No.03-EX02 Alfail story Episode Penetrater

双隻眼のアトリ・イスカ


第二十六話 目撃者



宙へと身を投げ出した瞬間、二人を襲ったのは鼓膜を引きずり出されるような錯覚。
どうやら、あの斬撃の風を外へ漏らさぬよう――宿の周囲に張られていた結界は、副次的に気圧にも変化を催していたらしい。
遠く響く耳鳴りの音を残して、生と死を別つ隔たりを潜り抜けたアトリ達。
一瞬後、微塵に切り裂かれる宿――だが、潜り抜けた危機に安堵するより早く、視界に迫る硬い大地――
「――抱き止めたほうがいいかしら?」
耳鳴りに重ねるようにして聞こえる、トトの提案。
人一人を抱え、この高さから着地するなど無謀だが――彼女に限って言えば何の問題も無いだろう。
むしろ彼を抱えたまま、まるで新体操のような鮮やかな芸の一つも披露しかねない勢いである。
だが、アトリは軽く首を横に振り、彼女の提案を退けると。
「必要ない――この程度なら対処は可能だ」
迫り来る地面へと虚ろな銃口を向け、躊躇う事無く銃爪を絞った。
銃声が轟き、次々と撃ち出される鋼の顎は易々と地面を抉っていく。
頬を掠めて飛散するのは、着弾の衝撃に撥ね飛んだ土塊だ。
だが、銃撃はそれだけではなく――腕の骨が弾けるほどの反動を伴って、落下にあった彼の体を上へと吹き飛ばした。
結果、地面に激突する直前で――アトリの体は急に減速し、そのまま彼は難なく地面へと降り立つ。
「器用なことするわね……流石の私も、ちょっとびっくり?」
雑技団の軽業師のようなその芸当に、軽く眼を見開いて拍手を送るトト。
だが、そんな彼女の足元が、靴裏の形に陥没しているのをアトリは見逃さない。
何の制動もかけず、階段の段差でも飛ばすような様子で――あの高さから降り立ったのか。
「あはは、まあ私だもの」
彼のその視線に気付き、ばつが悪そうに笑ってみせるトト。
答えになっていない答えを返しているにも拘らず、その言葉には戦慄してしまうほどの説得力がある。
例えどれほどの危機的な状況に放り込まれても、全く自身のペースを崩すことの無い二人。
だがそれは、決して油断しているわけでも――状況を理解していないという訳でも無かった。
「……随分と静かだな」
「大体予想してたけど、やっぱり人払いぐらいはしてたみたいね。
内側にいるから詳しくは判らないけど、大方――大気を歪めて、この宿周辺の映像や音を遮断してるんじゃないかしら?
 加えて、結界を認識した時、その認識が意識の優先順位から限りなく下がる様に手を打てば、普通は入り込めなくなると思うわ」
漂う静寂は当たり一体を重たく包み、人の気配がまるで感じられない。
だがここにはまだ、宿を倒壊させたあの烈風を孕む斬撃を発生させていた何者かが残っている。
幾度と無く潜った生と死の狭間、刃の様に研ぎ澄まされた己自身の直感に従い。
死へと至る一撃の予兆、僅かな変化さえ逃さぬとばかりに――意識を集中させて――


地面に散らばった材木が、場違いなほど派手な音を立てて鳴り響いたのはその時だった。

ゆっくりと振り返る、四つの瞳。
その先で、建物の影から半身を出していたのは一人の男。
アトリほどではないが、成人男性としては充分に高い身長に加え、程好く引き締まった肉体。
逆立てた髪の下、微かな変化さえ逃さないとばかりに鋭く輝く瞳には、それでいて同時に人の良さそうな輝きもまた伺える。
だが、黙って腕でも組んでいれば『伊達男』で十分通じるその顔に張り付いているのは――『しまった』の四文字。
奇妙な体勢のまま立ち尽くした彼の足元に転がっていたのは、建築に使う四角い木材。
恐らく、先刻の音の正体はこれが散乱した音――縫いとめられた様に止まった彼の体勢から察するに、不注意から蹴ってしまったのだろう。

気まずい。
果てしなく気まずい雰囲気が、一帯を支配している。

意識を引き締め、如何なる状況の変化にも即座に対応せんとした直後、この展開。
こういった感想を自分が抱くのはおかしいと判っていながらも、空気の読めていない粗相に男は半ば泣きそうになる。
見つめ返してくる銀と黒の瞳は何も言わない。
何も反応を返さないという態度そのものが、千の糾弾よりも男の心をじりじりと追い詰めていく――

