない静寂を無遠慮に引き裂いたのは――投げかけられた平淡な声。
ゆっくりと振り返ったトトの視線の先で、引き千切られた制御室の扉から次々と人影が姿を現す。
そのいずれも使用人の格好に身を包んだ女性達八人は、この屋敷の格式を思えばさほど奇妙な格好でもない。
奇妙さを極めたのは格好ではなく、顔立ち――全員が寸分の狂いも無く同じ顔だという光景は、些か常軌を逸脱していた。
「貴様にはこの部屋への入室権限が与えられていない。入力された行動規定に基づき、速やかに身柄を拘束する」
抑揚にどこか乏しい声と共に、太ももの付け根の辺りに備えていた短昆を構える様子にもそれぞれの個性は見えない。
まるで同じ人物を八人分、並行世界から集めてきたかのような中にあって、トトは嘆かわしげに肩をすくめた。
「貴女達ももうちょっとぐらい、個性が出るようになれば健全になるんだけど。
『無駄』や『余計』と思える事こそ、意外な価値を秘めていたりするものよ?」
トトのその言葉に、彼女達が何かしらの感慨を抱いた様子は無かった。
それは彼女達が根本的に、情緒というものを理解するだけの高度な擬似人格を搭載していなかったからだ。
彼女達は感情表現の不器用な八つ子などというわけではない――八体全てまったく同じ、最新形式の自動人形達。
保安方式が休止状態であるに現状で稼動する事が出来るのは、搭載された演算中枢が一躯体ごとに独立しているためだろう。
だが独立した演算中枢であっても、そこに個々の人格差が生じるような事は無い――求められているのは、安定した戦闘能力。
それでも、ただ純粋に戦闘能力を追求するでなく、一世代前の愛玩用自動人形並みの外見を持たせたのは人としての性であろうか。
「貴様は完全に包囲されている。抵抗は推奨出来ない」
「あら、抵抗したらどうするのかしら?」
短昆を突き出しながら、熱の無い声が放つ通告に対し――トトは感情豊かににっこりと微笑んでみせる。
「――抵抗した場合は行動規定に基づき、即座に戦闘能力を行使する。
場合によっては、貴様の生命は保証の限りではない――おとなしく降伏を」
「い・や♪」
身も蓋も無い口調と共に、翻った彼女の手刀は――鮮やかな軌道で短昆を握った人形の肘を宙へと弾き飛ばして。
「出来たら覚えておきなさい? 駄目と言われたらやりたくなる――それが『ヒト』ってものだってこと」
短昆を追うようにして宙を舞った、自動人形の首から上――だがその時には既に、抵抗を確認した他の七体全てが行動を完了していた。
面白みに欠けるほど隙の無い短昆の一撃は、挙動を捉え辛いこの武器の特性と相まって非常に対処を取りづらい。
ましてや七方向から同時に叩き込んだ事もあって、人形達の腕にははっきりとした破砕の感触が伝わってくる。
ただしそれが伝える事実は、首と片腕を失った自動人形の胴体が徹底的に破壊されたというもの。
何時の間にかトトと人形の姿が入れ替わっていた事、自身らの手で同型機を完全破壊した事。
人形達は眉一つ動かすことも無く、目前で繰り広げられた光景から彼我の戦力差の再計算に取り掛かる。
情緒の欠片も無い判断と同時、範囲を拡大した感覚器はしっかりと天井に張り付く侵入者の姿を既に捉えている――
人形達は知らなかった。
恐怖にかられ、恥も外聞も捨てて逃げ出せばあるいは一縷の望みがあった事を。
『恐怖』というものを理解できない彼女達には、最初からたった一つの未来しか用意されていなかったのだ。
そして、彼女達は知らなかった。
トトを見つけるまでに要した刹那の刻限は、彼女に永遠の合間にも等しい時間を与えているのだという事を。
「もうちょっと技術の進歩に期待したいわね。これだと運動にもなりそうにないわよ?」
汗一つ浮かべていない後ろ髪を軽くかき上げながら、トトは肺に溜めた息を物足りなげに吐き出す。
そんな彼女の背後、まるで奇怪なオブジェのように紅の噴水を吹き上げるのは首を失った七つの胴体。
