No.03-EX02 Alfail story Episode Penetrater

双隻眼のアトリ・イスカ


第二十五話 脱出



肌に感じたのは、風。
先刻宿を両断した烈風とは、全く質の異なる――穏やかな微風。
穏やかながらも、陽が落ちたために刺すような冷たさを含み、銀と黒の髪を弄って背中へと吹き抜けていく。
瞳に映るのは、景色。
静けさと活気を両方湛えた、一大観光都市・メンフィスの夜景。
宿が崩落した衝撃で粉塵が舞い散るものの、街の全てを揺るがすには、それはあまりに小さな出来事に過ぎない。
風も夜景も、互いに共通するのは穏やかな『常』。

ただ、それが今の状況で目の前に広がり、肌で感じられるという事が何よりの『非常』であるのだが。

「トト」
何らかの手段で『両断』された宿――その断面は鉋でもかけたように滑らかだった。
それは、あの烈風を伴った不思議な現象が恐ろしく鋭利なものであったということの証だろう。
さながら、達人の領域へと達した武芸者が刃で見せる、何の迷いもない一閃。
ただ、旅芸人の一座で見られるようなそれとは、印象は似ていてもその規模が比べるべくもなく違っている。
一体何を用いれば、このような現象が起こるのか想像も付かない――大胆不敵な『斬撃』だった。
「こういった、常軌を逸した光景を作り出せる奴というのを――俺は記憶に残している限り、一人しか知らないんだが」
アトリのその言葉は予見していたのか――トトは軽く肩をすくめるようなポーズと共に、
「あら、私じゃないわよ? ――多分」
「多分なのか」
「想像の余地を残してこその楽しみじゃない? 人生って」
「なるほど」
何故か不敵に微笑んだトトに、しっかりと頷きを返すアトリ。
どこまでも現状を理解していない様な会話だというのに、ずれたところでかっちりと噛み合っている。
「まあ、どちらにせよ――今は」
まるで示し合わせたかのように、二人は同時に立ち上がって。

「――走れ――!!」

その言葉と同時、全力で横跳びに駆け出した瞬間。
足元を舐めるように吹き抜けた烈風が、床板の一部を薄くスライスして流れ落ちていった――




「――アトリ! 確認しておきたいんだけど――何も『見えて』ないのよね!?」
古めかしい三角帽子を手で抑え、走る足は緩めず。
殆ど怒鳴りつけるような大声で、併走するアトリへと話しかける。
その様子も勢いも、長躯に似合わず相当の健脚で駆け抜けるアトリと比べても全く遅れを感じさせない。
銀と黒――二つの流れは矢のような速度で廊下を駆け抜け、すぐ背後で吹き荒れる斬撃の烈風を紙一重で躱し続ける。
「何も見えん――これでも一応、注意して外は眺めているが――なッ!」
最後の語尾を跳ね上げるようにして叫んだ次の瞬間、アトリの体は実際に宙を跳ね飛んでいる。
そしてその跳躍に遅れること一瞬、背中を撫ぜる様にして吹き抜けた烈風が宿を縦に両断し・・・・・、床に深く深く溝を穿っていた。
そのまま先刻トトが一息に破壊した階段の辺りまで駆け寄り、駆け下りていく。
だが、この現象を起こしている相手は――こちらの位置が正確に判っているものらしい。
まるでこちら側の背の皮を剥ぐかのように、紙一重の位置に連続して斬撃が抜け、階段を細切れに『裁断』していく。
この悪夢のような現象の連続を前に、逃げる二人には具体的な解決策も対抗手段も無く――状況はまるで改善される様子が無かったが。
しかしそれでも、『双隻眼』『北の魔女』と称される彼らはただ逃げていたわけではなかった。
ほんの僅かばかりの間で――連続する現象から得られた情報を限界まで解析し、その特徴をはっきりと把握していた。

