No.03-EX02 Alfail story Episode Penetrater

双隻眼のアトリ・イスカ


第二十三話 carnival night



「い――いたたたた!?」
獰猛な、血と死の予兆を孕む空気――それを粉々に打ち砕くような情けない悲鳴が上がったのは、アトリの背後。
振り返ったそこに広がっていた光景は、髪の中に片手を突っ込んだまま、目の端に涙を浮かべたトトの姿だ。
よく見れば、手を突っ込んだ辺りから何かの柄が飛び出し――それが髪の毛と絡まり、鳥の巣のようになっている。
「うう……最近整理してなかったからかしら。絡まって引き抜けない……」
「……斧か? 戦槌……矛槍のような気もするが」
「ちょっとアトリ。私はこれでも『魔術師』よ? 何で口をついて出るのがそんな物騒な武器ばっかりなのよ」
「済まんな。社交辞令を口にしようと思ったが、相手がお前である以上は無理だった」
アトリの言葉を否定するトトもトトなら、本人に直接こんな事を言ってのけるアトリもアトリだ。
だがトトとて、伊達や酔狂で長い年月をその身に刻み、『北の魔女』として名を馳せてきたわけではない――
「そんなもの無くったって、拳一つあれば十分でしょ?」
彼女が呟くことで、この上なく説得力を秘めた言葉となったものの――この場で口にするべき言葉として適切なのだろうか。
この理屈で言えば、「魔術師=拳で全て解決する人」という定義になってしまう。
最も、トトはこの世界で最高の階位と実力を持つ魔術師――だとするなら魔術の本質とは、実は拳が全てを語るのかもしれない。
――この話題を追求すると非常に物悲しい結末へとたどり着きそうなため、今後の展開を円滑に進めるために目を逸らすこととする。
「これは武器じゃないわ――魔術師としての『杖』。大きな三角帽子と合わせて、魔女の定番アイテムでしょう?」
「否定はしないが、昨今の流行を見る限り――定番かどうかは判らなくなってきているがな」
「そ……そうなの?」
いかに二百年以上――封印されていたとはいえ、仮にも神々の書記官と同じ名を持つ魔術師の彼女。
そういった『基本』を押さえておきたい彼女としては、アトリの発言に言い知れぬ不安を感じ――思わず聞き返すが。
「……アトリ?」
返事が無いことに振り返ったときには――すっかり小さくなった彼の背中。
下の階から上がってくる襲撃者達を逆に迎え撃つため、ここでこれ以上話し込んでいる余裕は無いと判断したのだろうが。
「走り続ける背中を追うのだって、別に楽ってわけじゃないのよ……?」
聞いていないことは判っていても、思わず拗ねたように呟いてしまうトトであった。
――と、その時。
彼女のブーツの爪先に、硬いものが当った感触。
「……?」
視線を落とせば――先刻の一撃で、ベッドと壁に圧殺された襲撃者のすぐ側。
原型さえ留めていない遺体から染み出た、血溜まりの中に転がる白銀色の金属筒。
丁度、掌に収まる程度の大きさをした円筒の形に、どこかで見覚えがあったような気がして――その正体に思い当たった時。
拾い上げるより一瞬早く、吹き上がった白煙が瞬く間にあたりへ充満し――彼女から一瞬、視界を奪った。
「――今だぁぁぁっ!!」
その怒号の合図と共に――現れたのは。
アトリ達が泊まっていた部屋の隣に潜み、あるいは今、階段を駆け上ってきた襲撃者達。
彼らの胸元で、銀の弾丸が輝き――その手の中に握られていた拳銃達が、一斉に煙幕へと火を噴いた。
音さえも砕く速さで空気を引き裂き、煙幕を貫く様は正に『豪雨』。
全弾を撃ち尽くし、撃鉄が空しい金属音を響かせるまでに三十秒。
奇妙な静寂が漂う中、濃密な硝煙の香りと撃砲の残響音だけが一帯を支配する。
硝煙を吹く、己の相棒――依頼の達成を確信し、思わず微笑をその口元へと貼り付けたペネトレイター達だったが。
「――最初からこの子は、自分を捨石として使ってでもこの一瞬を作り出すつもりだったわけね」
全く翳りを見せない声の響きに、愕然と眼を見開くペネトレイター達の目の前で。
煙幕が晴れ行く中、うっすらと漂う影は――段々と長い黒髪を纏った、一人の女性へと像を結ぶ。
「多少の犠牲を払っても、全てはそれ以上の成果を得るため……それも『行動の最適化』。嫌いじゃないわよ? 判りやすくて」
あれだけ撃ち込まれたはずの銃弾は、何処へと消え去ったというのか。
その疑問に答えるつもりなど、最初から無く――トトはにっこりと笑顔を浮かべて。
「だから、貴方達には特別に――選択肢を与えてあげる」

