No.03-EX02 Alfail story Episode Penetrater
双隻眼のアトリ・イスカ

第三十二話 『恐怖』 -fear-

血塗れた愛剣に手を添えた姿のまま、微動だにしない自動人形を前にして。
指一本まともに動かない全身を奮い立たせ、満身創痍とは思えないほどしっかりとした足取りでアトリは立ち上がっていた。
否。
既にその体に、傷は殆ど残っていない。
異常活性化された新陳代謝によって、原生生物もかくやという勢いで再生する彼の体。
それは完全に骨を砕かれ、感覚が喪失してしまっていた左腕でさえも例外ではなく――
微かに指先を開閉してみても、特に感覚が鈍っているというような後遺症さえ無い。
生命活動に支障が出るほどの重体から回復してみせた自分を、果たしてこの殺戮人形は何と判断したのか。
生憎、アトリはその事に興味が無かった。
――破壊すると決めた相手の事など、知って一文の得にもならない。
拾い上げた二丁拳銃の重い手応え。
冷えた銀燭と合わせ、果てなく続く蒼へその色を変えた『双隻眼』の瞳。
先刻から響く空気の脈動は、まるで巨大な心臓がすぐ傍で弾けていると思うほどに熱く――激しく。
「――行くぞ」
半分は自分に言い聞かせながら、獲物を竦ませる獣の咆哮のように獰猛な銃声が響き渡った。
だが、彼の両手が狙いを定めた先は――ユキではなく、自分の足元。
全く関係ないところに叩き込まれた弾丸はそのまま跳弾と化し、広い間取りの室内を縦横無尽に駆け巡る。
一見すれば、果たして何のために銃撃を見舞ったのかまるで訳が判らないが、アトリのその行動は明確な意思に基づいた意味のある行動だった。
銃撃を見舞ったアトリの体は――その反動で、弾丸と同じ速度で天井へ向かって跳ね上がっていたのである。
速度はそのままに、あわや天井に叩きつけられる所を宙で一転して着地――さらに鋭く天井を蹴り、跳躍する。
そうして逆さを向いたままの姿で、がら空きの背中へと向けて躊躇い無く相棒の銃爪を引き絞った。
しかし炸裂するような発砲音に続いて響いたのは、牙が肉を喰らう湿った音ではなく――金属同士が噛み合う澄み渡った音。
ユキの半身から上がおよそ非人間めいた反応速度で旋回し、弾丸を弾いた刃がそのまま緋色の弧を描き雷光の勢いでアトリへと落ちかかる。
それは宙で逃げ場の無い彼にとって、躱す手練ての無い必殺の一撃。
だが、その一閃がアトリを捉えることは無かった。
何故なら彼は、またも銃撃の反動で――銃弾と変わらぬ速度で後方へと吹き飛ばされていたからだ。
急激に視界から遠ざかる人形の顔に、微かな動揺が走ったように見えたのは何の錯覚だったのだろうか。
壁に激突する寸前、翼を開いた鳥の様な格好で発砲――その反動さえも利用して上方へと滑るように跳躍する。
視界一面に広がったのは天井だが、今の彼にとって壁も地面も天井も大した違いはない。
天井をまるで床のように蹴り、壁を蹴っては速度をいささかも落さず室内を飛び交う姿は、まるで巨大な銀の跳弾。
だが如何に複雑な軌道を描こうとも、所詮は直線的な動きに過ぎない――彼の進路を一瞬で計算した人形の手から、鋭く緋の弧が翻る。
それは寸分の狂いも無く、数瞬の後にこの場を訪れるアトリの首を跳ね落す軌道を描いて――
突如、彼女の手元で衝撃が爆ぜた。
「――!?」
何も無かったはずの空間に斬撃を見舞った瞬間、彼女の全身を叩いた榴弾の爆発に匹敵するほどの衝撃。
予想外の出来事に大きく体勢を崩した彼女の隙を、鋼の顎は逃がすことなく――撃ち貫かれた脹脛が鮮やかな紅を爆ぜさせる。
