No.03-EX02 Alfail story Episode Penetrater

双隻眼のアトリ・イスカ


第三十三話 夜はまだ、明けには遠い



屋根の向こうへと消え去ったユキを、アトリは追跡しようとしなかった。
普段の彼ならまず放っておかないのだが、普段通りに行動するには――些かその身体は、疲労の限界に位置している。
鉛のように重たい今の身体では、全力で逃走を図った自動人形の脚力に追いつくのは不可能だった。
自身の状態と、そこから何が成せるか――その把握と判断を見誤れば、先に待つのは無残な死だけだ。
今は彼女を追跡するよりも、この身体を何とかする事の方が必要である。
生まれたての小鹿のように、自重を支えることさえ厳しい両足で懸命に身体を運ぶ。
何とか裏路地の一つへ身体を滑らせたところで、壁に体を預けるようにして座り込んだのが限界だった。
あの異常な再生能力はもう無いが、彼の履いているブーツには肉体の治癒や疲労回復を促す力を持った付与魔術が備わっている。
五分も眠れば、この重たくなった体も幾分かましになるに違いない。
軽く瞳を閉じただけで、意識に暗幕がかかっていく中――熟睡しないように意識と無意識の境界線を探りながら。

思考は、別のことを考える。

今まで襲撃を仕掛けてきた相手とは、明らかに異なっていた。
これだけ周到な準備と大掛かりな舞台を用意し、大都市の只中で仕掛けてきたにも拘らず、極めて秘匿性の高い襲撃。
既存の自動人形とは比較にならない性能のユキを作り上げた技術力。
この二つだけでも、今回の襲撃の首謀者が――個人や小規模組織から為る相手では無いことが判る。

しかし。
相手が何であろうと、やることは何も変わらない。

『アルフェイル』。
その存在を知り、手に収めようとする者が一人でもいるのならば。

『双隻眼』としてではなく――『アトリ・イスカ』として。


――地の『果て』までも追い詰めて、必ず殺す。


微かに開いた銀の瞳。
冬の嵐を思わせるような、凄みを帯びた静かな決意が――冷ややかに輝いていた。








正確に三百秒の時間を刻み、アトリは再び目を覚ました。
休眠状態にあった体を意識だけで動かし、覚醒に促しながら状態を把握する。
万全には程遠いが、八割程度には自在に動くらしい――後の二割は、起きている内に自然と回復していく。
アトリとしては、雁字搦めに体を縛っていた鉛の様な重さが消え去っていただけでも充分だったらしい。
まだ微かに混濁する無意識の残滓を振り払うように頭を振って、彼が最初に行なったことは――現状の把握であった。
榴弾によって屹立した火柱は未だに沈静化する様子を見せず、見上げるアトリの姿を緋色に照らし上げている。
街中でこんな爆発が起こっているにも拘らず、喧騒も野次馬の影も保安官達の姿も見えないのは、未だにこの空間が結界で閉ざされている証だ。
結界の外から中を伺えないように、結界の中から外側の様子を知ることも出来ない――撤退する痕跡を嗅ぎ付けられないようにとの判断なのだろう。
そしてたった五分間とはいえ、与えてしまった時間はユキにとって撤退を図るに充分すぎる時間だったはずである。
今から彼女を追いかけることは不可能だと見て間違いない。
しかしユキも、撤退を選択の一つに考慮していたのは間違いないだろうが、自身があそこまで破壊される事は予想外のはずだ。
そうだとするなら、本来であれば撤退の際に回収・ないし処分すべきはずである、自身の正体に密に関わりを持つ残留品が残されている可能性が高い。
それを手に入れることが出来れば、彼女の正体――そして背後にいる首謀者を知るための重要な手がかりとなる。
結界によって閉鎖されたことで、現場が第三者の手によって荒らされていないことは僥倖だった。

『鞘』と称した石剣の破片や、纏っていたエプロンドレスの切れ端。
探せばそれなりに見つかったが、残留品のどれもが今ひとつ決定的な一打に欠ける。
それでも目を皿のようにして、律儀に一つ一つ回収していくうちに――ふと。

