No.03-EX02 Alfail story Episode Penetrater
双隻眼のアトリ・イスカ

第三十六話 harpe

2dcを超える『双隻眼』の肉体。
彼が俊敏な動きを発揮する事が出来るのは、決して彼の肉体が軽量級だからというわけではない。
確かに彼の長躯は誇示するための筋肉が一片も見受けられず、内包するアトリ・イスカという人格の在り方を体現して鋭い。
だが、相応の重量も伴った肉体がこれほど機敏に動かせるのは、それ以上にこの肉体が瞬発力を秘めているからに他ならない。
故に――彼自身がその肉体を扱った時、内包する瞬発力は主の意思に従い、まるで翼が生えたような変幻自在の動きを生み出す。
反面、外部からの衝撃に対しては、岩壁の堅牢さと柳糸のしなやかさをもって巧みに衝撃を流し、あるいは受け止めてみせるのである。
その肉体が、主であるアトリの意思とは無関係に――弾丸の様な勢いで吹き飛ばされている。
『双隻眼』の名の前に竦み上るような者達にとって、例え目の前で起こり得たとしても現実とは思えない状況。
その状況に誰よりも早く反応してみせたのは、彼と共に何度も死線を潜り抜けた白と黒の鋼の相棒達だった。
二丁が地面へ向って、怒号の様な発砲音を叩き込んだ瞬間――軽業師のように身を捻り、宙で一転。
遊底から転がった空薬莢が地面に跳ねた時には、既に体が浮かび上がるほどの反動を利用して靴底が地面を噛んでいる。
柔らかな土を靴の端で深く抉るようにしながら体を貫く衝撃を殺し、跳ね上げた魔女狩りの牙達を構えた時。
拳には遠く、銃には適した間合いを挟んで――正面。
アトリを殴り飛ばした襲撃者は身を隠そうともせず、異彩の金銀双眸を真っ向から受け止めていた。
「まずは……一発!」
月光を弾く眼鏡の奥、鳶色の瞳を輝かせながら。
傍目にも不敵と判る笑みを口元に浮かべ――呟いた襲撃者は、まだ歳若い男だった。
その体が幾分か小柄に思えたのは、並外れた長躯を持つアトリ以外に比較対象が存在しなかったが故の贅沢な錯覚。
闇の中に溶けるような濃藍色のジーンズをすらりと穿きこなした両脚は長く、まるでコンパスを思わせるように細く鋭い。
服飾に黒を好む傾向があるのか、素肌の上から直接に羽織ったメンズシャツも――右手だけに嵌めた皮の手袋も揃えたように黒い。
そのため、まるで山嵐のように逆立った髪も黒と錯覚してしまいがちだが、よくよく見ればその芯は深い琥珀の色をしていた。
全体的に些か痩身な印象を受けるのは、開けた首元から覗く細い鎖骨の存在――あるいは、すとんと落ちた撫で肩の所為か。
右の拳を突き出したまま立ち尽くす若者は、だが次の瞬間――口元の笑みを苦いものに代え、呆れた様子で呟いた。
「と、言いてぇのはやまやまなんだが……お前、本当に人間か?」
空いた左手でそっと首筋をなぞってみせる。
その指先に拭い取られた冷や汗の感触に、開いたままの汗腺のだらしなさを舌打ちで呪ってみせる。
「殴り飛ばされながら、喉に蹴り叩き込んでくる奴がいるかよ、普通」
「生憎と、足癖の悪さには定評があってな。ささやかな意趣返しだ」
「よくまあ、涼しい顔でさらっと無茶を言ってくれやがる……」
若者に殴られた瞬間、アトリは拳が描く軌道の延長線上へと自ら体を投げ出していた。
そうすることで衝撃の大半を受け流していたのだが――拳が到達した瞬間、爪先を跳ね上げて若者の首を狙っていたのだ。
下肢の力だけで振り上げられたにも拘らず、鉄骨で補強された爪先は死神の大鎌めいて致死の破壊力を秘めていた。
あと半瞬、若者が身を引くタイミングを遅らせていたなら――彼の頚骨は爪先によって微塵に粉砕されていた事だろう。
あるいはそれだけに留まらず、今頃は強引に引き千切られた首から上が、死別した胴の倒れる様を空しく見上げていたかもしれない。