まず、大前提として。
この現象は――魔術ではなかった・・・・・・・・
鋭く視線を巡らせるアトリの眼には、まるで波紋が映り込まず。
それをわざわざ確認しているトトもまた、魔術の存在を確認することが出来ないでいるのが主たる理由である。
眼という感覚器・視覚で魔術の存在を把握しているアトリはまだしも、こと魔術においてトトを欺くのは『不可能』。
唯一つの例外があるとすれば、識り込みから展開までの行程――存在自体が完全に独立した付与魔術による仕業という可能性だが、
これだけ大規模かつ精密な狙いをつけた現象を魔術で再現するには、相当高位の構成が必要とされる。
現代の魔術知識に基づいた付与魔術の成り立ちを考えれば、再現することが不可能なほど――高位の、構成が。
至宝ともなれば、また話は別となるが――もしこれを引き起こしているのが至宝であれば、トトにはそれが『判る』。
かつては自身の一部であったその存在を、トトは魔術的な感覚とは全く異なる部分で『知覚』することが出来るのである。
だが、トトはここに至って至宝の存在を感じてはいなかった――故にこの現象が魔術とは全く無縁のものであることが判る。

その次に判っていることは、この斬撃の効果圏内が、この宿だけにに限定されているということ。
初見の両断――それに伴う崩落によって、宿周辺の建物は無残に瓦礫と化してしまっている。
だが冷静に考えれば、それよりも先――この宿が両断された時、同じ高さに存在した周辺の建物全てが薙がれているはずである。
にも拘らず、両断され、崩落を起こしたのはこの宿だけしかなく――今二人を追い立てている斬撃もやはり、周囲にその影響が出ていない。
この不自然な現象は、恐らく宿を囲むようにして結界か何かが展開され、斬撃がその外に影響を及ぼすのを食い止めているのだろう。
相変わらず魔術の気配は感じないが、こういった結界であれば比較的低い階位の付与魔術であっても展開することが出来る。
少なくとも、正体のまるで予測できないこの『斬撃』よりは遥かに現実的な現象であると考えてもいい。

そして、風の吹きぬける方向と角度が一定であるということ。
それは即ち、この斬撃が外の一点から連続して撃ち込まれていることを明確に伝えている。
これらの情報を総合するに――即ち、一見追い詰められている現在の状況も。
この現象の範囲を限定している結界の『外』へと逃げ込めば、少なくともこれ以上悪化させずには済むということが導き出せた。
懸念は宿の周りに張られた結界の存在がその脱出を阻むことであったが、夜景が見えるという事は光を遮断していないということ。
轟音が響いたのであれば音も遮断されてはいなく、また斬撃を受け止めている部分に揺らぎのようなものも発生していない。
ならば恐らく、この結界には物理的な硬度は無く――人の出入りを遮断するような力は備えていない。
そうと決まれば、後は――結界の外へと逃げられる場所へ、全力で駆け抜けていくだけである。


「次だ――廊下の突き当りまで走ったところで――外へと飛ぶぞ!」
「了解了解――っと!!」
階段の半分以上を踏む事無く飛び降り、着地と同時に廊下へと身を投げ出す――風が吹きぬけたのは、縦。
残されていた階段が纏めて両断されて崩壊し、区画そのものが完全に使い物にならなくなる。
続いて、階段を両断した一閃に垂直に交錯する形で吹き抜けた風が、不気味な唸りで鼓膜に揺らし、頭上を掠めて過ぎ去っていく。
その斬撃は、まるで存在が錯覚であったかのように――宿に何の変化も齎さなかったが。
あくまでもそれは、地面と水平の両断であったからこその結果であり。
実際にはこの階の壁が上の階同様、真横に両断されてしまっていることを、二人は言葉を交わさずにそれぞれで確信する。
そして――その十字で仕留められなかった事が判っているのか、身を起こしたアトリ達の背後へ次々に迫る烈風。
細切れに破壊されていく建物を背後に、休む間もなく廊下を一気に駆け抜ける。
連続する紙一重の刹那――走り、屈み、時には跳躍しながら、嵐のように吹き荒れる斬撃を躱し続ける二人。
だが、一見すれば危ういかのように見えながらも、この調子でいけば無事に対岸へと辿り着けそうな余裕がある。
――だが、順調に回避し続けているはずのその最中。
アトリの脳裏に、一つの考えが過ぎっていったのはその瞬間だった。