瞬間、空気の流れが――変わる。

「この場で、痛い目を見るか」
眩暈を起こしそうなほどの波紋の波に、大気は鳴動し。
「それとも――もっと痛い目を見るかの、二つ」
その胸元で、軽く拳を合わせ――トトはぺろりと舌を出すと。
「さあ、好きなほうを選びなさい――なんてね」
茶目っ気たっぷりに、ウィンクをその場に残し――瞬間、『黒』が爆発した。




重厚な床板を踏み鳴らし、駆け上がってくる無数の靴音。
だが、その靴音が全てこちらへ向って駆け上がってきている事。
そして、重なる靴音の中に怒号と悲鳴が一つも無い事が――状況を、明白なほど伝えていた。
この宿には、自分達と襲撃者しか残っていない。
他の利用客や従業員は――誤情報を流して避難させたか、全員口を封じたか。
あるいは最初から、全てが計画されてのことだったのか――真実がどれかは判らないが。
最早事態が動いてしまっている現状において、そんなことを知ったところで何の意味も無いだろう。
ただ判っているのは、この不毛な騒ぎに『巻き込まれた』者が―― 今は一人も居ないことだけ。

つまり。
手加減をする必要は――何処にも、無い。

廊下を一直線、銀流となって駆け抜け、角の階段へと差し掛かる。
足音は別に消していない――従って駆け上ってくる襲撃者達が、遭遇と同時に銃口を向けてくることは予想している。
だから、アトリは角を曲がる直前。
速度を落とす事無く、僅かに身を沈ませ――体の向きを変える反動を利用して。

跳んだ。

「な……!?」

2dcを超える長躯が銀の尾を残し、羽が生えたかのように宙を舞う。
その幻想的な光景の前に、襲撃者達は己が立場を忘れ、優美な放物線を描く跳躍をぽかんと目で追いかけた。
だが――彼らの頭上を越えたところで、ようやく事態にまともな判断力が追い付く。
銃を旋回させる襲撃者達と、双子の名を持つ鋼の牙を携え――宙で一転するアトリ。
全員の胸元で、銀の弾丸が激しく踊って。

床を踏みしめる重い響きと、腹の底から響くような鋼の咆哮が一度に重なる。

誰よりも速かったのは、着地と同時に発砲したアトリの大型拳銃。
吐き出された顎は、二人のペネトレイターの膝の裏へ喰らい付き、容易くその足を噛み千切って疾走する。
膝から下を吹き飛ばされ、衝撃に傾いだ襲撃者達の標準は、てんで見当違いの方向へと弾丸を吐き出し、空しく壁に跳ね返る。
ようやく脳髄へと至った痛覚に絶叫し、のた打ち回る彼らの頭に――貪欲な勢いで喰らいつく銃弾。
木っ端微塵に砕けた頭蓋の破片が宙を舞う中、事態の急転に思考の追いつかない一人の胸元へと祖点する銃口。
躊躇い無く、胴の左半分をごっそりと持っていった後――その亡骸を階下へと蹴り落として後続の追撃を阻むと同時、拾い上げた彼の拳銃。
それを持ち主に返してやるように放り投げ――天井で一度跳ね返り、後続達の頭上へ位置したところで銃爪を引く。
丈夫な作りで知られているはずの鋼の回転式リボルバー拳銃は――アトリの操る大型拳銃の前に飴細工の様に砕かれ、込めた弾薬が暴発した。
不意打ち気味の爆発に、ある者は目を焼かれ、またある者は顔を削る痛みに思わず銃を取り落とし――その動きが、停滞する。
その格好の機会を逃す理由は、アトリには無く。
金の瞳が炯炯と輝き――容赦無い弾丸の瀑布が、彼ら目掛けて叩き込まれた。