無造作に転がっていた、人の腕が目に入った。

見知らぬ他人のものではない。
白魚のように細い指達は実に多彩に動き、言葉以上に持ち主の心を表わす事を誰よりも知っている。
かつて白い肌の下には、生命の紅い流れがさっと透けて――活き活きと桜色に輝いていた事を誰よりも知っている。
だが、地面に転がるその腕からは、もう目に見えるような溌剌とした息吹を感じることは無かった。
永遠に動くことの無い左腕。
ただ一人、初めて『同行』を許した女性。
存在自体が冗談のようだった彼女も、等しく『死』からは逃れられなかったのか。

遺された左腕を黙って見つめる瞳には、悲壮の嘆きか、憤怒の煌きか――あるいは、静かな決意か――

「ねぇ、アトリー」

至って能天気かつ著しく緊張感を欠いた声が、瞳の奥の輝きを粉々にぶち壊したのはその時だった。
何ともいい難い微妙な表情を貼り付けて、微妙に気まずく重苦しい沈黙が漂う。

「あら? ひょっとして聞こえてない? もしもし、アトリー? 聞こえてるわよねー?」

しかし声は、そんな場の空気が読めていないのかやけに軽い調子でさらに続ける。
最終的に、アトリが固く引き結んだ唇を割るまでに必要とした時間は五秒。
それまでの間、端整な顔と鋭い瞳に過ぎった感情がいかなるものだったのかを一言で現すのは難しかった。
結局、最後に彼は――諦念めいた表情を浮かべ、まるで重い嘆息を漏らすようにして言葉を吐き出す。

「……生きていたのか」

言葉に込められた様々な感情に気付かなかったのか、あるいはその感情の奥にある――微かな安堵に気が付いたのか。

「勿論。虚弱体質でもあるまいし、あのぐらいで死んだりするわけじゃない?」

さも当然と言わんばかりに無茶苦茶な事を言ってのけるトトの様子は、この状況さえ楽しんでいるようだった。










アトリは呼吸を整えて、自分の記憶を反芻してみる。
彼が最後に見た時、トトは放たれた朱い斬撃によって両腕と胴体を斬られている。
どう冷静に判断しても、即死であるのは間違い無い。
「……お前は殺されても死なないのか?」
だから、そんな事を至って真顔で聞くアトリの心も、決して判らなくは無かった。
ただ困ったことに、アトリが問いを投げかけた相手は、常識を破壊することを信条としている。
「それじゃまるでゾンビじゃない。いくら何でも、私だって殺されたら死ぬわよ」
言っている事はごく当たり前だが、何故か非常に説得力が欠けている。
むしろ、死者の国の支配者を叩きのめして生き返ったという荒唐無稽な話の方がまだ説得力充分に聞こえるのではないだろうか。
「個人の資質の問題よ。例えば同じ毒蛇に噛まれたとしても、死ぬ子とそうじゃない子がいるでしょ?
 小さな怪我でもショック死しちゃう子もいるのなら、大怪我を負っても生き続ける子だっている。
 重要なのは怪我の大きさより、その怪我が負った人にとってどれほど重いものかっていう事。
 あの怪我だって、もしかしたら普通の子だと致命傷かもしれないけれど――私だったら大丈夫。それだけの事よ」
『それだけの事』で済ませるためにはどれだけ良識と魂を悪魔に売り渡さなくてはならないのだろうか。
重ねて言えば、『もしかしたら』などという言葉を使わなくても確実に致命傷である。
しかし、世間一般の良識家を大きく逸脱したアトリの物事に対する許容能力と、彼女との数年来の付き合いは、こんな時に最も適切な一言を知っている。