その銃撃の反動を利用して更に跳躍し、彼女の頭の上を飛び越える様に長躯が踊る。
その交錯の最中、ユキの左肩に銃口が押し当てられ――聞く物の腹腔を揺るがすような炸裂音が響き渡った。
もし彼女が人であったら、目の前で起こった不条理なまでの様々な現象に、驚愕で自暴自棄になっていたに違いない。
先刻とはまるで逆、皮肉にも左腕を力無く垂らしながら――まだ生きている右手で長刀を構えるユキ。
「――空間を閉じてくれたのは好都合だった。こいつは一定範囲内の空間を閉鎖しないと使える代物ではないからな」
距離を置き、二丁の相棒を構えながらアトリが向き直る。
しかし、彼が着地したのは天井――服や髪も天へ向って流れる様は、まるで重力の存在など知らない様子だ。
まったくもって、不条理で非現実的な光景が目の前に展開されていた。
「万能の自動人形でも、こういった状況に対しての効果的な戦闘手段は持ちえていないらしいな」
勝ち誇った様子も無くアトリは淡々と呟き、空になった弾倉を上の地面へと放り投げる。
単に重力が逆転しているというより、この空間一帯に異様な重力場異常が発生していると判断すべきかもしれない。
だが、歪んでいるのは重力だけに限らず――ユキに搭載された感覚器は、時間軸や空間軸、慣性の類も非常に不安定な状態に陥っていることを告げていた。
アトリが現在立っている位置とユキが立っている位置では、世の成り立ちそのものが全く異なっているといっても過言では無い。
「むしろ、こういった状況を想定していなかったようにも見えるが……本当に、これを回収するつもりだったのか?」
「……貴様の発言趣旨が不明だ。詳細な回答を要求する」
「『アルフェイル』の名を出した以上、こうなることは必然だったと言っている」
質問に質問で返したユキに応えながら、腰の辺りへ視線を向ける。
柄に嵌められた宝玉が湛えているのは、色の変わった彼の瞳と根源を同じくする蒼。
「世界が、震えている」
何気ない様子――さりげない口調で、そう切り出すと。
「今、この場に起こっているあらゆる現象の異常は、磐石であるはずの世界が恐怖に震えている影響だ。
人間が怯え、泣き……身を捩りながら、哀願と救いを求めて魂の奥底から絶叫を迸らせているのと同じことが世界に起こっている」
逆さに立ったまま、歪んだ世界を見据えていたアトリの瞳がユキへと向けられる。
突如、色の変わった左目――そこに湛えられていた蒼い輝きの正体について、ユキの眼球が解析に入った瞬間。
「こんな、具合にな」
彼女の体が、特大の雷にでも打たれたかのように大きく震えた。
変化はそれだけではない――全身を引き攣らせたまま立ち尽くした掌の中で、小刻みに不快な金属音を震わせる長刀の柄。
感情を見出せないほど透き通った瞳は零れ落ちんばかりに見開かれ、口から漏れる呼気は喘ぐように酷く浅い。
方式の一部に不具合が生じたのか、冷却の必要も無いというのに全身の汗腺が開き、じっとりと服を濡らしている。
彼女の身に、一体何が起こったのか。
相対する彼の姿に何を見出したというのか。
その状況に変化を生じさせたのは、室内に響く――湿り気を帯びた刺突音だった。
「ひ……右眼球部損傷。光学系感覚器に四十%以上の機能低下を確認」
自身の右目に、左手の親指の先端を突き刺した格好のまま――状況に見合わぬほど平淡な口調でユキは呟く。
そんな凶行に及べば、如何に強化されていたとしても眼球が耐えられるはずもなく、細い親指は白濁の肉塊に汚れてしまっていた。
しかし、顔の半分を血で染め上げながらも――ゆっくりと手を離したユキからは、先刻までの不調は嘘の様に消え去っている。