圧倒的な物量による力押し。
単純だが、それ故に手堅く、覆し難い戦術。
特に、この宿は屋内である以上――逃げ場はなく、真正面から相対する相手への対応が限られてくる。
彼らが襲い掛かった相手が彼でなかったなら、この大波のような圧倒的物量で押しつぶしてしまうことも可能だったかもしれない。
だが。
「ここに来ることを選択した時点で――お前達にはもう、選ぶべき選択肢が存在しない」
彼らの相対した男は、この状況で『守り』ではなく『攻め』の手を選択した。
それにより、確かに数のアドバンテージはそのまま彼らの『枷』に変わる――
迅速な行動が取りづらく、また味方に銃弾が当たる可能性を考慮すると援護を行なうことも難しい。
だが、それはあくまでも理想論でしかない。
理屈の上の話でしか、無いというのに――
「――受け入れろ、自分の結末を」
目の前に広がる死体の小山は、理想を現実へと変えた証明。
軽く呼気を吐き――階段に足を置く事無く、一気に下の階まで跳躍する。
補強されたブーツの裏が、深く床を軋ませて――近寄る荒い靴音に、二頭の鋼顎が旋回した。




「夜空はいいわね……」
天窓から零れ落ちる月の雫に目を細めながら、トトは呟く。
物憂げな横顔は笑っているようにも、泣いているようにも見えて――ただ、美しい。
「こうして、地上から眺める夜空もいいけれど……知ってるかしら? 雲の上で眺める、降りてきそうな星空を」
一つの完成された『美』が、空からこちらへとゆっくり視線を向ける。
どんな芸術家でさえ生み出すことの適わない、透き通るような輝きと生命の強さの――双方を宿した女性は。
月下に花咲く仙人掌のように、くすりと小さく微笑んで。
「――と、いうことで♪ トトさん大砲・発射十秒前――九、八、七」
そのまま、襟首を掴む手に力を込め、持ち上げる。
まるで子猫を摘み上げるように軽々と持ち上げられたのは、襲撃者だった男の一人。
見るも無残に敗れ、体に染み付いた恐怖に――最早抵抗する気力さえ無くし。
絶叫しようにも、喘ぐ呼吸が邪魔をする。
カウントダウンが進むたび、浸されていく絶望感。
彼女が何をするのか理解したくないのに、こんな時ばかり冷静に、事態を理解出来てしまう。
「や……やめ――」
だが彼が、拒絶の意思――いや、『懇願』を伝えるよりも早く。

「三、二――そぉぉぉぉぉぉ――れいッ!!」

鮮やかなフォームで射出された男は――女性のような裏返った悲鳴を尾に、天窓を突き破って夜空へ飛び立つ。
魔術も使わず空を飛んだ最初の人間としての偉業を、後に彼が語ることが出来るかどうかは運次第という所だろうか。
「これで一丁上がりっと」
ぱんぱんと軽く手を叩き、にっこりと笑顔を浮かべる。
その雰囲気はまるで、洗濯物を干し終えた新妻のような爽やかささえ感じさせたが。
くるりと振り返った、彼女の視界に映るものは――爽やかさとは全く無縁の、阿鼻叫喚の地獄絵図。
垂直に・・・伸び上がって天井に突き刺さった者。
水平に・・・着弾して壁に埋没した者。
あるいは、床に死屍累々と転がって呻く、襲撃者達の成れの果て――

アトリの銃撃が、あくまでも『銃』であるのに対し――トトの一撃は正に『砲』だった。
その繊手が閃くたび、尋常ならざる速度と重さを備えた衝撃が世界を震わせる。
この一撃の前に、ペネトレイターの豆鉄砲など如何ほどの力があるというのだろうか。

全ての銃を圧倒する――『黒の豪砲』

己の内に砲を宿した女性は、まだまだ階下から駆け上ってくる襲撃者達の姿に、思わず笑顔を綻ばせて。
「昼間の仕切りなおしも兼ねて――楽しませてもらうわよ?」
ぬらりとした輝きが一度、髪の根元から先端まで行き渡る。
その細い指先に絡め取られたのは、何かの柄――先刻の『杖』ではない。
「貴方も、ずっと遊びたそうにしてたし」
距離を置き、銃口をずらりと並べたペネトレイターたちを睥睨して――