「アンタが『双隻眼』――ペネトレイターか」
若者は呟く。
突き出された右の拳は、決して届く事の無い合間を隔てて相対しているにも拘らず、今にも心臓を捉えそうな錯覚。
だがその視線は、アトリの心臓からやや離れた位置――銀鎖に繋がれた弾丸の放つ仄かな輝きに向けられている。
「そういうお前は『ハルパー』だな」
アトリもまた呟く。
狙いを定めた二つの銃口は、銃爪に僅かな力を込めるだけで若者の心臓を正確に抉り飛ばす射線を描き。
異なる色合いの双眸が描く視線が吸い寄せられたのは、やや逸れた場所――糸のような銀鎖に繋がれたペンダント。
銀に輝く弾丸と異なる、仄かな山吹色の輝き。
若者は左手で握り締めるように、輝く金属片を手の内で弄びながら――
「ああ。アンタが『撃ち貫く者』なら、オレは『切り開く者』。この右腕一本で、目の前を切り開いてきた『ハルパーの鎌』さ」
「……あの子が統制ユニットかしら?」
二人のやりとりを俯瞰から眺める一人の女性。
『常識の破壊者』『死を招く黒』『夜に輝く絶対神』――数々の不吉な名で語られる『北の魔女』トトである。
形の良い唇をそっと押す人差し指の先は白磁の名器のように美しく、抱えた二つ名には些か不釣合いな印象を受ける。
だがそれも、彼女の周囲――嵐が巻き起こったような制御室の惨状を見れば、また違った意見も沸くというものである。
生死の淵を彷徨うスタッフ達の中、無残にも自慢の髭を毟り取られて気絶したパトリックの隣。
支柱から根こそぎ逆さに引き倒された席の背もたれに腰を下ろし、彼女が最初に行なったのは保安方式の完全な掌握だった。
いきなり方式の全てを停止させてしまっては、中身を改竄したことが中央にすぐに筒抜けになってしまうため――
端末から干渉した際、映像や音声取得といった一部の機能に関しては手をつけずに残していたのだ。
だがそれも、中央制御室のスタッフたちが全滅した今では放置しておく理由は無い。
その規模と細緻さで難解を極める保安方式の構成も、“0”のトトの前では児戯に等しい作りだった。
まるで自らの意思を持つように部屋中に伸びた彼女の髪が、ぬらりと一度輝きを放ち――それだけで事は足りる。
感覚が拡大されたような錯覚と共に、敷地内で保安方式が取得している様々な情報が全て彼女の意識に流れ込んでくる。
アトリの姿はすぐに見つかった。
庭園の一角で足を止め、行く手を阻むように立ちはだかる若者へと銃を構えて相対する。
生きた伝説の扱いさえ受ける『双隻眼』と相対して、若者の顔に恐怖が無かったのはなかなか珍しい反応だった。
虚勢を張っているわけでもない。オズワルドのように復讐心で感覚を麻痺させている様子も見えない。
まるで獣の様な獰猛な笑みを浮かべた顔は、仔細に観察してみれば思ったよりも童顔で――
「……あら?」
漏れた呟きの意外の響きは、彼の外見的特長を受けてのものでは無い。
視線が釘付けになったのは、右手だけに嵌められた黒皮の手袋――その手の甲で輝く紅の宝玉を見た時だ。
だが、胸の内に湧いた予感を確信へ至らせるには、保安方式が取得してくる情報はあまりにも足りなさすぎる。
「……まったく。魔術の発展を謳うなら、せめて『匂い』くらい取得する気概を見せてみなさい?」
彼女にしては珍しく、その紅唇からぼやきが漏れる。
盤上を踊った細い指はピアノを弾く様に軽やかで鮮やかだったが、保安方式の操作盤に手動入力の必要は無い。
主に接触面から固体情報を取得すればいいだけの事なのだが、『気分の問題』と一蹴して干渉を続ける。
盤面を滑る指先の軌跡に桁外れな情報量を秘めた構成が次々に連なり、呼応するように黒髪はぬらりと輝く。
魔術の構成は『北の魔女』の在り方とは異なり、与えた意味に矛盾を生じさせればたちまち霧散し消滅する。