二人の視線に、耐え切る事が出来ずに。

「――こ、こんな所で出会うのも何かの縁! 奥さん、宜しかったら新聞取って戴けませんか!?」
勢いよく物陰から飛び出すや否やぱんぱんと胸元で両手を叩き、場の空気を強引に仕切り直す。
口から不意に飛び出した言葉は――よりによって、新聞の勧誘員が使うお馴染みの台詞だった。
何でよりによってこの台詞なんだと百度百篇自問自答したところで、もう遅い。
一度口に出してしまった以上は、この方向で無理矢理押し通すより他に無い――極めて無駄な方向に覚悟を定めた男。
だが彼が驚愕したのは、無茶がありすぎると他ならぬ本人が感じていた彼の言葉に、真面目な表情で乗ってきたトトの態度であろう。
『奥さん』と呼ばれた瞬間から、彼女は何故か少し機嫌が良いようだった。
「んー……ただそう言われても、少しばかり魅力に欠けるというか、他の紙でも構わないというかねぇ」
「あ、も、勿論当紙はその点も充実しております!
 今ならご契約戴いたお客様には、アビドス・グランドホテルの無料宿泊&食事券がもれなくついてきます」
アビドスとは、北方有数の大都市――街の名を冠するだけあり、この宿ほどではないがその格式は高い。
だが、トトが反応を示したのは間違いなく『無料食事券』の方であろう。
もし彼女に犬の尻尾が生えていたなら、この瞬間ぱたぱたとせわしなく動いていたに違いない。
そしてそんな彼女の様子に、男はこの場を上手く誤魔化すことが出来ると―― 一筋の光明を見出す。
ほっと心の中で安堵の息をつくと同時、詰めの一手を打たんとばかりに彼は口を開――
「――でも貴方、どう見ても勧誘員さんには見えないわよね?」
「うぐ……」
――開こうとして、トトの一言であっさりと撃墜される。
「どちらかっていうと、その首から提げた写真機カメラといい、勧誘の人よりは記者さんの方に見えるんだけど?」
所業は無常。
一転して、再び窮地へと追いやられてしまった男。
しかも先刻とは違い、流れが自然であるが故に彼女の関心を脇へと逸らす手段が無い。
本当の事を話してしまうか、この場は上手く誤魔化すか――差し迫る選択に対し、ほんの僅かに抱いてしまった逡巡。
その瞬間、乾いた空気に響いたのは、力強さを感じさせる重い作動音。
アトリの手の中で白銀に輝く、魔術師狩りの魔女『イシス』――弾丸が再装填され、その銃口が捉えるのは――
「ま、ままままっままま待て待て待て待て!? お、おち、落ち着いて話を聞いてくれ――怪しいものじゃないんだ俺は!」
銃口を向けられて狼狽していることを差し引いたとしても、男がこの場にいることは怪しい以外の何者でもない。
この一帯には結界が張られ、無関係の者が立ち入ることは出来なくなっているのだ。
にも拘らず、この中にいるという事は。
彼の、正体は――
「ほ――ほほ本当だって! な、何だったらその眼で確かめてくれ! 俺の階位は“サブア”、名前は――」
天を掴まんとばかりに両手を掲げて無抵抗の意を表わすと同時、自らを証明するための構成を編みながら、男は上ずった悲鳴を上げて――
「出て来い。命までは取らん――だがその場に留まり続けるなら話は別だぞ」
「……へ?」
そこで、男はようやく。
アトリの銃口が、自分を狙っていたのではないことに気がついた。
両腕を空へと上げた間抜けな体勢のまま、自分越しに向けられていた銃口が狙う先を、するすると眼で追いかける。
虚ろな闇が見据えるのは――建物と建物の間に生まれた、細い路地裏の一角。
夜の闇が蟠り、奥の見えないその先から、やがてその姿を表わしたのは。

引き攣った顔に銃口への恐怖を浮かべ、今にも泣きそうな様子の――エプロンドレスの少女だった。




――それから十分後。
先刻の襲撃者とは違い、敵意をまるで感じない男と少女。
トト主導の元、二人が何故この現場に何故居合わせたのか――事情を伺う事とした。
あの烈風を巻き起こした切り裂き魔リッパーがまだここに居る可能性は十二分に考えられたが、
元々目撃者をゼロにすべく、これだけ手の込んだ真似をしてきた相手が、何の考えも無く二人を放置していたとは思えない。
ならば、無理に二人を結界の外に出して『目撃者』へと変えるよりも、この場で自分達が共にいたほうが安全だと判断した結果だった。
「へぇ……本当に新聞記者だったのね。でも魔術師なのに記者なんて、随分と珍しい」
「それ、結構よく言われます。――でもま、昔っからなりたかった職業だったんでね」
トトの言葉に気を悪くした様子も無く、にっと笑みを浮かべる男。
その笑顔には妙に人懐っこく、記者という立場にありながら、何処か憎めない雰囲気を醸し出していた。