平衡感覚を崩す暇さえ与えず破壊された彼女達は、倒れることさえ許されずに皮下循環液で室内を地獄のように染め上げていく。
剛胆な者でさえ目を背けずにはいられない光景を作り出し、その只中にあってまるで普段と様子の変わらないトト。
もしこの場に第三者がいれば、ぷんすかとお茶目に憤慨してみせる彼女の姿をそのままには受け止められなかった事だろう。
あるいは血で血を洗い、幾多の屍の山を築いて眉一つ動かさなかった『北の魔女』の姿をそこに見出したかも知れないが――
生憎と現実世界にその事へと思案を巡らす権利を与えられたものは一人もおらず、トトはゆっくりと人形の残骸へ振り返る。
ようやく勢いも収まってきた紅の滝を眺める瞳に憐憫の情は無く、湛えられていたのは仔細な情報も逃さぬ観察者の鋭い輝き。
「……『物足りない』といったところで、これが今の『当たり前』か」
合成獣に比べて、技術研究や開発が盛んになってきたのが比較的最近である自動人形。
まだまだ開発の余地が残されたこの分野は円熟に遠く、年月を重ねるごとに見違えるほどの向上と発展をみせている。
そのひたむきな姿勢は、ほんの数十年前には人形そのものの姿であった彼女達を――随分と人間らしい姿にまで進化させてきた。
たった今破壊した彼女達も、戦闘用の乏しい感情表現部分さえ差し替えれば傍目に人との区別がつかないものであっただろう。
だが戦闘用自動人形として最新型の彼女達であっても、動きに残る独特の硬さや長袖に包まれた肘や手首の球体関節は隠せない。
アトリの命を狙い、トトさえも圧倒したあの自動人形――彼女と比べれば、まるで稚拙な玩具のようで――
“――今の貴様の性能では、私に敵う要因が無い――”
「……なかなか言ってくれるじゃない? 言う以上のことをする子でもあったけど」
勝ち誇るでもなく平淡に言い放った少女の姿は、今も瞼の裏に焼きついている。
その言葉は正に人形らしく、感情の熱を欠落させたものであると同時――究極の客観性を備えた状況分析の結論。
そこに潜む唯一つの『事実』は、千の蔑みよりも残酷な鋭さをもってあの時の彼女を切り捨てたのだ――
「その瞬間はそうだとしても、一秒先には違っていること。今度は私が教えてあげるわ」
一つの決意を呟いた瞬間、ぬらりと輝きを帯びたトトの黒髪から勢い良く飛び出した鈍色の輝きがあった。
矢のように鋭く宙を踊ったそれは、一転して手の内へと収まり――彼女の上背ほどの長さもある長杖に収斂する。
大鎌の刃のように左右へと分かれて突き出した杖先、瞳を思わせる意匠の先端で瞬くように輝きを躍らせる色鮮やかな紅の大粒。
「久しぶりね――『カドゥケウス』。昔ほどの力は無いけど、私は愛想を尽かされてない?」
神代の御世、神々の書記官ジェフティがその手に携えたと伝えられる二頭蛇の魔杖・カドゥケウス。
奇しくも同じ名を冠したその銀杖は、うっすらと纏う鈍色の輝きを強めながら主の呟きに応じてみせる。
左右に突き出た杖先は、まさに二頭の蛇が絡み合うようにも見えたが――伝承と現実は、やはり微妙に異なっていた。
神々の調停者であるジェフティが携える魔杖は、医学と生命を司る象徴としての杖であったのに対して。
究極の破壊者であるトトが手にしたこの長杖は、かつて彼女と共に在り、幾万の命を奪い去った災厄の一振り――
制御室内の静寂に満ちた空気に靴音はよく響いて、各所から集結する硬い靴音が律動的な響きを刻む。
手に馴染んだ愛杖の感触を確かめ、旋回させた杖先で紅の軌道を鮮やかに描いて。
「さてと――それじゃ、リバビリと洒落こもうかしら!」
状況を楽しむ呟きと共に、黒髪で尾を描く彼女の動きが――床を蹴って爆発した。
粉塵の中に聳え立つ影は月まで達する尖塔めいて高く、そこから何らかの生物の姿を想像することは難しい。
だが、何らかの想像をつけたとしても――晴れゆく視界の中で明らかになったその姿は、想像の斜め上を突き進んでいた事だろう。