付与魔術の場合は霧散ではなく、干渉前の構成へと戻ろうとするだけだが、根幹から改竄せねば反映が無いのは同じだ。
魔術を誰よりも知悉した彼女の前に、全ての魔術は付き従う――中央から干渉した保安方式の構成は素直で従順だった。
無垢な乙女のように解放的な姿から方式の根幹へと触れ、副次的に彼女は方式で管理された屋敷内の全ての情報に通じた。
端末からは閲覧できなかった情報も幾つか取得することとなるが、大半は彼女の興味を引くほどの力は無く――
――彼女の改竄作業の手を止めさせたのは、取得できた情報の中では最後に触れた項目。
中央制御室を担うスタッフ達にさえ閲覧権限の無いその情報は、極めて高い重要度の設定が施されていて――
「地下施設……?」
現在は『希望期』と称される、人間達が自らの尊厳を勝ち取るために魔術師達に反旗を翻した時代。
数々の勇敢な者達がその手の中に銃を握り締め、ペネトレイターは人間解放の最大の功労者としてその名を馳せた。
だがこの激動の時代の中、産声を上げた『戦士』はペネトレイターただ一つだけでは無かったのである。
それが『ハルパーの鎌』――あるいは『ハルパー』と称される、巨大人材派遣組織『大きな家』に所属する傭兵達だ。
「っても、オレは『双隻眼』や『胡蝶の連撃夢』の御大みたいな有名人じゃねぇけどな」
この組織の創始を紐解いた時、時代は希望期の真っ只中にまで遡る。
各地で蜂起した人間達は互いに連携を取り合い、いよいよ魔術師達との全面戦争へと突入した頃だ。
当時はまだ魔術師側に波紋崩しの原理が理解されておらず、人間達の反逆がこれほど大規模なものに発展するとは想定外の事であった。
動揺収まらぬうちに切って落とされた火蓋、各地で次々と打倒されていく魔術師勢――勢いに押され、魔術師達は前線を退く。
魔術を破壊される事に恐怖を覚えた彼らが代わりに前線に送り込んだのは、魔術を破壊されることの無い手勢。
――『所有』している、奴隷代わりの人間達であった。
同じ頃、人間側に肩入れする魔術師達も各地での連携の強化や後方支援に従事して、段々と前線から姿を消し始める。
結果として、この頃に最前線で繰り広げられていたのは――同じ人間種同士による激突だった。
個々が高い能力を誇る魔術師と違って、人間達同士の戦いでは個人が戦局を覆すような事態は決して起こり得ない。
指揮を執り行う者の先見性もさることながら――各人の『質』、そして『量』が重要視される。
かといって、人間達に戦闘訓練を施し『質』を向上させるほどの時間的な余裕は与えられていない。
膠着する戦局の中で、いつしか両陣営が心に欲したのは――即戦力として役立つ、数を伴った外部からの人材補充。
無いものねだりも甚だしい事だとは、勿論理解していたつもりだった。
だが歴史は面白いことに、この『需要』に対しての『供給者』を同じ時代に産み落としていたのである。
それは、取り立てて何か著名な所があったわけではない――ある一人の魔術師。
ただ彼の一家は少々特殊な魔術の研究を代々引き継いでおり、その研究の副産物に生み出されたものがあった。
それは高度な教育を施し、様々な技能をその身に会得させた大量の人間達。
彼らは武器の扱いにも長けており、即戦力としては申し分の無い逸材であった。
その事に気がついた魔術師は――両陣営に対し、『契約』を介する一時の援軍として彼らを『売り込んだ』のである。
共通の装備として手にしていた武器から『ハルパーの鎌』と称された彼らは、雇用された先で存分な活躍を見せた。
彼らの活躍はやがて魔術師側の人間達が次々に人間側に投降し、再び魔術師とペネトレイター達の戦いへ移り変わるまで続く。