「……各部感覚器の感度の再調整を開始……不具合の生じた中枢内の思考作業領域を隔離。
補助領域の一部を作業領域へと再設定し、方式を再起動――引き続き、任務を続行する」
片方の瞳を失ったまま、長刀を構えて相対した時には、完全に彼女は元の調子を取り戻していた。
凄惨な顔面とは裏腹な隙の無いその姿は、正に自動人形――痛みも苦しみも無い、模範的なまでの忠実な僕のそれだ。
にも、関わらず。
「その『恐怖』を抱いたまま、俺と戦うつもりか?」
アトリのその言葉に、ほんの僅か――片方だけになった瞳の奥に、何かの瞬きの様なものが過ぎって。
「否――『恐怖』という要因は、私には存在しない」
その言葉が、単なる事実を伝えたようにも――自身に頑なに言い聞かせたようにも響いたのは何故だったのか。
「敵性体の排除を再開する――戦闘開始」
それでも彼女は刃を捨てず、アトリは遠慮なく銃爪を絞って銀流と化した。
「――攻撃」
素早く手首を翻し、流れる銀流目掛けて振り下ろされた刃。
しかしそれは、歪んだ時間の流れに阻まれ、まるで抵抗の大きな流動体に突き立てたように鋭さを失ってしまっている。
必殺の力を失った斬撃の下を掻い潜りって叩き込まれた弾丸は、彼女の胸郭とその奥にある肺腑を容赦なく殴打した。
強固な骨格の合間を縫った精密射撃に、一瞬明滅する意識の中――視界の端に銀流が回り込むのを捉える。
その瞬間、まるで別の生き物のように右腕が跳ね上がって予測された銃撃を弾き飛ばしたが、体勢を立て直そうとした直後、背中を貫いたのは弾着の衝撃。
弾いた弾丸が、引き歪んだ空間をレールのように滑ることで蜻蛉返りに戻ってきたのだと気づいた時、その身に雨のように跳弾が降り注いだ。
流石にその狙いは正確無比とまではいかなかったものの、度重なる衝撃にエプロンドレスが引き裂かれ、平衡感覚を崩して大きく体勢が揺らいだその時。
彼女の視覚が、目の前に忽然と現れたのは銀と蒼の異彩な双眸を知覚していた。
「遅い」
腹部へ向けて連続して衝撃が弾け、無抵抗に全てを受け止めたユキの体がくの字に折れ曲がる。
その時には既に銀影は周囲に溶け、床に残された空弾倉に――皮下循環液の飛沫が零れ落ちた。
ユキの骨格を形成しているオリハルコンは、如何にアトリの銃が高い破壊力を秘めていても全く歯が立つ代物ではない。
しかし、その骨格を包み込んでいる生体部品ならば話は別――皮を裂き、肉を断つことも可能である。
眼球を自ら抉って平然としている彼女に、痛覚による行動抑制の効果は望めないとはいえ――
人を模した体と自称する以上、筋肉や神経といった箇所を断たれれば、力の伝達手段は損なわれ、自然と行動に抑制がかかる。
ただでさえ片目を失ったことに加え、備えている治癒能力以上の速度で与えた損傷によって、彼女の性能は目に見えて低下していった。
あらゆる力場が捩れて歪み、嵐のように吹き荒れる世界。
だが南方の大塩湖へと船を出す男たちが、様々な経験から培った独特の感覚によって水面の『機嫌』を知るように。
アトリは感覚的に、通常なら決して知覚出来ない様々な『歪み』を肌で感じ取り、行動を組み上げることが可能だった。
空間の歪みに弾丸を叩きつけては飽和したエネルギーを解放し、大きく揺らぐ時間の波が凪いだ一瞬を狙って縫うように銃撃を見舞う。
捩れた重力場に逆らう事無く体を預け、通常ではありえないような奇抜な動きで様々に間合いを変え、虚を突いては貫いていく。
こういった戦い方を体で知るアトリに状況は完全に傾き――そしてその中で、決着をつけるのならば今だと判断した。