「要するに、お前だから死なないということか」
「そういう事♪」

理不尽な事象に対する、『トトだから』という一言。
これほどまでに暴力的で、かつ有無を言わさぬ説得力を持った言葉を、アトリは他に知らなかった。

「……しかし、無事だというなら何故姿を見せない?」
彼女の声は元気そうだが、未だに声が頭の中に響くだけである。
彼の疑問もそこそこに――次にトトが口にしたのは、全くそれとは関係の無さそうな一言だった。
「その辺りに、私の左腕が転がってない?」
落し物のありかを尋ねる言葉にしては、随分シュールな内容と状況である。
しかし、並大抵の神経を全て置き去りにしたようなアトリが今更、そんな事を聞き咎めるようなことはない。
「俺の目の前に転がっているぞ」
「なら話が早いわ。――月を背に負うようにして、出来た影の中に左腕を放り込んで」
随分と細かい注文だったが、アトリは素直に立ち位置を変え――目の前に真っ直ぐ伸びた影の中へと、左腕を放り込む。
次の瞬間、影で切り取られた黒の一面だけが水面のように揺らいだかと思うと、波紋を生じさせて水音と共に、影の中へと腕が沈んだ。
流石にアトリも軽く目を見開く中、今度は影の中から顔を覗かせる白い腕。
何かを探るように、影の表面を叩きながら不規則に動いていた腕は――やがて影と地面の境界線に手を掛けるなり、しっかりとそれを掴むと。

「よいしょ――っと!」

至って気楽な意気込みと共に、闇の塊が飛び出した。
塊はそのまま、影から飛び出した勢いで地面に這い上がり、ゆっくりと立ち上がる。
闇のように見えた長い黒髪はさっと分かれて、そこから覗いた女性の顔には濡れたような黒曜の双眸。
眼鏡どころか、眩い肌に一糸も纏わず――生まれたままの姿のトトは、嫣然とアトリに微笑んでみせた。
一体何があったのか、彼女の体は頭の天辺から足の爪先まで、紅の液体でずぶ濡れに染まっている。
その姿はどこか血を被っているようなおぞましさを感じさせると同時、肌に張り付いた髪が体の線を強調して、酷く官能的な姿でもあった。
ふっくらと柔らかい曲線で構成されていながら、すらりと細く整えられた腕や腰。
存在を主張する大きな胸は、彼女の動きに柔らかく揺れ動きながらも張りを保ち、大きさと形のバランスを保っている。
月の輝きを受けて映える、うなじから肩にかけての優美な流れ。
長く伸びた脚線は、ふくよかさの中にも瞬発力を感じさせて真っ直ぐ夜へと伸びている。
男性どころか、女性でさえも正気を失いかねないその姿を、一大観光都市の只中に晒して。
結界で隔絶されているとはいえ、禁忌を犯すその姿は――指先のひとつに至るまでが、幻想のように美しく、危うかった。

にも、関わらず。

「……ふむ……目立った怪我は無いらしいな」
「勿論。再生したての球肌よ?」
大して感銘を受けた様子も無く、まるで健康診断でも行なっているかのようにまじまじと見つめるアトリ。
彼の様子も大概なものだったが、腰に手を当ててやけに偉そうに胸を張るトトも相当な重症である。
幻想的な気配は既に欠片も残っておらず、今の姿から漏れるのは感動の吐息ではなく――頼むから服を着てくださいという重い溜息ぐらいのものだ。
しかもこの場に二人を止めるものが誰もいない以上、話題はさらに迷走しながら転がり落ちていく。
「見惚れても構わないけれど、いけない気分になっちゃ駄目よ? ポイントは『花を愛でる心で見つめる』こと」
「そういうものなのか……」
「らしいわね……友達の旦那さんから聞いた事だけど。
 まあ、男女に限らず裸は芸術題材の一つになるくらいだもの。たまにはそういうのも悪く無いでしょう?」
「普通は公然猥褻罪で捕まっているがな」
「あれもおかしい話よね……やけにリアルな裸の彫刻を街の中心に置くのは芸術としてOKで、その傍で裸になってると捕まるのよ?」
そもそも、まっとうな思考の持ち主は他人の前で惜しみなく体を晒すという行為に恥じらいを覚えるものなのだが。
そんな的確な一言を入れる人物さえここにはおらず、最早誰にも二人を止めることは出来ないのかと、世界が絶望に包まれかけたその時。