新聞とは、魔術師の支配からの解放運動の最中に生まれた、人間達だけの独特な文化である。
かつて魔術師達によって管理運営されていた人間達には、『世間』という感覚で物を見る余裕など無かった。
そもそも『文字』という媒体すら存在しなかったのだから、新聞のような情報媒体が生まれ出る可能性自体が無かったとも言える。
しかし――僅かながらも文字と文化を得て、自分達というものを見つめるだけの意識が芽生える様になり。
魔術師達から、自分達の権利をその手に掴み取ろうと戦いを仕掛けるに至った時。
『銃』や『ペネトレイター』は、確かに魔術師にとって有効な駒ではあるが、覆るのは所詮局地戦レベルでの話のみ。
魔術師という『組織』と戦うには、世界中の人間達が互いに情報を交換し、各地の動向や事件・情勢を把握した上での密な連携が不可欠だったのだ。
そこで生まれたのが『新聞』――紙に文字を刻み、誰でも一様に世界の動きを把握することの出来るようにした総合情報媒体である。
それは、魔術を用いれば自在に世界の動向を知ることが出来る魔術師達には思いつかない、人間だからこそ思いついた文化。
そして新聞の存在は、戦いが進むにつれ、ただ単に世界情勢を各地へ伝えるだけのものでは無くなっていた。
次々に伝えられる各地の勝利の報道は、人間達の戦意を昂揚させ、死力で戦う彼らに勇気を与え続けた。
新聞の存在が無かったならば、果たして人間達は魔術師に最後の最後まで膝を折る事無く、戦い続けることが出来ただろうか――

そして、現代においてもペネトレイターという存在がまだ残っているように。
新聞という文化も、現代の需要に合わせてその姿を変えながら、今も世界の様々な出来事を人々の下へ伝える役割を果たしている。

「色んな人から話を聞いて、足で稼いで……真実を得るために世界を駆ける。
 魔術師としちゃ、随分アナクロな考え方かも知れませんけど――憧れだったもんですから。
 家も名を継がなきゃなんないほど名家でも無いし、今は世界を転々と流れながらフリーで特ダネを探してるってワケですよ」
「なるほど……確かに、昔の魔術師からは考えられない選択肢よね」
人間の治安を護るための保安官に、魔術師達が名乗りを上げ。
また、彼のような魔術師が生まれる世界は――確かに昔と全く異なるといっても過言ではないだろう。
「――で、その流れの新聞記者さんは、どうしてこの場にいたのかしらね?」
「ぐ……ええっと、えと……その――」
「……あら。ひょっとして言えないのかしら?」
「…………ううっ……取材対象に先にこういうのがバレるのは、記者としては情けないんだけどなぁ……」
がっくりと肩を落とす、若き新聞記者。
だが、ここで言い淀むことがどういった事態をその身に招くか、その身に刻んだ数々の経験はよく知っていた。
故に顔を上げた時、鋭い瞳は真っ直ぐにトトと向き合い――包み隠さず白状する。
「……ここを通りかかった時、結界が張ってあることに気付きましてね。
 昼間の一件は耳にしてた――『双隻眼』は、まだこの街に居る。
 ならきっと、この結界の向こう側に感じた特ダネの匂いは勘違いじゃないと思って――張り込んだ次第で」
新聞は今や、単なる情報収集の媒体ではなく、娯楽性を求める需要も増えてきている。
その中でも最も注目を集め、売り上げを大きく左右するのは――やはりペネトレイターの活躍について。
それがもし、世界的に有名な『双隻眼』のものであれば、たった一つの記事であっても売り上げを大きく変える重要な一手。
どの新聞社も新聞記者も、喉から手が出るほどに欲しい特ダネ中の特ダネに違いない。
「って……待って? 貴方、この結界に“気付いた”って言ったわね?」
トトの瞳を過ぎったのは、軽い驚き――そして僅かばかりの不信感。
確かに記者は記者でも、彼のように魔術師ならば、結界の存在に気付くことも不可能ではない。
だがそれはあくまでも、張られた結界の魔術の階位を上回る階位を持つ魔術師であればの話である。
目の前の記者は、階位“サブア”と名乗った――この世の全ての魔術師の、実に七割以上が属している“サブア”の階位。
サブア”が結界の存在に気付けるような低い階位の結界ならば、人払いにはまるで役立たないはずである――
「ああ……結界は多分、“ハムサ”のモンだったと思います。俺がそれを見れたのは、一重にこいつのおかげですよ」
疑問に思われることを、予め予想していたのか。
彼は淀む事無くそう呟くと、羽織っていた皮のジャンパーの胸元をめくってみせた。
そこにあったのは、親指の先ほどの大きさの――金属製の小さなバッジ。
鳥の形を模したそのバッジは、まるで夜の闇からくり貫いて作ったように黒い――
「こいつは、張られている結界やら障壁やら……そういった類の魔術に反応して、それが何処にあるのかを教えてくれましてね。
 誰にも気付かれないように張られた結界――それは裏を返せば、中では気付かれるとまずい秘め事が行なわれてるって事。
 この規模で展開された結界なら、まさか身分違いの逢引っていうような話でも無いと思いますし」
もし逢引でも、それはそれで、時と場合と相手によっちゃ記事にはなりますけど――と締め、男は笑う。
彼のその様子から、トトはこの記者が、自分を疑われることや、命を境界線上で駆け引きするようなやりとりに慣れているのだと理解する。
でなければこの局面で、一体どの顔が笑顔など作ることが出来るというのであろう。
この笑顔は、自分の確固たる信念の元に生き、自分の生き方に誇りをもっている者だけが浮かべられるもの。
まだ歳若く、これから伸びていく若者なのだろうが――彼は間違いなく、偽りの無い『プロフェッショナル』。