ハルパーの鎌達はあくまでも魔術師の『所有物』としての扱いを超えることは無く、解放の象徴たる銃を手にすることは赦されなかった。
そのために希望期の後半、彼らの姿は影を潜めることとなるが――それでも魔術師の手には、既に巨万の富が転がり込んでいた。
希望期の終結、人間達が自身の尊厳を獲得したと同時、時代に合わせるようにして魔術師もまた擁していた人間達を解放。
そして、一人一人が新しい生活を見つける充分な金銭を与えてなお手元に残った多額の資金を元手に、彼は新たな挑戦を行なう。
『大きな家』――民間組織としては最大規模を誇る、巨大人材派遣組織の創設である。
「そこまで大層なものではないがな。先刻も、無抵抗に殴り飛ばされたばかりだ」
「何が『無抵抗』だ、首を折られるトコだったぜ。……ったく、有名人っつうよりは寧ろ変態だな、変態」
『大きな家』とハルパーの関係は、魔術師協会とペネトレイターのそれに通じるものがある。
もっと正確に言えば、現在のペネトレイター達の在り方を築く際、参考にされたのが『大きな家』とハルパー達だ。
法律上の保護こそ無いが、事務所や派遣所が設置された都市でハルパー達は様々な恩恵を受けられる点もよく似ている。
逆にハルパーとペネトレイターの相違点を挙げれば、最大の違いは取り扱う獲物の違いであろう。
『銃』を持つ事が出来るのはペネトレイターだけであるため、自然とハルパー達の武器はそれ以外となる。
また、ペネトレイターが事前に様々な試験を必要とするのに対し、ハルパーには試験の類が一切無いのも特徴である。
民間組織である『大きな家』が、試験の代わりにハルパー志願者達に求めるものは『金銭』。
『大きな家』が『販売』するハルパーと言う身分を、『購入』することでハルパーに就業するのである。
もっとも、購入の為に必要な代金はそう易々と即金で支払えるような金額ではない。
大概のハルパー達は様々に請け負った依頼の報酬を何割か『大きな家』に返還し、未納額の返済に充てる事となる。
「哺乳類は蛹にはならんぞ」
「そりゃ変態違いだ! つか最初に浮かぶのがそれか!? どういう思考回路してんだ、アンタ……」
ペネトレイターが、支給された銀の弾丸を首から提げて身分証明に使うように。
ハルパー達にも付与魔術を応用した身分証明用のペンダントが支給され、着用が義務付けられる。
刀剣の湾曲した刀身を模した意匠のペンダントは銀の弾丸と同じく、本人の情報を取得することで淡い輝きを放つ仕組みだ。
そして――『大きな家』に対して返済した、ハルパー購入時の資金に応じてペンダントの放つ輝きは変化する。
返済を始めてまだ間もない頃には蒼色。ある程度の返済が済んだ者は山吹色。そして、返済完了を示す紅色――
ペンダントの色――つまりは返済額に応じ、S.rd・S.nd・F.stとハルパー達の階級も向上していく。
ハルパーは就業するだけなら簡単な書面手続きのみで済むが、資金を完済するまでハルパー以外の職に就くことは赦されない。
様々な恩恵を受けられる代わり、ハルパーはハルパー以外の生き方を選ぶ事が出来なくなるのである。
彼らがもう一度自由を得られるのは、返済を全て完了し胸元が紅に輝いたその時――
もっともF.stともなれば、顧客からの信頼はペネトレイターにも匹敵し、報酬の額も桁違いに跳ね上がる。
無理に再就職せず、そのままハルパーを続けることを選択するのも本人の自由だ。
また――同じ人材派遣業務として商売敵であるペネトレイター。
F.stのハルパー達の中には、魔術師協会にスカウトされる形でペネトレイターとしての道を進む者もいる。
この手順でペネトレイターとなった者は既に実力が保障されていると判断され、殆どの試験と訓練を免除される事となる。