「いや……そうでもあるまい」

状況を打破するような一言を呟いたのは、何と双隻眼のアトリ・イスカその人だった。
定められた運命を打ち砕く楔の一言に、神々がもし世界にいるのであれば、きっと樹々の虫けらは影を潜め、諸種の妙華は馥郁として薫り、
草木は一度に栄えて花一時に開き諸果を結び、瑞雲棚引き楽器は妙音を奏で、空には大光明輝いて人々の心を安楽にした事に違いない。
そうして彼は世界の希望を一身に受け、諸悪の根源たる北の魔女に――ペネトレイトを宣告するかのような、鋼の視線をひたりと向けて。
「先人はこう語り伝えている――“美しさは『罪』”だと。
 芸術作品にその罪を追求することは出来んが、人にはそれを突き詰めることが出来る……つまりはそういう事だ」
何が『つまりはそういう事』なのか。
鋼の視線がまるきり無駄である。むしろそんなことを真顔で言ってのけるアトリの方が極刑ものだ。
あまつさえ、彼の言葉に感銘した様に表情を晴れやかにし、先刻からしきりにこくこくと頷くトトも何とかして頂きたい。
神々でさえも裸足で逃げ出す二人の応酬が完全に復活を遂げたその時。

その状況を今度こそ打開する出来事が起こった。

「――げほっ! げっほ、げほ……っ!」

少し離れた瓦礫の中から、酷くむせ返った咳が連続して響いたのである。
その事に、思わず二人が顔を見合わせたのも無理は無い――
閉鎖されたこの結界中に、アトリとトト以外は誰も残っていないはずだったのだから。
最初の襲撃者達は軒並み死亡し、ユキは撤退を図ってこの場にはいない。
もう一人、襲撃に巻き込まれた人物がいたが――彼の胸にナイフが精確に投擲された事をアトリはしっかりと覚えている。
あの状況、あの状態でもし彼が生きているのであれば、それは正に奇跡以外の何者でも無い。

しかし、そんな想いを抱きながら瓦礫へと走り寄った時、果たして目の前に広がっていたのは正にその『奇跡』であった。

「っ……痛ぇ……アバラ、ぐずぐずだな……こりゃ…………げほ、げほっ……」

瓦礫の中で大の字を描き、ぶつぶっと悪態をついていた青年。
首から提げた写真機を後生大事に手に抱え、瓦礫の中から守り通したのは間違いなくあの新聞記者だ。
しかし彼の胸で輝くナイフは、間違いなく心臓のある場所にしっかりと突き立っている。
「……殺されても死なない事が流行っているのか?」
「何言ってるん……す、か……殺されたら、死ぬに決まってますよ……」
奇しくも記者が口にしたのは、トトが言った言葉と全く同じものだった。
「けど、っかしいな……悪運は確かに強いですけど、何でオレ……生きて……?」
目の前の二人以上に、自分が生きていることに関して納得がいかない記者であった。
死と隣り合わせの取材も少なくなかった彼にとって、自分の感覚と勘はそう易々と外れないものだという自負がある。
その中で死を確信していたのは、紛れない彼自身の直感だったのだが――何故、あの状況で生きていたのか――

そんな事を考えながら、ゆっくりと半身を起こした時。
胸を貫いたにしてはあまりに浅い刺さり具合だったナイフが、バランスを失って地面へと転がった。
乾いた音が響く中、六つの瞳の中心で――ナイフの先端を僅かに食い込ませ、切っ先が彼を貫くのを妨げていたものの正体が明らかになる。