トトの口元に、ふっと安堵の笑みが浮かぶ。

「そう……それにしても、このバッジの付与魔術はいいわね」
「……? 判るんですか、そんなのって」
『北の魔女』の正体を知らない彼には、トトの“スィフル”としての実力を伺い知ることは出来ない。
確かに彼女の知識をもってすれば、施術された後の付与魔術を見ただけでその構築の様が手に取るように判るのも事実だ。
しかしトトが指摘したのは、そういった専門的な部分からのものではなく。
「だって、この構成――貴方への“愛”が、たっぷり詰まっているじゃない♪」
「ぶ!?」
トトのその物言いに、思わず吹き出す記者。
唾でも飲み込んでいた最中だったのか、気管に入ったらしく――
その場で激しく咳き込んだ後、うっすらと涙さえ浮かべて彼はトトを見返す。
「この付与魔術はね? ――ざっと見ただけでも、随分と沢山の条件が書き加えられてるのよ。
 付与魔術はこうやって条件を加えて明確にすると、その汎用性を失う代わり――効力を上げることが出来るんだけど」
「? ……そうなんですか?」
「同じ付与魔術に『至宝』があるでしょう? あれと理屈は同じ――持ち主を選ぶ代わり、一点特化した力を発揮できるようになるわ」
何も知らない記者にさらりと言ってのけるトトだが、実はそれはまだ、現代の魔術学において解明されていない部分である。
元々、汎用性を求めて生み出された付与魔術――その使用者を限定するという発想そのものが、付与魔術の在り方から大きく逸脱しているのだから。
「その点で言えば、このバッジに込められた構成は大したものだわ。
 これはまるで――貴方の事を思って、貴方のためだけに歌われた一つの『歌』。
 それは逆に言えば、それだけあなたの事を知ってる人が作ったって事よね?
 それもこれだけ貴方を判っているのなら―― 決して一方通行じゃない関係で。私の予想、間違っているかしら?」
「…………そりゃ、違わない……ですけど……」
真っ赤になって顔を背け、もごもごと口ごもりながらも――肯定する記者。
そんな若者の姿に、ふわりと広がるトトの微笑。
こういった様子を見ていると、彼女が外見よりも遥かに年月を重ねてきているというのがよく判る――
もっとも、ただ単に記者が、彼女の様な女性に頭が上がらないだけだということも十二分に考えられるが。
「ふふ……♪ まあ、貴方の事情は大体判ったわ――で」
トトはその視線を、記者から少女へと移して。