弾倉を入れ替えると同時に両腕を旋回させ、詰まった弾丸の半数以上を撃ち放つ。
一見無造作な、ユキとは全く無関係に放たれたように見えたその弾丸達が――跳弾を利用して彼女を取り囲むように回頭して牙を剥く。
その時、壁を蹴って大きく跳躍したアトリは歪みの合間を縫って死角へ回り込み、跳ね上げた銃口で完全にユキを狙点していた。
殆ど時間差の存在しない、全方位からの精密一斉攻撃。
周到に用意した包囲網の中、銃爪にかけた指に力を込もる。
「――現状の性能では、敵性体に的確に対応することが不可能と判断。任務の遂行を最優先に、一部の優先順位を変更する」
だが、感情が欠落した人形の顔――今や隻眼と化した硝子の瞳の奥で。
星の瞬きにも似た熱の無い輝きが、ほんの僅かな合間、鮮やかな煌きを帯びたように瞬き。
「第六抑制装置、解除――常時適応型戦術思考及び行動の最適化開始」
呪文のように紡がれた言葉と共に、彼女の姿を覆い隠す緋の壁が屹立した。
それは迫り来る全ての弾丸を弾き飛ばし、アトリの特攻を阻んで明後日の方向へと弾き飛ばす。
その事に軽く眼を見開いて驚愕する中、鋭い痛みの迸る左腕。
そこに目を向けた時――刻まれた一筋から玉のように滲み出す生命の紅。
「敵性体への命中を確認」
緋色の壁――そう思えるほどの鋭い剣捌きで応戦し、反撃を成功させた彼女の言葉には、喜色の気配も達成感も漂っていない。
しかしその態度こそが、今の一連の応酬が偶然の産物などではなく、彼女にとって予測された事態――計算通りであることを如実に物語っていた。
彼女の全身に搭載されている感覚器を軒並み起動し、取得した莫大な情報を演算中枢の処理機能を完全解放して高速処理。
刻一刻と変化する状況に、戦術思考を常時再構築する形で対応する――故にその名称は「常時適応型戦術思考及び行動の最適化」。
そんな強引な手段を適応することが出来たのは、ひとえに彼女が『自動人形』の概念さえ覆すほどの高い性能を誇っていたため。
イヌ科の耳と尾を模した放熱用の生体ファンが唸りを上げ、発した熱で青白く輝く――ユキの全身に高い負荷がかかっている証拠だ。
本来、滅多なことでは解除しない領域の抑制装置を解除してのこの戦闘手段は、長時間の交戦には向いていない。
それでも。
「各部感覚器の誤差修正・及び情報処理を続行し、敵性体の排除を再開する――戦闘開始」
機能停止までの間に任務を達成することが可能だと判断して、青い流星が飛翔する。
「この状況についてくる、か……だがお前に、選択は与えんと言ったはずだ……!」
鳴らした舌打ちとは裏腹――微かな昂揚さえ漂わせ、銀の弾丸が迎え撃った。
長刀と拳銃――二つの獲物が真正面から激突した時、その力は互いに相手へと届くことは無かった。
銃弾は全て壁の様に屹立する刀身によって悉く阻まれ、その挙動で生じた微かな隙を利用して斬撃の下を掻い潜ったからだ。
しかし、互いの体がすれ違った次の瞬間、離れていく少女の脊椎へ向けて背中越しに跳ね上げた漆黒の獣の虚ろな銃口が掲げられている。
背後を振り返ることも無く銃爪を引いたアトリに対し、ユキは宙で体の向きを入れ替えることも、長刀で全ての弾丸を弾くような真似もしなかった。
ただ一閃、緋の切っ先が薙ぎ払ったのは飽和寸前の空間の歪み――不安定な状態の中に加えた衝撃が、歪みに蓄えられたエネルギーを爆ぜさせる。
銃弾は悉く発生した衝撃波に吹き飛ばされ、煽られる形で体勢を崩したアトリ目掛け、舐め上げるような逆袈裟の一閃。
咄嗟に身を捻り、刃の腹へと旋回させた爪先が軌道を無理矢理に逸らせていなければ、彼の胴体は永遠に下肢と別れを告げていたに違いない。