アトリは納得したように一つ頷き、トトはその顔に満面の笑顔を浮かべ。
そして記者は――ぴしゃりと片手で顔面を叩いて、思わず苦笑を浮かべていた。

「……おいおい……何だよ、これは……」

呆れた中にも、どこか暖かく優しい響きを含んだ言葉。
ナイフの先端にに刺さった黒は――対衝撃に優れ、非常に高い耐久性を持つハイ・ダマスカスの金属光沢。


「ったく……こんなにベタすぎじゃあ、記事にもなりゃしないだろうに」


この世でたった一つだけの、歌姫の加護と寵愛を受けた夜雀のバッジ。
死の切っ先を食い止めて、誇らしげに輝いていた。







あの時ユキが投げたナイフが、この場で調達したものだったこと。
そして、偶然突き刺さった黒いバッジが――ハイ・ダマスカス製であった事が、記者の生死を分けていた。
「凄まじい命中精度だ」
「愛の成せる技かしら?」
「あーもー! 茶化さないで下さいと言ってるじゃないですか!!」
実際は命にこそ別状は無かったものの、吸収し切れなかった衝撃が彼に与えた損傷は決して軽いものではなかった。
とはいえ、命さえ失われていなければ魔術で治療することが出来る――トトの手によって即座に治癒されたのは言うまでも無い。
「……それじゃ、そろそろオレは行きます」
商売道具でもある大事な写真機を首から提げ直し、記者は丁寧に一礼する。
「この住所にある酒場……でしたっけ?」
「ああ。俺の名前を出して事情を説明すれば、工面はしてくれるはずだ」
頷くアトリが記者に紹介したのは、昼間に訪れたあの酒場。
店主の力を借りることで、彼の身柄の安全を確保するためであった。

奇跡的な偶然の連続によって生き残った現在の彼は――今回の一件における『目撃者』という事になっている。
これだけ大掛かりな準備を済ませ、第三者の介入を排斥して秘密裏にアトリを始末しようとしたユキにとっては、同様に排除対象となるのである。
幸い、撤退したユキも彼の生存にはまだ気が付いていないようだが、現場に遺体が残されていないことを知れば自然と彼が生きていることに気付く。
そうなった時、ペネトレイターとして第一級の実力を持つ『双隻眼』と互角以上の戦闘能力を持つ彼女に抗う事など出来るはずが無かった。
如何に記者が自分から首を突っ込んだこととはいえ、放置しておくのは流石に後味が悪い――とはいえ、同行を共にするのは論外。
考えた末に彼が示したのが、あの酒場の店主の情報網とコネを逆に利用して大幅に情報の改竄を行なうというものだった。
この現場を早々に捜索し、死者の報告の中に一つ、カメラを首から提げた長身の男の姿があったことを明記させる。
ユキは記者の名前や社会的立場・個人情報の様な類は何一つ知らないため、仮に情報を得たとしてもそれを『彼』と判断するより他に無い。
遺体を早期に処分したことにすれば死者の数を改めることも出来ず、仕上げに記者がこの街を訪れたという情報を削れば――
直接相対して顔を改められるようなことでも無い限り、彼女が彼の生存を確認することは出来なくなる。
アトリが即興で考えただけでもこれなのだから、店主ならばさらに洗練した手段を示すことが出来るに違いない。

ただ――

「今回の一件を黙秘してもらうのは間違いあるまい。知らぬ存ぜぬで通すことだ」
「折角の特ダネだと思ったんですけどねぇ……」
がっくりと肩を落とし、至極残念そうに嘆く。
そんな記者に、口元に手を当てて悪戯げに呟くトトは、既に普段の格好に身を包んでいた。
「帰りを待ってくれる子がいるのに、悲しませるようなことを言っちゃ駄目じゃない♪」
「……そうですね」
意外に素直な記者の態度に、思わず目を瞬かせた時――
「今、オレが生きてるのが……アイツのおかげだっていうのは本当ですから。
 身の回りが少し落ち着いたら――そろそろ責任、取ってやろうと思います。……本当、待たせてますからね」
自然な口調で、静かな決意を固めた彼の横顔に――トトはふわりと微笑を浮かべた。
「もし良かったら、その時の顛末を聞かせてね?」
「ええ――トトさんもお元気で」
差し出した手で握手を交わし、そのままアトリへと向き直る。
「代わりっていうのもあれですけど――アトリさん達も落ち着いたら、事の顛末を教えてくれませんかね?」
「構わんが……記事には出来んぞ」
「もちろん、判ってます」
異彩な双眸――二周りは高い場所から見下ろされる視線と真正面から向かい合う、記者の瞳。