――おかしい。上手く、行き過ぎてはいないだろうか――

それは単なる疑心難儀――状況を冷静に判断して、『考えすぎ』の一言で片付けられるほど根拠の無いものだったのかもしれない。
たがアトリは一度浮かんだその考えを、少し視点を変えてみることでもう一度捉え直してみる。

――自分が逆の立場だった時、このまま無策に相手が逃げるのを追いかけ続けるだろうか――

その答えは否。
もしアトリがこの現象を起こせる立場にあり、この状況で逃げる相手を仕留める立場にあるならば。
第一には、この斬撃の情報を全く知らない状況――即ち初撃で確実に仕留めようと試みる。
そして、それが今の状況のように躱されてしまったならば。
例えこの現象の存在を知っていても、それに対して何の対抗策も持ち得ない状況に追い込んで――仕留める。
この状況に対して、逃げる側が対抗することの出来る手段とは一体何か?
考えられるのは、今自分達が行なっていることと同じ――斬撃の効果圏内からの離脱。

それは、間違いなく仕掛ける側にも予測のつく方法だろう。
それが分かっているので在れば――


――アトリの思考が、一つの結論へと達した時。
吹き抜けた風は、アトリ達の後ろではなく――前。
まるでこちらを嘲笑うかのような唸りにワンテンポ遅れて、ずるりと滑る目の前の廊下の様子に。
自身の考えが正しかったことを察し、アトリの舌打ちが重なる。
腹立たしいほどに、予感は当っていた。
今までずっと躱し続けてきた斬撃は、最初からこちらを仕留めるつもりなど欠片も無かった。
あれは必殺のための斬撃ではなく、追い立て、そして追い込むために仕掛けられていたもの。
廊下の中心、建物の中心にして――障壁から最も遠い『結界の中心』。
斬撃を回避することが絶対不可能な場所へと自分達を誘い込む事こそが、今までの斬撃達の本当の意義。

最早廊下は両断された後であったが、アトリの行動に迷いは無く――さらにその足を加速させる。
廊下が完全に崩壊するよりも早く対岸へと辿り着き、跳躍すればまだ間に合う。
危険を伴う決断だったが、この場に留まっていれば相手の術中に嵌ってしまうのは確実だ。
そしてその術が『必殺』のものである以上、これ以外の選択肢などはじめから存在しているわけも無かった。
決断を伴った行動は、しかしアトリだけのものであり――結果、僅かばかりトトは彼に出遅れる形となる。
先行するような形で一歩先に進み、彼がそのことに気がついた瞬間。

飛来する、総毛立つほどの本能的な危機感。
そしてそれに反応を示すのは、理性による思考ではなく――本能に突き動かされた反射の行動。

一切の躊躇い無く全力で跳躍した体は、危険を感じた帯域からの完全な離脱に成功している。
だが、体を支配する存在が本能から理性へと入れ替わり、彼の体を思考が支配した時。
自分自身の行動を否定するかのような、強烈な踏み込み。
既にその身は崩壊した廊下に在る――不安定に揺らいだ床を踏みしめ、着地の反動を利用して振り返るなり、手を伸ばしたのは後方へ――
「――トト――!!」
自身より僅かに遅れ、領域へと足を踏み入れた彼女へ向けて全力で手を伸ばす。
それに応じようと伸ばされた白い腕――先んじて、ふわりと広がった黒髪が、彼の手へと触れて。
だが、それを掴むよりも僅かに早く。

烈風が、二人の間で吹き抜けた。

最初、何が起こったのかを。
アトリは視認しても、頭の中で理路整然とした現実として理解することが出来なかった。
判っていたのは、目の前にあったはずの彼女の手――掴めている筈の手が、掴めなかった(・・・・・・)ということ。
ぷつりと、張りを失ったように――黒髪が、伸ばした腕の先で力なく垂れる。
複雑に切り裂かれた建物は自重に耐え切れず、瓦礫となって崩壊していく中で。
今までと違い、連続して叩きつけられた風に次々と寸断される瓦礫、そしてそれに混じって分断される人のパーツ(・・・・・)と紅(・)――
その光景を、眼を丸く見開いたまま見つめて――アトリは腕を伸ばし、完全に硬直していた。
状況から言えば、そんな悠長なことをしている場合ではない――今すぐ身を翻し、崩落する廊下の対岸へと走らなくてはならない。
だが、その警鐘さえどこか他人事に思うほどに、彼は呆然とその場に立ち尽くしていた。