5dcを超える高みからその鎌首をもたげていたのは、醜悪なまでに肥大化した蚯蚓の化け物。
その外皮は甲虫の幼虫を思わせる病的なまでの白さを誇り、頭部と思われる先端に備えた大顎だけが硬質な褐色に形作られていた。
毒々しく咲いた華のようにうっすらと開閉する大顎の一片――垂れた粘液は地面に触れた瞬間、泡を立てて砂を溶かし悪臭を発生させる。
その姿は生理的な嫌悪感を催させるに申し分の無い造詣だったが、幸いにも相対するアトリには虫を苦手とする傾向は無かった。
「ただ、ひたすらに見苦しい――作った奴の気が知れんな」
呆れたような一瞥を差し向け、紡いだ言葉以上に早く銃爪を引き絞る。
無造作に放たれたように見えた一撃は蚯蚓の中心を正確に捉えており、突き進む鋼の顎は喰らう相手を選り好みしない悪食の徒。
この顎ならば例え見ているだけで不快感の募る蚯蚓相手であっても容赦なく牙に捕らえ、肉を食い千切って通りの良い風穴を開けてくれる。
しかしその予想とは裏腹、弾丸は表皮に激突した次の瞬間、全ての力を失ってぽとりと地面に転がっていた。
弾き返すならまだしも、あまりに呆気無いその様子は流石に予想だにせずさしものアトリも眼を見開いて言葉を失う。
だがその時には高く聳えた巨躯は驚嘆に値する俊敏さで身を捩り、限界まで開いた大顎を誇示しながら彼へと襲い掛かっている――!!
「――ちっ!」
大顎は鋭く後方へと跳躍したアトリを寸前で捉え損ねたものの、そのまま怒涛の勢いで地面を爆ぜ破って地中へと潜り込んでいく。
アーチを描きながら地面へ吸い込まれる白濁の巨体は長く、今まで見せていた長躯さえ全長の一部に過ぎなかったことが知れた。
地中を潜航しているとは思えない速度で潜り込む巨体は、丁度アトリが体勢を整えた時に全て地中に吸い込まれている。
「造詣は最悪だが、性能はその限りではないか」
胸元に残る、交錯の瞬間の薄気味悪い空裂の感触にアトリは一人ごちる。
彼はトトと違って、地下施設の存在は知らない――故にこの生物が、開発されていた新型合成獣の『完成形』である事。
覚醒状態に入っている現状は全く想定外の事態である事、そして行動の抑制が効かず暴走してしまっている事などを知らないでいる。
ただ、それでも真っ当な進化を経た生物に見えない外見はこの生物が合成獣である事を何よりも主張していた。
加えて合成獣の規模も性能も、協会の性能規定を逸脱している――開発申請を届け出ていないこの屋敷に、合法的に存在するものではない。
そして、何よりも重要な事は。
あの巨大な蚯蚓が、今のアトリの行動をこれ以上無いほど阻害する存在であるという事。
それさえ判っているのなら、彼が取るべき行動はただ一つ、たった一つでしかない。
不安定な振動の最中、何の前触れも無く爆発した地表から踊った巨影は鞭のようにしなやかに。
突撃は充分すぎる速度と質量を兼ね備え、脆弱な人間の肉体などばらばらに打ち砕く威力を秘めて迫る――
「――お前の相手は時間の無駄だ」
だが、目前の人間は冷えた鋼の様な呟きと共に、迫り来る合成獣の頭部を旋回させた爪先で迎え撃っていた。
そして次の瞬間、遥かに巨大であるはずの合成獣の体が横手からのベクトルに巨体を震わせ、突撃の向きを捻じ曲げられている。
まるでトトのような快挙を成し遂げた爪先が地面を踏んだ時には既に、両手に携えた二丁の獣達の虚ろな眼はそこに獲物の姿を捉えていた。
「銃撃を無効化するか――だが、力押しはお前の専売特許ではない!」
白と黒の殺戮者達は立て続けに咆哮を重ね、己の存在意義をかけて巨体へと何度も牙を突き立てる――
魔術障壁を強引に撃ち貫くアトリの拳銃さえも無効化してみせた、高い衝撃分散能力を備える合成獣の外皮。
しかしそれも衝撃を分散している最中に次の一撃を、針の穴さえ通すような精密な狙いで叩き込まれ続ければやがて限界は訪れる。