「オレが記者になったのは、売り上げでちやほやされたいからじゃない――真実を探求するっていう姿勢が性に合ったからです」

銃は持たない。
魔術の才も秀でてはいない。

それでも、言葉の奥に――そして瞳に湛えられた信念は。

アトリやトトにも劣らない、己を真っ直ぐに貫こうとする強い輝き。

「……それに、ですよ?」

ふっとその表情を緩め、記者は屈託の無い笑みを浮かべると。

「ここまで良くしてもらった二人の生死も判らないままおさらばなんて、これじゃオレってばただの恩知らずじゃないですか」

茶化したような、その言葉の柔らかさと暖かさに。
トトはにっこりと微笑み、そしてアトリは――

「……名前は?」
「え?」
「お前の名前だ。……まだ、聞いてなかった様に思ったが」

唐突な問いかけに、しばし記者はぽかんと口を開いていたが。

「バカラッチ、ですよ。家を飛び出したから、苗字は生憎ありませんがね」
「……随分と変わった響きだな」
「それはオレも常々実感してるとこです」

苦笑を浮かべた記者に向って――差し出された、右手。

「またな」

その仕草は愛想が無く、言葉は短いものだったが。
再会を約束した、その言葉――また新たな道が、一つ交錯したことに。

「――次こそは、一級の特ダネ拾わせてもらいますから」

力強く笑い返すと、その手をがっちりと握り返した。









「……いいの? あんな事言っちゃって」
既に記者の背中は、結界の向こうに見えなくなっている。
彼の消えた辺りを見つめながら呟くトトに、アトリは心外そうに眉を上げると、
「お前だって気に入っていただろう?」
「それは勿論そうだけど……記憶を消すか、最悪――殺すかのどっちかだと思ってたから」
「『アルフェイル』が目覚めた時に、意識はなかったようだからな。見ていたら始末していた」
致死の一撃から奇跡的に生き延びた記者だったが、実はその後も非常に危うい位置に立っていたのである。
無論、そのことを彼に伝えてやる必要は無い――彼は殺すのではなく、生かすのだと既に決めたのだから。
「……本当に、目覚めさせたの?」
怪訝そうなトトの瞳には、彼女らしからぬ真剣な輝きがある。
それに気付かないような素振りで、アトリは黙って頷き――柄頭の宝玉を、軽く手で撫でながら呟く。
「仕方あるまい。俺が生きている限り、必ずこいつは狙われる。この数年間、一度も触れられなかったことの方が僥倖だ」
その口調も仕草も穏やかで、一見しただけでは気付くことは難しい。
だがトトには、言葉の裏に隠された――乾き荒んだ感情の残滓が、痛いほどにはっきりと判る。
少しだけ。
辛い旅路になりそうな気がした。
「まあ、一匹いれば三十匹は出るって言うし? 面倒事は手早く終わらせちゃいましょう♪」
ことさら、気構えの無い言葉を選び――トトは軽く腕を回した。
思わぬところで痛手を受けたが、同じ過ちは二度繰り返さない。
次に出会った時、きっちりユキに落とし前をつけると決意したのはアトリだけでは無かったのである。
「……それで、これからどう動く予定なの――」

振り返ったトトの舌が――回転を止める。
自分で止めた訳でも、彼女がこの場から消え去ったというわけでもない。

不意を打つように抱き締められ、驚きで言葉を失ってしまっていた。


「……アト、リ……?」


抱き寄せる腕は鋼を引き締めたようにしなやかで力強く、彼女を捕らえて離さない。
唐突な出来事に思考は完全に業務を放棄し、何故こんな事になっているのか――その流れが把握出来ない。
何を言おうとしたかも忘れて立ち尽くす彼女を腕の中に抱いたまま、夜を包み込む白銀の髪の長躯は――ぽつりと。

「……生きているな」

安堵したと称するには、あまりに色気の無い口調だった。

「お前はすぐに隠すからな。直に触らんと信用が出来ん」
「だ……だから、大袈裟だってば……殺されなきゃ、死なないって言ってるでしょ?」
「傷を負っていなかったとは一言も言っていない」

腕の中で、トトがぐっと言葉に詰まったのが判る。

「それに、口調もよく似ていた」
「……口調?」
「『大丈夫だ』と言った時だ。死に瀕していたあの時とそっくりな物言いだった」

その事への返答は無い。
こんな時に言うべき言葉を、何も持っていなかったから。

「『他の子ならともかく――私だったら大丈夫。頑丈なのが取り柄だし、死んだところで困る子なんていないから』。
 あの時お前が言った言葉が……俺には我慢ならなかった。
 お前が今ここにいるのは、単に俺の我侭に付き合ってくれているだけなのかも知れん。
 だがな、それでも俺の傍にいる以上は二度と忘れるんじゃない。お前が傷付くのも死ぬのも、俺にとっては非常に困る」