魔術師協会は即戦力の人材を確保でき、『大きな家』は引き抜き時の高額の紹介量を得られるため、今のところ特に不満は生まれていない。
「どう、といわれてもな……ごく普通の平々凡々な思考だと思うが」
「それを真顔で言う辺りが『おかしい』って言うんだよ」
「……む」
ペネトレイターがしばしば憧憬の対象として挙げられる事と対照的に、世間におけるハルパーの印象はあまり良くない。
粗野、粗暴、荒くれ者達の吹き溜まり――様々な非難の中でも、最も挙げられることが多いのは『弱い』という事だ。
実際、多少喧嘩慣れした程度のハルパーと、正規の戦闘訓練を積んだペネトレイターでは勝負にすらならないだろう。
対魔術という点で考えた時も、ペネトレイターには『銃』『波紋崩し』という対抗策が用意されている。
だがハルパー達にはそれが無い――魔術師と相対した時、人間に毛の生えた程度のハルパーはただ蹂躙されるより他に無い。
ペネトレイターとなるための厳しい試験――銃を手にする事が出来るのは、ほんの一握りに過ぎない。
夢を掴み損ねた多くの者達の中には、届かぬ理想へ手を伸ばす事を諦め、ハルパーで『妥協』した者も少なくない。
諦念に支配された者と、最後まで諦める事が無かった者。
果たしてどちらが『強い』のかなど――言うには、及ばない。
「……アンタ、案外面白いのな」
左の指先に山吹色の輝きを弄いながら、若者の顔にふっと穏やかな笑みが零れた。
相変わらず右の拳は突き出したままだが、全身から放っていた猛々しい獣の気配がふっと薄れる。
「正直、もっと冷たい奴を想像してたんだが。中身は外見で判断しちゃいけねぇな」
「そういうお前の外見は、口調の割にかなり童顔なようだが」
「うるっせ! んな事別にどうだっていいだろうが!!」
アトリの率直な感想に対し、若者は激昂したように頬を紅潮させて吠えた。
その様子から察するに、自分でも自覚があるか、あるいは相当気にしている事だったのかもしれない。
荒々しいぶっきらぼうな口調も、そのコンプレックスの裏返し――そこまで考えるのは、流石に邪推というものだろうか。
「猟犬達の統制ユニットというのは、お前か?」
アトリのその問いに、若者が見せた反応は明確だった。
先刻まで見せていた表情が嘘のように消えた顔は仮面じみて、感情を伺う事が出来ない。
「逆に聞くが、ここで『そうだ』と口にしたら――アンタは一体どうするつもりだ?
それがどういう意味なのか、判らないって訳でも無いだろ」
月下に白黒の陰影を刻まれた横顔は彫像めいて白く、生気を感じさせる事が無い。
眼鏡の奥で輝く瞳だけが、決して人造物では出すことの出来ない鋭さを湛えて真正面からアトリを貫いていた。
先刻までの苛烈さや陽気さとは異なる細剣じみた鋭い視線は、一切の逃避と隠蔽を赦しはしない――
だが。
「どうもしないな。お前が一体何であろうと、目の前に立つ今のお前が変化するわけでもあるまい」
アトリの辞書に、自身を隠蔽するなどという項目は最初から存在しなかった。
「道を空けるならばよし。邪魔をするならそれも構わん……撃ち貫いて進むだけだ。
どちらの道を選ぶか、選択をするのはお前自身――好きなほうを選べ」
無駄な苛烈さも派手さも無い代わり、常に真っ直ぐ放たれた言葉は心の奥深い場所で重く響く。
手にした銃によく似た言葉を投げかけるアトリの姿に――若者が浮かべた貌は、獣のように獰猛な微笑。
「いいねぇ……シンプルで好きだぜ、そういうのは……!!」
鳶色の瞳が爆発寸前の信管にも似た輝きを帯び、全身から猛々しく鬼気が膨れ上がる。
その姿はさながら、燃え盛る炎が人の形を取ったよう――伸ばした右の掌を、ゆっくりと拳へと折り曲げて。
「俺の往く手を阻むか」
「アンタと同じさ。オレの目の前にもアンタがでっかく立ち塞がってる。なら、やる事は一つだろう?