腹腔に重く響く銃声が連続する中、湿った布袋が裂けるような異音と共に噴出す半透明の体液――比較的外皮の薄かった首の間接部。
果たしてこの合成獣に痛覚など存在しているかどうか判らなかったが、暴れ狂ったように身を捩らせて合成獣は天高く絶叫を迸らせた。
まるで数千枚の硝子板に鉄釘を立てて引っ掻き回したような甲高い叫びは、強烈な不快感を伴って周辺の草木をびりびりと震わせたが――
「――消し飛べ、害虫」
呟きと共に放たれた一発の榴弾は、鮮やかな放物線の終点を合成獣の咥内に描いた後に炸裂した。
その顎に捕えた獲物からの内からの抵抗も考慮された合成獣の肉体――本来なら、榴弾の爆発にさえ耐えただろう。
だが、先程外皮を貫いたばかりの二つの穴は、体内で暴れる爆発エネルギーに格好の逃げ場を与える形となった。
体液に代わって炎を噴出した間接部は、やがてさらなるエネルギーの逃げ場を求め、節に沿って強引に穴を引き裂いていく。
まるで炎の剣に切り裂かれたように切断面を炎に彩った合成獣の頭部が、自重に耐え切れず地面へと落下した時。
平衡感覚を失った乳白色の巨体は、糸が切れた人形の様に全身から力を失い――盛大な地響きを伴って大地へと崩折れていた。
「虫が素体なら、もう少ししぶといものかと思っていたが……見当違いか」
合成獣の死骸が完全に活動を停止した事を確認して、アトリは視線を横手へと向ける。
そこに転がっていた合成獣の頭部――難燃性まで備えているのか、切断面で踊る炎が勢力の拡大した様子は無い。
屋敷内で違法に行なわれていた合成獣開発の物的証拠としてこの遺骸は申し分無かったが、如何せん持ち運ぶには大きすぎる。
勿論、これほどの巨体ならば短時間での処理も難しいだろうが、隠滅されるよりも早くモーリスの元に辿り着くに越した事は無い。
鋭く意を決し、屋敷へ向おうとしたアトリの足元――まるで既視感のような不規則な振動が襲いかかったのは、直後の出来事。
「……成る程な。特性を反映したのは潰されて死なないしぶとさでは無く、『一匹いれば三十匹』の方か」
炸裂した地表と共に次々に天へ聳え立った白い巨体達へ、再装填を終えた大型拳銃が旋回した。
『眠らぬ街』の異名を誇る観光都市・メンフィスの活気は昼も夜も絶える事が無い。
だがそれは、繁華街の集中した中心部での話であって――宿泊施設の集中した地区や住宅街では話は別だ。
夜も円熟したこの時間、静寂のヴェールを被せられた街はまるで街そのものが深い眠りへと落ち込んだような錯覚を覚える。
――まさかこの時間に、獣のように瞳を輝かせながら疾走する人影がいるなど普通は夢にも思うまい。
夜も更けた街中を一直線に走破していたのは、アトリと相対したあの若者だった。
地面を蹴るその様子にあまり物音への配慮は感じられなかったが、それでも彼の存在に気付くものは誰もいない。
例え物音に気付いた誰かが窓から外を伺っても、その時には既にその場所から若者の姿は失われてしまっているからだ。
駆け抜ける若者の速度は、既に『速い』となどという領域ではない――人が出す事の可能なスピードの限界を超越している。
「ふ――ッ!」
吐き出した呼気は刺突のように鋭く、跳躍した痩躯は数dcの高みを越えて日干し煉瓦の屋根の上に乾いた靴音を響かせた。
そのまま速度を緩める事も無く屋根から屋根へと飛び移る姿は非現実の極みだったが、それを目撃した者は誰もいない。
一秒ごとにモーリスの屋敷から離れていく若者は、軽く自分の顔に手を当て――まだ笑顔が消えていない事に苦笑を浮かべた。
あまりに嬉しすぎるためか、どうやら感情のコントロールが上手くいっていないようだ。
今もどうしようもない程に己の内側から突き上げる高揚感を前に、力の全てを解き放ってしまいたくなる。
全身の毛穴は開いたままに収まらず、今の自分ならば例え何であろうと、真っ向正面からこの右腕で貫ける自信が――
「っと!?」