あらゆる恐怖の眼差しに慣れた、『北の魔女』の柔らかい体を――しっかりと胸に抱き寄せて。




「俺は、お前を、求めているんだ」




訪れた沈黙は長く、月と星の夜空の下で彼女から伝わる鼓動は早鐘のように響いていた。

「……ひ……卑怯よ、アトリ……普段言ったりしないこと、こんな時に限って……」
「柄ではないと思っているが、それを言わせたのは何処の誰だ」
「ぅぐ……」

何気なく返す一言まで、一切の容赦が無かった。
単に額面通りの意味でも、「こんな事を囁くのはお前にだけだ」と言う意味にも取れる。

「何でそんなに覚えてるのよ……」
「お前は覚えていなかったか」
「勿論、覚えてるけど……だってアトリ、普段は十秒前のことだって覚えてないじゃない……」
「仕方あるまい。切り札は存在を明かさず、最後まで手元に伏せておくものだからな。何ならもう二・三枚、手札を開けても構わんが?」
「……お願いだから、もう勘弁して……」

額を胸へと押し当てて、殆ど消え入るように呟く。
耳の先まで赤くなった彼女に、無条件降伏以外の選択肢など残されていなかった。




静寂の中。
見下ろすのは、夜と月と星の瞬き。

言葉も無く触れ合った肌は、言葉以上に心を伝えて。

「……私だって」

アトリの胸に頭を預け、注意せねば聞き取れないほど小さな声で。

「私だって、アトリの事を求めてる……今は、素直に求められる」

顔を上げたトトの頬は、まだほんのりと赤かったが――見上げる瞳は揺らがない。

「許されなかった我侭なのに、叶えられたのはアトリのおかげ。
 だから私は死なないわ。傷付きたいとも思わない――だって、今はね?」

そして、浮かべた微笑みは。




「求めてくれる人の想いに、応えることが出来るんだから」




いつものトトが顔に浮かべる――優しく、そして強い笑顔。
ようやくアトリも表情を緩め、口元に微かな微笑を浮かべる。

高いところにある首に、腕を絡めて爪先を伸ばし。


重なり合った二人の影が、長く長く夜へと伸びた。









「……それで……これから、どうするつもりなの?」
長いキスの後――微かに余韻を残したまま、そっと囁くトトの目の前に。
アトリが掲げてみせたのは、ユキが着ていたエプロンドレスの端切れ。
「自動人形の格好は、そのまま主の品格に繋がる。
 魔術師はプライドで出来た生き物だからな――必ず何処かにあるとは思った。主を断定出来るだけの明確な『特徴』が」
紺色の布地の裏に、小さく縫い取られていた紋章。
このメンフィスの街にいる限り、至る所に刻まれている。
観光ガイドを手に取った時、街の紹介と共に必ず記載されているその紋章は――観光都市メンフィスを治める、ヘンリーソン家の家紋。

この街を訪れてから、立て続けに三度も見舞われた襲撃。
特に力を注いでいるはずの保安部門が、全て後手に回っているという現実。

オズワルドの一件も含め、全ての疑惑の何処かに――必ずメンフィス領主・モーリスの存在がある。

「……『仕掛ける』?」

彼女が暗に、何を示しているのか。
判っているにも拘らず、アトリは即答では応えなかった。

冷ややかな銀の瞳の奥で、僅かの間に――彼が何を思案していたのか。
だが次に顔を上げた時、一つの選択を済ませていた。

「……虎穴に入らずんば虎子を得ず、だな」

視線を巡らせた先にある、ヘンリーソン家の大きな屋敷。
その方角は奇しくも――ユキが退いた方角と、寸分違わず一致している。



「モーリスの館へ、直接仕掛ける」


銃撃を思わせるような、鋭い宣言。





夜はまだ、明けには遠い。