ついでに言えば……ここでアンタに会えた事こそ、この依頼で一番の『報酬』なもんでね……!」
昂揚を隠そうともせず、撓められた全身の筋肉が若者の姿を膨らませる。
生きた伝説――『双隻眼』を前に、物怖じもせず果敢に挑みかかってくる相手。
実力の程は判らない。
若さだけが先行した、無知な命知らずの一人かもしれない。
だが、彼と向かい合うアトリは。
「さあ、始めようぜ撃ち貫く者。それともまだ、重ねる言葉が必要かい?」
「不要だな。ならば切り開く者――その言葉に見合うだけ、お前の道を切り開いてみせろ」
口元に微かな微笑を刻み――指先に銃爪の存在を認識させた。
「……これは……いわゆる一つの、予想外の収穫っていう奴?」
保安方式の中枢に触れた事で得られた、最後の情報。
それは桁違いの容量を誇っており、軽く眼を通すだけでも相当な時間を必要とした。
『魔術』という力を行使するために、人間よりも遥かに発達した高い情報処理能力を持った魔術師――
その中にあって“0”という超越者であるトトの力をもってしても、何であるのかを理解するまでに数分を要した程である。
保存されていたのは、数年分にも及ぶ何かの研究レポート・及びそれに纏わる諸々のデータ。
研究が行なわれていたのは、端末から中央へ干渉した時にはその存在を取得できなかった『地下施設』。
恐らくは当主であるモーリスと、実際に研究に携わっていた魔術師達以外はこの施設が存在することさえ知らないのだろう。
深き地の底で長年に渡って、人知れず進められていた研究の内容は――合成獣についてのもの。
地下に建造された施設とは思えないほど充実した設備、レポートに記された名前には合成獣研究の第一人者達が名を連ねている。
彼らは何年もの間、この地下施設で自分達の理論の結晶とも言うべき新型の合成獣の開発に従事していたようだった。
何度も試作に試作を重ね、その度に取っていた詳細なデータが容量を膨らませた原因の一つとなっている。
「思ってたより、ずっと狸だったって事ね」
開発された新型は試作段階で既に、魔術師協会の定めた戦闘用合成獣の性能規格を大幅に上回っていた。
合成獣の開発それ自体は決して違法行為ではなく、魔術師協会への申請を行なうことで誰でも従事することは出来る。
だがその申請を行なわず、あまつさえ協会が定めた規定を破った性能の合成獣を秘密裏に開発していたとすれば――
研究に加担していた魔術師達の全てが、ペネトレイトの対象となる。
レポートの中には、あの昼間の襲撃者――オズワルド・ウォルターの名前も記されていた。
それも一研究者としてではなく、開発主任として各研究者達を纏め上げていたようだ。
彼の場合はアヴァリス事件の一件から、既にペネトレイト対象として各地に指名手配の情報が行き届いていた。
それを地下に匿っていた時点で、モーリスもまたあの襲撃の一件に何らかの形で関与しているのは疑いようも無い。
予定とは少々異なったが、結果的にモーリスをペネトレイトするための条件は整った。
そのことをアトリへ報告しようと――意識を傾け、口を開こうとした瞬間。
「――ッ!?」
天と地が逆転したような激震が、制御室の中を荒々しく引っ掻き回した。
揺れは制御室だけに留まらず、ヘンリーソン家の敷地全てを混沌の中に巻き込んでいく。
地震にしては不規則で荒々しい揺れの中、ただ一人震源の正体を悟ったトトは――唇にそっと言葉を紡ぐ。
「……このタイミングで覚醒だなんて。単なる偶然か……それとも――」
何処か遠くを見据えるような、遠い遠い瞳の先。
幾星霜の年月を湛える黒曜が映していたのは、激突の瞬間を迎えんとする――紅と蒼の輝きだった――
『…………!?』
足元から襲い掛かる不規則な振動に巻き込まれたのは、アトリも若者も全くの同時だった。
互いに突然の振動であったにも拘らず、殆ど体勢は崩れなかったことも共通している。
だが、突きつけた獲物にも寸分の狂いも生じさせず――振動の正体へと思考を巡らせ始めたアトリに対して。
「……ちっ。お勤め業も楽じゃねぇな」
軽く地面を一瞥し、最前の興奮が嘘であったかのように右腕の構えを解いた若者。
気の抜けたような呟きが――呟きだけを残したままで、彼の姿は霞のように消失していた。
響き渡った銃声は鋭かったが、鋼の顎は捉えるべき獲物の血肉を裂くには至らず空しく夜気を貫いて抜ける。
「――手を挙げな、双隻眼。まずはその銃、棄ててもらうぜ」
轟音が尾を引く中、消失した気配が再び現れたのは背面。