すんでのところで、若者は自分の身を捻って横手へと飛んだ。
あまりの浮かれぶりに目の前への配慮さえ怠っていたのか、危うく誰かと正面衝突するところを寸前で回避したのだ。
ぎりぎりで身を捻った若者の脇をすり抜けていく一陣の風もまた速く、遠ざかる背へと向けて彼は潔く頭を下げる。
「悪ぃ、こっちの不注意……で…………!?」
――殊勝な心がけの若者が状況の異常さに気付くまで、若干の時間を必要とした。
地面に用意された道ならばともかく、住宅街の屋根の上を跳躍する今――果たして誰かとすれ違うことなど有り得るだろうか。
愕然と顔を上げた若者が慌ててその視線を背後へと向けた時、彼の瞳は交錯した何者かの姿をはっきりと捉えて――
「何だ……あれ……?」
先程までの昂揚も忘れたように、若者は唖然とした様子で呟いていた。
地面から次々と現れた合成獣達の数は七体に上った。
そのどれもが最初の一体と同じ姿、同じ力を持ち――今度は複数で襲い掛かってくる。
「よく飽きもせず、同じ姿形のものばかり作ったものだ――!!」
銃爪を絞った榴弾投擲砲から勢い良く飛び出す優美な弧の先で、一体の合成獣の頭部が炎を上げて千切れ飛ぶ。
最初の一体を併せて、これで四匹――やっと迎えた折り返し地点だが、アトリの表情は決して良いものでは無かった。
開発された新型の合成獣――まだ実働試験を行なっていない彼らにはまだ正式な呼び名が無い。
だが完成の暁には『虐殺者』と名付けられる予定ではあったために、これが彼らにとっての名称となるだろうか。
合成獣達の中でも桁外れの巨体であるため、一度に襲い掛かる事が物理的に不可能なのは幸いだったが――攻めの手は休む事を知らない。
流石にアトリといえども、この状況を余裕で切り抜けるには辛いものを感じていた。
とにかく厄介なのが彼らの耐久力――大型拳銃だけで仕留めるには生命力が高く、決定打に欠けている。
虎の子の榴弾でさえ、最初の一体を葬り去ったような工夫を凝らさねば効果的なダメージを期待する事が出来ない。
自然と一体辺りに必要となる時間と手間は増え、弾薬の消費もいたずらに跳ね上がる――七体ともなれば尚更の事だ。
それでも、アトリは強かった――この悪条件の中で三体を仕留め、もしこれが一対一の七連戦なら既に戦いは終わっている。
開発者達の努力の結晶である虐殺者でさえ、個々で相対した時には『双隻眼』の強さに敵わなかったのである。
だが彼の強さは、相手の一撃を的確に躱しながら、自分の一撃を確実に相手へ叩き込むという事で成立するもの――
トトのように、相対する相手の一切の抵抗を真正面から受け止めて平然と無傷で立っている類のものではない。
当らないからこそ無意味と化すだけで、虐殺者の一撃が一度でも命中すれば壊れた玩具のように五体はばらばらに吹き飛ぶ。
そんな致死の一撃が止む事も無く次々に襲い掛かる状況――『複数』という数の力は脅威であり、効果的でもあった。
状況が変動する事に、前触れなど用意されていない。
最早数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほど見てきた長躯の突進を躱し、アトリは銃口を跳ね上げる。
地面を突き破る衝撃が、背後から生じたのはその時――弾けた土煙のスクリーンは彼の世界から光を奪う。
それでも、各虐殺者達と自身の位置関係を正確に把握している彼は、背後からの奇襲を難なく躱すことに成功していた。
その返礼とばかりに装填した榴弾を叩き込もうとする寸前、気流渦巻く白の一撃がアトリの全身を薙ぎ払っていた。
決して攻撃が到達することの無い方角からの一撃――だが彼の体は現実に、全身を貫いた衝撃に地面を横転している。
骨折や靭帯の断裂といった致命的な損傷こそ無いものの、頭を強打した影響か、倒れ込んだ体は彼の命令にまるで従おうとしない――
(死骸を……放り投げた、だと……!?)