先刻とまるで段違いのユキの動き。
感覚と計算――それぞれに異なる手段を用い慄く世界の歪みを克服した二人は、ここに来て完全に拮抗した。
体勢を崩したユキだったが、不安定な体制のまま回し蹴りを見舞ったアトリもまた、彼女と縺れ合うようにして地面を横転する。
呼気が触れ合うほど密着した状態の中、組み敷かれるような姿となったユキは鋭く切っ先を翻し、アトリ目掛けて背筋の力だけで突きを見舞う。
その鋭い一閃は視認可能なものではなく、本能的な危機感だけを頼りに顎先に迫る死を回避するアトリ。
だが、ユキの攻勢はそれだけに留まらず、もう一度刀身を引き戻して――今度は躱せないよう、心臓へ向けて緋が迸る。
アトリは即座に、ユキの顔面へ向けて銃口を狙点し銃爪を引き絞った。
その銃撃を回避するため身を捩った一瞬の間に、反動で跳ね上がったアトリの体は心臓への一閃を辛うじて躱している。
天井に着地し、さらに跳躍して地上へ着地したアトリへ向け、体勢の整わぬユキが見舞う地を舐めるような鋭い横薙ぎ。
両の足首を狩るには充分過ぎる速さの斬撃へ向って、アトリは鉄骨で補強した靴裏を叩き付ける。
だが、刃の腹を踏まれたはずの斬撃が停滞することはなく、振り抜き様に立ち上がったユキの目前――アトリは、刃の上に立っていた。
正確には、刃の側面の僅かな面積に突如生じた重力を利用し、そこに着地する形となったのである。
まるで軽業師のように愛剣の上に立つ彼の姿に、ユキは即座に刀身を地面目掛けて勢い良く叩き付けんとするが――それよりもアトリが早い。
振り回された刃の上は不安定極まる足場だったが、音速で交錯する相手にさえ正確な狙いを定められる彼の腕は彼女の体を確実に撃ち貫いていた。
うち一発が左手の甲の肉を爆ぜさせ、衝撃に取り落とした長刀の鞘が地面に転がり乾いた音を響かせる。
そして、ようやく地面へ激突するように叩きつけた刀身からは既に跳躍して離れ――距離を置いて彼女と相対し、弾倉を排出する。
一見すればユキとの間に何の障害も無く、弾倉を入れ替える一瞬が命取りに思えるが、実際には強い時空間の歪みが壁のように屹立して間を隔てている。
彼女に遠距離からの射撃が有効とは言いがたいのだが、位置関係において有利な場所を確保したことには違いなかった。
しかし。
危険は無いと理性が告げているにも拘らず、先刻から総毛立つ勢いで警告を放つ本能の存在――!
「< vermilion tone >」
衝動に突き動かされる形で体を投げた直後を、朱が真二つに両断していた。
斬撃の軌道上に存在するあらゆる物質、そしてあらゆる『歪み』さえも両断した朱き音。
理屈は判らないが、あの朱は抗うものでも受けるものでもなく――躱すしかないものだと本能的に理解する。
そしてそれをやり過ごしたことによる僅かな安堵が、渋みを帯びた舌打ちへと変わったのには刹那の刻さえ必要としなかった。
全ての歪みが断ち切られた――つまり、そこには最短で駆け抜けることの可能な『道』が開いたと言う事。
最速で駆け抜け、緋色の輝きを携えた青い流星。
跳ね上げた銃口は――迫る緋の閃きよりも遥かに鈍重だった。
「――攻撃」
感覚など無い。
状況を最初に知覚したのは、視覚から流れ込む映像という情報からだ。
銃爪に指をかけたままのアトリの右手首が、僅かな間を挟んで――ずるりと滑る。
今も感覚が通っているようにしっかり銃把を握り締める手首に、切断面から噴水のように噴き出した血。
目の前の光景を情報として理解するよりも、少女の姿をした死神が無情な告死の剣を振り翳した行動の方が早い。