「さあ、飛ばすわよ――『ドラッグ・スタァ』!!」

柄を引き抜くと同時、一陣の凶風と銃弾が――真正面からぶつかり合った――




そこで繰り広げられていたのは、祭だった。
交錯する視線、向かい合う銃口――迸る火線。
荒れ狂う鋼の顎達は肉を裂き、骨を砕き――外れたものは壁に跳ね飛び、複雑怪奇な軌道を描く。
最誰にも予想の付かない弾丸の暴風圏の只中で、この祭を制していたのは――唯一つの、銀の奔流。
白銀と漆黒の残影を残し、閃かせた相棒が怒号を放つたび、一人、また一人と祭の輪から弾き飛ばされ、命を失っていく。
その光景は、銀流以外の流れが消え去るまで永遠に続くかと思われたが――

終焉を告げたのは、五体の鬼――否、漆黒に染められた重甲冑を纏う巨漢達。

指先や面当てにさえ露出の無い彼らの姿は、銃が日進月歩に進化を遂げる現代において、前時代を通り越していっそ滑稽ですらある。
だが古い童話の中から抜け出てきたような彼らは、生ける伝説である『双隻眼』を目の前に、怯んだ様子はまるで無かった。
いつの間にか襲撃者達は甲冑の後ろへと後退し――自然、五体の甲冑と向き合う形になる銀の奔流――アトリ。
只ならぬ気配に空気が張り詰める中、先手を仕掛けてきたのは五体の重甲冑のうちの一人だった。
全身を厳しい鎧兜で覆っているとは思えないほどの速度で床を蹴り、一気にアトリとの間を詰めていく。
靴裏が床を叩くたび、地震の様に撓み、軋む様子から――彼らの甲冑が、外見に違わぬ重量を備えたものであることは判る。
恐らくは肉体の一部を接続コネクトなり改良化チューンナップなりで強化し、力で重さをねじ伏せてしまっているのだろう。
両腕を大きく広げ、アトリへ迫るその様子は――猛獣の突進を思わせ、とても食い止められるようなものには見えない。
だがアトリは、押し迫る巨躯の必殺の突進を目の前にしても全く恐怖した様子がなかった。
その代わりに最短の動きで相棒を構え、左胸へ向って銃爪を引き絞る。
人間の胴を吹き飛ばし、階位“サラーサ”の障壁を砕き――大型の合成獣でさえ一撃で死に至らしめる鋼の顎。
その桁外れの威力の前に、古めかしい重甲冑は簡単に引き裂かれ――鮮血を撒き散らし、沈む男の姿――

そうなるはずの、光景は。
まるで輪ゴムでも弾くかのように、甲冑が銃弾を弾き飛ばす光景によって――上塗りされてしまった。

驚愕に眼を見開くアトリ。
生まれた一瞬の隙を逃さず、丸太のように分厚い腕が旋回し――端整な顔へ向け、叩き込まれた。
その一撃を辛うじて躱す事が出来たのは、数え切れぬほど見慣れてきた生死の境界線を体が覚えていたからだ。
轟斧の一閃を思わせる不気味な唸りと共に空を切った腕は、だが風圧だけで、掠めた頬肉を浅く削り取る。
驚嘆すべき破壊力――だが、その大降りの動きは必殺の一撃と共に、致命的な隙も孕んでいた。
空振りして体勢を崩したその瞬間を、今度はアトリが逃さない。
脇、肘、腰――その何れも、重甲冑の弱点である間接の隙間を狙った精密射撃。
だがそれですら、甲冑の表面に傷を負わせるどころか、巨漢の体を揺らがせることさえ叶わない。

銃撃が、通じないことを。
漆黒の重甲冑の下で、男は嘲う。
顔も見たことのない相手だったが、その様子はむしろはっきりとアトリに伝わってきていた。

それは、あからさまに異常な光景だった。
異常なまでに破壊力を追及して誕生した、アトリの大型拳銃。
この『拳銃の化け物』が吐き出す射撃を弾くような金属は、オリハルコンを含めても僅か数種類しか存在しない。
そして仮に、彼らが着込んでいる甲冑が、拳銃で傷一つ負わない金属で出来ていたとしても――
甲冑を通じて内部で荒れ狂う着弾の衝撃は、それだけで死へ追いやるには十分すぎる威力を秘めている。