吹き飛ばされたアトリの遥か向こう側で、響き渡る重量感に溢れた振動――頭を吹き飛ばされた虐殺者の残骸の一つ。
殆ど自棄に陥ったようなその一撃が、結果的にアトリから動きを奪い取る事に成功したのだから冗談よりも性質が悪い。
千載一遇のこの機会を逃す理由も無く、尾を振り上げる虐殺者――痺れた全身を気力だけで操るも間に合わない。
かろうじて跳ね上げた銃口で狙いを定めるよりも半瞬早く、長く伸びた尾の一撃が爆発的な速度でアトリの頭上に落ちかかって――
「――『杉』ッ!! ファァァァァァァァァァァァァスト・オォォォォォダァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
――全ての状況を先制した何者かの絶叫が響き渡ったのは、正にその瞬間の出来事だった。
反射的に見上げた夜空の先、金銀の眼差しが遭遇したのはこの世のものとも思えぬ光景。
黒の天鵞絨を広げた空から次々に降り注ぐ光の雨――銀に輝く幾本もの光条が虐殺者達の全身を貫く。
銃弾さえ受け止める彼らの外皮を容易く貫いた光に果たして如何なる力が秘められていたのか、絶息する四体の巨虫達。
みるみる膨れ上がった虫達の体内から溢れ出す銀の輝きはやがて臨界点を突破し、凄まじい爆発と化して周辺一体を薙ぎ払う。
まだ全身から痺れの抜けていないアトリに、この暴威に耐える術は無い――閃光弾を思わせる光量から網膜だけを庇い、為すがままに体を委ねた。
ブーツに込められた付与魔術の治癒効果で、全身の感覚が戻るまでに数秒。
立ち上がり、肉体を操る上で問題が生じていない事を確認し――アトリは爆心地へと足を進める。
一度は世界を塗り潰した銀の光も薄らぐ中、殆ど原型を留めずに辺りへと飛散していた虐殺者達の遺骸の一部。
その光景の前に、銀の輝きが秘めていた力の凄まじさを改めて思い知りながら――あの爆発の中心地へ、アトリは視線を向ける。
そこに鎮座していたのは、直径にして3dcほどもあろうかという巨大な鉄球。
不気味なほど滑らかなシルエットは自然の育んだ存在ではない事を物語っていたが、正体の検討はまるでつかない。
ホルスターに収めた相棒の存在を確かめながら、油断無く近づくアトリだったが――互いの距離が、ある一線を越えたところで。
滑らかな鉄球の表面に、幾何学的な輝きが幾重にも迸り。
そして次の瞬間、鉄球は全く別の形へと――『変形』を開始した。
球体の上部がスライドし、横一文字に生じた隙間の中に紅の単眼が煌々と燈る。
重厚な金庫の蓋を開けるように大きく迫り出した球体前部は、そのまま球体から分離して先端に三爪の突起を生じさせた。
否――よく見れば、その部位は分離したのではなく、伸縮自在の蛇腹状の部品と鉄球の接合されているのだと判る。
想像力を動員すれば『右腕』に見えなくもないその部位と反対側、今度は『左腕』球体内部からするすると伸びていく。
右腕と同じ蛇腹状の部品で繋がった左腕は右のそれと比べて非常に小さいものの、先端から伸びた突起は五爪に増えていた。
球体を構成していた体積の大部分が右腕にもっていかれたために、大きく窪んだ球体は『胴』と『腰』を思わせる。
ただ、球体の下部から『足』が生えてくる事は無く、不安定なその姿で転げることが無いようにストッパーが六方から巨躯を支えていた。
「うむ。申し分の無い功績! グレート! よくやった『杉』よ!」
『シュー』
その巨躯の背後から響いた声は――あの瞬間、夜空に轟いた絶叫と同じものだった。
まるで相槌を打つように蒸気を噴出した球体の様子にうんうんと頷きながら、月光の元にその姿が晒される。
その姿は、今や不恰好な鋼鉄の巨人と化した鉄球と同じ――あるいはそれ以上に、想像の斜め上をいくものだった。
強烈に他人の目を惹き付け、また同時に彼に対するイメージをある一定の方向へと固定するのは袖を通した白衣の存在。
無骨な金属フレームの眼鏡と組み合わせた時に、何気ない仕草や立ち姿にも研究者然とした雰囲気がそこはかとなく漂っている。
しかし同時に致命的なまでの胡散臭さを醸し出していたのは、履いていたズボンの裾が膝上までしか存在しなかったためであろうか。
白衣と半ズボンという組み合わせは致命的なまでに融合を果たせていなかったのだが、しかしそれを面と向って彼に言う事は至難極まる。
何故ならば裾から伸びた足は、女性が自信を喪失してしまいかねないほどの美脚――これを隠すなど、人類社会にとって重大な損失であろう。
若干目尻の下がった黒瞳がアトリの姿を見出した時、彼は双眸にぶわりと涙を滲ませながら謡うように叫んだ。
「ふはは! ――ふははははッ!! とうとう見つけたぞ『双隻眼』! 我輩の野望の礎となる漢よッ!!