「お嬢さん……貴女はどうして、あそこにいたの?」

決して強くは無い言葉、穏やかな微笑み。
だが、心が極度に張り詰めた少女は――そんなトトの様子にさえ、びくりと肩を震わせていた。

限りなく黒に近い、紺色のエプロンドレス。
いわゆる使用人メイドと呼ばれる格好――まだ十代半ばにしか見えない少女だが、格好はしっかり板についている。
首に嵌めた小さなチョーカーには、紋の刻まれたレリーフ――形は一度も見たことが無いが、名のある家のものであるのは間違いない。
ショートカットにした栗色の髪の下、小作りな顔は人形の様に愛らしいものだが――その大きな瞳に湛えているのは、目一杯の恐怖。
「わ……私、だんっ、旦那様に、言われ、言われて……お買いも、の……宿の、外、に……出て……出たんです……」
まだ女性としてのふくらみの薄い白く細い腕。
それで体を抱えるように――トトの視線から逃れようと身を捩じらせ、唇を噛む。
少女の言葉は吃音が酷く、瞳は焦点が定まっていない。
触れればそこから崩れてしまいそうなほど脆く、心への過負荷でいつ意識が落ちてもおかしく無い様子。
それでも、震える舌で必死に言葉を紡ぐのは――トトに尋ねられたから。
彼女に話すことがどういう事になるのか、それを考えるだけの心の余裕が彼女には無い。
外部からの刺激に対して自らの考えを挟むことさえ出来ないほど、彼女の意識は不安定に揺らいでいた。
「お買いもの、して……戻、戻ったら……乱暴そうな男の人たちが、宿に押しかけてて……。
 ボ、ボーイさんとか……血……血の匂いがして、怖くてわた、私隠れて……あそこに、隠れました……」
――つまり。
彼女は宿に戻ろうとしたところで、偶然にも襲撃者達と遭遇し――ずっとあの場に身を潜めていた。
その合間に、恐らくは人払いの結界が展開され、結果として彼女はただ一人の生存者として、この場に取り残されることになったのだ。
「そしたら、宿が爆発して、切れて……ひ、人が、ばらばらになって…… わ、私怖くて、怖い――!!」
絶叫したかったのだろう。
涙を流したかったのだろう。
だが、限界まで張り詰めた心は――彼女にただ、苦痛を強いる。
あまりに衝撃的な光景を何度も見せられ、心の限界を超えた感情のうねりが――張り裂けることも出来ず、心を苛む――
「……そう……うん、よく判ったわ、お嬢さん」
そんな彼女に、その場でしゃがみ込んで。
同じ眼の高さで、優しく包み込むように――黒曜石の双眸が、恐怖に震える彼女を映す。
「怖かったかもしれないけれど――貴女は生きてる。生きているの。
 魔術師協会に保護を求めれば、誰に脅かされることも無く貴女を護ってくれる」
ふわりと――震える彼女を、壊さないように。
「よく頑張ったわね……大丈夫。貴女は生きてる、生きてるわ……」
抱きしめた腕の中。
呆然と立ち尽くしていた少女は――やがてトトの胸の中で、堰を切ったように泣いた。
涙で服が汚れることも構わず、彼女はそっと髪を梳き――そのまま、首だけをアトリの方へと傾けて。
「……どうするの? まさか二人とも巻き込むわけにもいかないでしょ、これ」
「ああ」
銃をホルスターに仕舞い、壁に背を預けた姿でアトリは頷く。
今までのやりとりを黙って見つめていた彼からは、最早猛々しく冷たい戦意は微塵も感じられなかった。
「協会で俺の名を出せば、無条件に保護が受けられる。良くも悪くも慣れ事だからな。
 この一件とは別口に、そっちの新聞記者にはもう二・三聞きたいこともあるが――」
銀の瞳に見つめられ、ばつが悪そうに肩を縮める記者だったが――アトリは軽く首を振ると。

「その前に、一つ済ませておくことがある」

「――へ?」
拍子抜けな声を上げたのは記者だったが、アトリの言葉に驚いたのは彼だけではない。
トトもそうだし、泣いて少し落ち着いたのか――彼女から離れたメイドの少女もアトリの姿を見上げていた。
六つの瞳が集中する中、彼は体を預けていた壁からそっと離れて。

「そう不思議がるな。大したことでは無い――」

手馴れた、自然な動きで――自身の腰へと手を滑らせ。

「すぐに終わる」

重たい動作音と共に滑る遊底。
距離を詰め、手にした重たい鋼の塊を――とん、と。

少女の着ていた、白いエプロンへ押し当てた。

全員が、唖然とする中。
銃身の様に冷たく、揺るぎの無い鋼の言葉で。

「動くな、切り裂き魔リッパー――そのはらわた、撒き散らしたくないならな」