アトリは反射的に、もう片方の手に握り締めた相棒を振り上げたが――その動きはまるで、落ちかかる刃から自分の頭を必死で庇うように。
無様とさえ言えるその行動は、さしもの双隻眼であっても、片手を失った事への精神的動揺は大きかったということだったのか。
挙句、振り上げた反動で弾丸の詰まっている弾倉が宙に飛び出し、今や彼は完全に反撃の手立てを失ってしまった。
連続して重なった不幸にも情けない姿にも、自動人形は感慨を抱かず――戦術思考に従い、精密な動きで首へと刃を振り下ろす。
アトリの異彩な双眸が瞬き、弾倉の抜けたはずの大型拳銃から轟然と弾丸が吐き出されたのは正にその瞬間だった。
弾丸を排出するたびに自動で薬室へ次弾を装填する、自動式拳銃特有の仕組みが生み出す――弾倉に頼らない一発の『遊び』。
そして煙吐く銃口が狙いを定めていたのは、刃を振り翳した姿のユキにではなく、未だ中空を踊る弾倉へ向けて。
込められていた弾丸が一度に炸裂し、その衝撃へと真正面から突っ込む形となったユキは大きく仰け反り蹈鞴を踏む。
その時にはアトリは、弾倉を失った相棒を投げ捨て――地面に転がる自分の右手首を掴むや否や、その断面同士をぴたりと繋ぎ合わせていた。
度を越えて鋭利過ぎたユキの刃と技量、そして異常活性化された再生能力は瞬く間に血管と神経を繋ぎ合わせ、骨を接合・密着させる。
右手の先に握り締めた相棒の感触を再び取り戻し、爆発によって立ちこめた煙の中へと素早く銃口を跳ね上げ――
だが、それよりも早く――正に銃撃に劣らない鋭さで煙を突き破り、少女の繊手がアトリの左肩を捉えた。
そしてそのまま信じがたい膂力で皮と肉を突き破り、その奥にある骨を握り締めて2dcを越える長躯を地面へ向けて叩き付けていた。
全身の骨が悲鳴を上げるほどの衝撃に打ちのめされ、激しく激突した頭部から流れ出した血が右目の視界を一時的に奪う。
その中で発揮された自動人形の異常な握力は、まるで林檎を砕くかのようにアトリの左肩を音を立てて圧砕していく。
最早痛みと言う言葉では形容できない衝撃で視界と意識が明滅し、喉の奥から絶叫が迸る中。
空いたもう片方の手に携えた長刀の先端が、彼の脳髄を頭蓋ごと貫通せんと閃き――
アトリの喉を震わせるものが、絶叫から――咆哮へと、変じた。
ユキの聴覚感覚器を一時的に機能麻痺に陥らせるほどの怒号が、びりびりと空気を振るわせる。
同時に彼女の手から圧砕した骨の感触が突如として失われ、代わってその後頭部が万力の様な力で拘束され、持ち上げられていた。
突然の事態に演算中枢は最大級の警告を放つが、それにユキが何らかの対処を取るよりも早く。
視界が急転し――凄まじい衝撃に頭部が激しく揺さぶられ、戦術思考に著しい乱れが生じた。
逆立てるように振り荒れた銀髪の中、瞳と称するにはあまりに獰猛な光を孕んだ銀と蒼の『双隻眼』――
だが、成人男性五人分には匹敵する重量のユキの肉体を壊れた玩具のように振り回しては叩き付ける姿は、普段の彼からはかけ離れていた。
強引に肉を毟り取らせた左肩から血を噴出しながら、さらにもう一度頭から地面へ叩き付け、細い首筋へ銃口を押し付ける。
血に染まった視界の中で、荒い呼気を噛み砕いて銃爪に指をかけた瞬間――緋の輝きが、彼の腹部を深々と刺し貫いていた。
刀身はそのまま背から切っ先を突き出し、衝撃に大きく吹き飛ばされた長躯は壁へ激突して粉塵を巻き上げる。
だが唯一自由の効いた右腕で剣を投げ、アトリを吹き飛ばして拘束から解き放たれたユキも、そのままろくに動こうとはしない。
二人とも、その体に蓄積したダメージは限界を超えていた。