思えば苦節25年ッ! 草津の湯に浸かろうとも治る事の無い不治の病に我輩の心は火山爆発ッ!
だがそれも今日という日をもって双隻眼! 貴様に要求するのは心と体の完済証明だッ!!
嗚呼、追い求めていたその背に遂に辿り着いた我輩の心は万回飛び上がって青空になる……ッ!!
そうとも! 詩的表現で我輩の心理評価報告を例えるのならば――」
『シュー』
「――うむ! 画用紙一枚でご飯三杯はいけそうなほどの嬉しさだッ!!」
『シュー』
奇天烈極まった言葉遣いに、合いの手を打つような鉄巨人の蒸気が重なる。
――ここまでの彼らの姿を目の前にした時、人はきっとその胸に、揺ぎ無い一つの『確信』を抱く。
――あはは、この光景はきっと、荒んだ日常の中に疲れた頭の中の緑の妖精さんが見せる幻なんだね――と。
人間の防衛本能は時として、目の前に存在する現実さえ否定して精神の安定を図る事がある。
それは至って健全な心の防衛措置であり、恥ずかしい事でも無ければ『逃避』と罵られるような事でも無いのだ。
恐るべきは精神破壊者。究極的に空気が読めないという技能は、既にこの領域にまで達すると破壊力さえも備えるのか。
だが、ここに立っている『双隻眼』という男も、伊達や酔狂で生きた伝説と呼ばれてきたわけではない。
『双隻眼』の名が関する伝説は戦闘能力だけではない――場の空気の読めなさもまた、伝説級の至高の逸品だ。
「ふむ……なかなか、面白い言葉遣いだな」
「む、そうか? 興奮したときの癖だ。まあ、我輩としても褒められる事はそう吝かでもない」
『シュー』
ぽりぽりと頬の辺りを掻きながら、ことさら朴訥な言葉を選んで嬉しさを押し隠す研究者風の男。
隣の鉄巨人もそれを真似して左腕で表面を撫でる仕草がどこかほのぼのとした雰囲気を醸し出すが――
会話の方向性も場の空気も、置かれた現状から際限なく投げっぱなしになっている事を果たして自覚しているのだろうか。
「それで、お前達は一体誰だ?」
投げっぱなしの状況をアトリが動かす立場になったのは、決して場の空気が読めるようになったからではなかった。
単純に興味が湧いた以上の意味を持たず、大体今更にしてそんな芸当が習得出来るようになるくらいなら誰だって苦労はしない。
だが、偶然であっても気の迷いであっても、三人が互いの位置関係を思い出したのは紛れも無い事実ではあったのである。
「――うむ! ならば心して聞くがよいッ!!」
『シュー』
アトリと若干の距離を隔て――研究者風の男は眼鏡のブリッジに指を沿えた。
月光の下に腕を組み、我が道を突き進む覇王が纏った外套の用に白衣を風になびかせる。
眠らぬ街で幕の上がった、銃火と硝煙の漂う舞台。
妄執に身を焦がす復讐者。
冷徹な刃携えし自動人形。
人の器に獣を宿した切り裂く者――
そして、今また舞台へと上がる―― 苛烈な瞳の新参者――!!
「我輩は『博士』! そしてこれは無二の相棒にして我輩の最高傑作『杉』!!
我輩達が求めるのはただ一つ! 魔術文明の完全なる根絶!!
今こそ世界は改革の時! 『科学』の支配する、次なる時代の幕を開けるため!
その礎として双隻眼! 貴様が綴る『伝説』の舞台――ここで幕引きとさせて頂くッ!!」