軽く押し当てられた拳の先は脊椎の中心を正確に捉え、立ち姿には一部の隙も見受けられない。
だが、そんな状況に置かれてさえ――アトリの顔には、一片の動揺も浮かばない。
「……こいつらは俺の手の延長だ。棄てろと言われても、どうにもな」
「だ、ろうな。まさか、この速度でも反応してくるとは流石に思わなかったぜ」
絶対的な優位に立っている筈の若者は、思わず口元に苦笑を浮かべた。
その右腕は確かにアトリの脊椎を取っていたが、同時に彼の腹腔には銃身の冷えた感触がある。
背面を取られた瞬間――別の生き物のように跳ね上がったアトリの左腕は、ネフティスの銃口を若者に狙点していたのだ。
アトリが僅かに指先に力を込めれば、規格外の破壊力が若者の胴を真っ二つに引き千切る。
若者が拳を鋭く突き出せば、破壊された脊椎は双隻眼の伝説の終焉を血によって綴る事だろう。
互いの命を握り合った極限の拮抗――互いが鋭く身を引けば、決死の状態を脱出する事は不可能ではない。
だが退いた瞬間を狙った一撃は確実に必殺となり、同時に一線を越えた時にはメンフィスに転がる屍は二つ。
「オレの依頼はアンタを足止めすること。当然、足止めなんて効く相手じゃねぇから全力だ。
だが、かといってやりすぎるわけにもいかねぇのさ。丁度今みたいに、屋敷にアンタをどうにかする力がある場合は」
「……この振動か?」
「ああ。どうせ黙るんなら、最後まで黙っててくれりゃいいものを……。外様の辛いところだぜ」
「面倒な依頼主を持つと、苦労するのはどちらも同じか」
「話が早くて助かるねぇ……。だからこの続きは、別の機会にやらせてもらう」
驚くほど穏やかに、互いの鼓動さえ聞こえるほど近くで。
「人の出会いは一期一会と、よく言われてきたものだがな」
銃爪に微かな力を込め、選択の瞬間を見極めるアトリと。
「ところが人生、八十年。まだ死なねぇよ、オレもアンタも」
拳を握る音を響かせ、静かに呟いた若者。
状況を動かしたのは、鍛え抜かれた背筋から退いた拳の気配――
潔く退いた若者へ向けて引き絞られた銃爪は、確かにその顎で若者を捉えていた。
だがアトリにとって予想外だったのは、後退した若者の体が一瞬の間に数dcを超える高みへと跳躍した事。
銃弾は彼の脇腹を掠めたに過ぎず、夜の闇に血が尾を描いていたものの――致命傷には程遠い――
「見逃すと、思っているのか……!」
「ああ、見逃すね――見逃してもらう!」
主と共に旋回した白と黒の鋼の獣は、一片の容赦も無く咆哮を連続させた。
立ち込める濃密な硝煙を突き破り、音さえも噛み砕いて疾駆する顎――宙を舞う彼に、それを躱す手立ては無い。
だが若者はこんな時でさえ鳶色の瞳に死の恐怖を映すことは無く、燃え盛る炎のような壮絶な笑みを浮かべて――
「『紅皇』ッ!!」
瞬間、若者の右手が本当に燃え盛った。
夜の闇に紅の残像を残しながら、まるで松明のように赤熱する拳を抱えて――
「らあああぁぁぁぁぁぁッ!! 焼き尽くせえええええぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
咆哮と共に突き出された拳の風圧が、巻き込むような暴風となって吹き荒れる。
焦げ付くような熱を孕んだ大気の狂刃に布帯を展開しながら、アトリははっきりと眼にしていた。
若者の目前にまで迫っていた弾丸が、殴りつけるような風にその動きを阻まれ――次の瞬間、蒸発したのを。
「至宝……!!」
若者の右手を覆う手袋は、何時の間にか肘先までを覆う篭手へとその姿を変えていた。
金属とは異なる艶やかな光沢を黒く月光に弾く中、右手の甲で輝きを増していた紅の宝玉。
そこから生じた炎は若者を護るようにして猛り狂い、照り返しを受けた鳶色の瞳は獣に似た輝きを湛えて。
大気との摩擦に、紅く燃え盛る隕石のように。
頂点を刻んだ彼の跳躍は、ゆっくりと自由落下へと移行して――
「次に出会ったその時は――必ずアンタをブッ貫く!!」
吸い込まれた拳の一撃は、正に隕石落下の破壊力を孕んで炸裂した。
榴弾にも匹敵する炎熱は天を衝く剣となり、夜を紅に切り裂きながら高く聳え立つ。
気流の嵐は渦を巻いて木々を薙ぎ倒し、弾き飛ばされた土砂は高く舞い上がって横殴りの雨のように全身を叩いた。
狂ったように瞬いた光の洪水に眼を庇いながら―― 一度は漂白された世界が、ゆっくりと元の色彩を取り戻していく。
巨人が暴威を振るったような惨状の中に、若者の姿は何処にも無く。
静けさを取り戻した闇の中、残されていたのは頬を撫でる風が孕む熱気の残滓だけだった――