しかし、それでもまだ致命には至らない以上――膝は、折れない。
口から大量の鮮血を吐き零し、腹部を貫いた緋色の刃へ手を掛けて――そのまま一気に引き抜いた双隻眼。
度重なる中枢への直接の衝撃に、至る所が機能劣化を訴える中――震える膝で立ち上がる自動人形の傍らには、黒く重厚な大型拳銃。
互いの相棒を交換した形で、相対した二人が取った行動は。
まるで予め示し合わせたように――同じものだった。
互いに間を詰めるべく、地面を蹴ると同時――自らが手に握った互いの相棒を、相手へ向けて投げ放つ。
銃と剣が鋭く交差し、在るべき主の下へ至った瞬間。
銀の弾丸と蒼の流星は光芒を引き――真正面から激突した。
その結末。
ユキの手にした緋色の刃は――アトリの首筋の微かに手前、押し当てられるようにして構えられていることに対し。
アトリの大型拳銃は、ユキの眉間を祖点するための弧を描く最中のところで止まり、空しく宙を指し示している。
僅かに――そして致命的に、ユキの方が早かったのである。
しかし。
向かい合う二人は、その体勢のまま微動だにしない。
その刃を振り払い、首を斬り落とす事など容易なはずのユキが、凍てついたように動かなかったのは――
「――この空間での戦いには、一日の長がある」
言葉は、彼女の背後から聞こえていた。
そこに立ち、榴弾投擲砲を彼女の頸元へとぴたりと押し当てている長躯がある。
向けられていた銃口はそれだけではない――彼女を包囲するように掲げられていた銃口の数は、八つ。
冷ややかな輝きを返す漆黒の銃身を握り、透ける銀の髪と異色の双眸を持った――双隻眼のアトリ・イスカが八人――
まやかしや幻影、錯覚などではない。
搭載された感覚器の情報は、全ての双隻眼が実体を持った『本物』であることを告げていた。
「如何にお前が早かろうと、まったく同一の時間に襲い掛かる銃撃全ては防げまい」
時間の歪みを利用し、『あの瞬間に取ることの出来たであろう行動』の全てを実体化させて。
「――終わりだ」
勝ち誇った様子もない、鋼の様な冷たい呟きと共に――アトリはその銃爪を引いた。
密閉空間の中で炸裂した爆発のエネルギーが、逃げ場を求めて窓や戸を手当たり次第に吹き飛ばしていく。
まるで火柱が横たわったかのような紅蓮の炎が噴出し、濃密な夜の闇を閃光の切っ先で煌々と切り裂いた。
そんな爆発の中から、叩き出されるような姿で吹き飛ばされた長躯がある――宙を舞い跳び、冷えた地面へ激突する銀流。
アトリである。
爆発と着地の衝撃で体の中を鈍痛が貫いている中、それでも賢明に体を起こすが――苛む、強烈な眩暈と脱力感。
思わず片膝を折り、顔をしかめた時――額から零れ落ちた汗が、地面に跳ねて指先を汚した。
久々に無茶をしたせいで、心身ともにどうやら限界を超えてしまっているらしい。
記憶に覚えている限り、最後に『あれ』をやったのは既に五年以上も前のことだ。
それだけの長い間―― 一度も『アルフェイル』に触れなかった事の方が、思えば奇跡的な事だったのかもしれない。
既に腰のアルフェイルから輝きは失われ、蒼く染まっていた瞳も元の金燭へと戻っていた。
同時に、あの再生能力も失われ――吹き飛ばされた際に噛み砕いてしまった奥歯の欠片を吐き出しながら、炎上する建物へと視線を向ける。
日干し煉瓦で造られた上から魔術による強化を施されていた建物は、爆発の衝撃にも皹一つ無く、倒壊する様子も感じられない。
彼がユキの背後から叩き込んだ弾頭は通常の榴弾に無数の金属片を詰めたもので、爆発と共に弾け跳んで標的をずたずたに切り刻む。