手が届かなかったことを悔やんでいたわけでも、憤っていたわけでもない。
彼が果たしてその感情を励起するに至ったかどうかもそもそも判らない。
何故ならそれを認識するよりも早く、彼の思考を完全に支配していたのは純粋な『驚愕』だったからだ。

有り得ないものを見た。
こんな事が、こんなにもあっさりと起こりうるなど――完全に想像の外でしかなかった。
故に驚愕。
だがいずれは、それを現実として認識せねばならない情報の爆弾。

それが何を示すのか。
それが、何を意味するのか。
そして、彼がそれを現実として認識した時。
果たして、一番最初に浮かべる感情は――何だったのだろうか。

――が。
残念ながら、それを知る機会は――永遠に訪れることは無かった。

「――あー、危ないところだった」

凍てついた空気を場違いなほど能天気に振るわせた言葉と共に、アトリの手の辺りに絡まっていた黒髪が押し開かれる・・・・・・
次の瞬間にはそこからするりと、卑怯なぐらい普段通りにアトリの前に降り立ったトトの姿。
「……何をぼうっとしてるの?」
純粋に不思議そうに尋ねてくる彼女。
その体には毛筋ほどの傷跡も無く、目の前で烈風に解体された人体は、よく見れば先刻打ち倒した襲撃者のうちの一人。
「………………まあ、何があってもお前はお前、か」
殆ど無意識で呟いていた一言に、トトの眉間に疑問符が浮かぶ。
しかし、次の瞬間――不安定に揺らぐ足元に、自身が置かれている状況をようやく思い出し。

切り裂かれて崩壊していく廊下を、対岸へと向け全力で駆け抜けていく。


「アトリ――障害物競走ってあるじゃない!?」
一秒ごとに崩落していく瓦礫は、最早見て回避していては間に合わない。
殆ど運を天に任せるような速度で走り抜け、飛び越え――滑り込む。
「それはその競技種目の存在を知っているかについて聞いているのか、存在そのものを問うているのかのどっちだ!」
一秒油断すれば、即・死に繋がる極限の状況。
「前者! 学校の運動会とかで、小さな子とかが競争してるの――あれ、前から一度やってみたかったの!」
「それは随分な人生だな――もっとも俺も、学校とやらに通ったこと自体が無いが!」
だが、その状況下にありながら――二人の会話は相変わらず、第三者からすればまるで明後日の方向に向けて爆走していた。
そもそもこの状態で雑談に興じることが出来るという時点で、彼らの神経は鋼綱ワイヤ・ロープか何かの特別製であるに違い無い。
「ちょっと楽しいわね――競争にはならないけど、自分の足だけで立ち向かうっていう辺りが風情があるじゃない!?」
目の前にあった、大きな瓦礫を、跳び箱の要領で軽く飛び越え――楽しげにトトは叫ぶ。
この状況さえ、彼女達にとっては単なる『障害物競走』に過ぎず。
「後は、話に聞く『鬼ごっこ』よね――ルールしか知らないから気になって気になって!」
「それにはまず、人数を集める必要があるだろうがな!!」
目の前に残っていた壁を、一つ繋がりで聞こえるほどの銃声が撃ち砕き。
「――ありがと、アトリ!」
「何がだ!」
続く黒の豪砲が、欠片すら残さずその壁を粉砕して。

「だって、一緒にやってくれるんでしょう――その答えって!」

嬉しそうな言葉を、最後に――足並みを揃えて。

銀と黒が、夜の街へとその身を躍らせ。


僅か半瞬遅れ、残された宿に襲い掛かった斬撃の嵐は、文字通り欠片すら残さず建物を微塵に分解した。