破壊力と殺傷力は随一だが、そうであるために使いどころを慎重に選ぶ必要のある一発でもある。
いくらアトリの服装が魔術で強化されているとはいえ、この弾頭に関しては反動覚悟の零距離爆破は自殺行為以外の何者でもない。
あの局面で使うことが出来たのは、ひとえに顕現していたあの異常なまでの再生能力があったからこそである。
閉鎖空間における爆発は生じた衝撃を逃す事が出来ず、通常の何倍もの威力を発揮する。
室内を外界と隔離していた結界は爆発の瞬間には消失していたために、完全な密閉空間とはいかなかったものの――
それでも、屈強な建物の壁によって乱反射した衝撃は嵐のように室内を吹き荒れ、中にいたユキを襲ったはずである。
室内を脱出する直前まで、ありったけの銃撃を見舞ったことも含めて。
これが、今のアトリが持っている装備で出来る――最大威力の攻撃。
だが。
炎の揺らめきの中から微かに響いた、砂を噛むような足音。
引きずるような足並みで炎から這い出したのは――エプロンドレスを纏った少女。
しかしあの爆発に耐えたとはいえ、今のユキの姿はとても直視に耐えないほど凄惨な姿だった。
皮膚が爆ぜて肉が削げ、纏う紺色のドレスは漏れ出した皮下循環液でどす黒く染まり、無数の金属片が突き刺さっている。
身体制御機能が著しくその機能を劣化させているのか、まるで糸が縺れた人形のように動きはたどたどしく、ぎこちない。
炎の照り返しの中で、片方だけの硝子の瞳も時折明滅し、感情を感じ取れないにも拘らず酷く衰弱したような印象を与えた。
尾は半ばで千切れ、耳は折れ――あの局面において、最も殺傷度の高かった榴弾の一撃を防ぐために犠牲にした右腕は、肘から先が、無い。
「……現状、の、損傷……度・彼我……ノ、戦力差かラ、これ以上の……ニン、任務続行は、困難だと……判断」
発声機能にも著しい障害が発生しているらしく、紡ぐ言葉は酷く不明瞭で聞き取りづらいものだったが。
酷く不恰好な様子で屋根の上へと跳躍したユキの姿を見た時、アトリは疲労の極みにある全身を叱咤し、鋼の相棒を掲げた。
このまま逃げるつもりなのだろうが、ここで彼女を逃す道理は無い――左手の仕掛けを作動させ、空になった弾倉を入れ替えると同時に狙点。
意識するよりも早く動く体が銃爪に指を掛け、彼女を仕留めんと力を込める。
だが、それよりも。
「――予備記録より演算中枢の戦闘領域・及び戦術思考を修復――追加兵装準備完了」
宙を舞う少女は、戦闘に関する機能だけを優先して回復し、裂けたスカートの裾を跳ね上げる。
銃爪が引き絞られるよりも、少女の太腿の付け根に括られていた無数の投げナイフに手がかかるほうが僅かに早かった。
「攻撃」
闇を裂いて迫る銀の煌きは、さながら天から注ぐ流星雨のように幻想的な光景だった。
しかし投擲されたナイフの速度は銃弾にも匹敵し、横転して躱したアトリの影を縫うように柄まで深々と地面に突き刺さっている。
虚を突かれながらも一転し、彼が銃口を跳ね上げた時――既に少女の居場所は、彼の銃の射程圏内から完全に脱していた。
空から注ぐ月の光と、足元を照らす炎の輝きに照らされて。
星の輝きのように熱を感じさせない瞳が――真っ直ぐにアトリを見つめる。
その左手に握られていたのは、未だに愛剣を離さないまま千切れ飛んだ自身の右腕。
執念など持たないはずの自動人形。
だが、硬く握られた長刀は――決して諦めた訳ではないとの決意の現れのように、太陽の輝きを炯炯と宿して。
「――この場から、一時撤退する」
傷だらけの少女の姿が、闇に消える。
静寂を取り戻した夜に、ただ炎の爆ぜる音だけが残されていた。