こんな防御体制も取らない姿で、中の人間が耐えられるはずが――無い。

だが。
漆黒の鎧の表面に浮かぶ、波紋にも似た紋様。
それがこの不可思議な現象のからくりを、何よりも雄弁にアトリへと伝える。
「……そういうことか」
甲冑の男達から滲む優越感が、その強さを増し――今度は五人全員が、ほぼ一斉にアトリへ向って襲い掛かる。
城壁の突撃さえ想起させるような彼らの追撃の背後から、援護とばかりにありったけの銃弾がばらまかれていく。
それらは当然、前方の空間を圧倒的に占拠する重甲冑の男達の背中に何発も命中するが、動きの遅延へとは繋がらない。
己の牙が全く通じない相手――猛々しいまでの気迫を纏い、迫り来る『死』に。
アトリの下した決断には、やはり一切の迷いがなかった。
両手に握った二丁の拳銃――弾倉に残る弾丸を、先頭に立つ甲冑目掛けて一発残らず叩き込む。
一つ繋がりに聞こえるほどの連続射撃は――やはり甲冑に傷を負わせることは出来なかったが
全ての弾丸が一分の狂いも無く、首の一点へと撃ち込まれた事による衝撃は――流石にその全て相殺する事は出来なかったらしい。
先頭の重甲冑がたたらを踏み、その突進に停滞が生じた僅かな時間。
掴みかかろうとする腕を、鼻先で躱し――アトリは素早く隣の部屋へと飛び込むなり、扉を閉めて鍵を掛けた。
扉から離れたところでその様子を伺うと、向こう側ではどうやら、無理矢理扉を開けようと試みているらしい。
強引にドアノブを回し、さらには連続して銃声が響くが、付与魔術で徹底的に強化された扉は、力押しで破壊できるものではない。
それこそアトリの拳銃か、トトの必殺の一撃でもない限りは無理な話というものである。

ひとまず、目前にあった『死』を回避することには成功したが、アトリの表情から厳しさは消えなかった。
空になった弾倉を外し、新しいものを銃把に収めながら――思案を、巡らせる。
確かに今は、この建物が持っている『宿』という特性のお陰で、態勢を立て直すだけの余裕と安全が確保されている。
しかし、だからといってこの安全がいつまでも確保されているというわけではない――
例えば、もし襲撃者側の立場にアトリが置かれたとするなら。
間違いなく現状打開の為にフロントまで戻り、マスターキーを真っ先に確保してくるだろう。
あるいは先刻襲撃者の一人が自分達の部屋へとやってみせたように、外壁を伝い窓から侵入するか。
どちらにせよ、許された時間は彼らがそのことに気付くまでの間――そう長くは無いはずである。

そして、何よりも問題なのは。
あの甲冑がある限り、彼の拳銃が歯が立たない事に変わりは無いという事。
漆黒の表面に波紋を浮かしたような、あの独特の色合いに――アトリは覚えがあった。
それはオリハルコンと並び――彼の銃撃を食い止められるであろう、数種類の金属のうちの一つ――

「『ハイ・ダマスカス』製か……厄介なものを持ち出してきたものだ」

ダマスカス鋼。
元々、非常に強靭な鋼の一つとして――古来から刀剣や甲冑の素材に重宝され、愛用されてきた金属。
そのダマスカス鋼を、オリハルコンの解析によって判明した特殊な分子構造へと置き換え誕生したのが、この『ハイ・ダマスカス』である。
漆黒に、波紋を透かしたような独特の光沢。
重量こそ大本のダマスカスとそう変わりはないが、その強度の向上はダマスカス鋼の比ではない。
現在確認されている金属の中ではオリハルコンに次いで硬く、魔術へのある程度の耐性も備えている。
そして何より、この金属が持つ最大の特徴は――その靭性、いや、『柔軟性』と呼んでよいほどの『柔らかさ』にある。
シリコンゴムにも匹敵するその柔軟性は、外部からの衝撃を吸収・拡散するという点において、他の金属の追従を許さない。
また非常に高い形状記憶性も備えているため、形が崩れるという事も滅多に無い。
さらにオリハルコンとは違い、『量産が可能』であることを考慮すれば――オリハルコンよりも使いやすい金属と言えるだろう。
事実、最高級の拳銃や防弾装備には、このハイ・ダマスカスが使われていることが非常に多い。

だが、いかに『量産が可能』とはいえ、ハイ・ダマスカスは決して安価な金属などではない。
というのも、大本のダマスカス鋼自身、精製するためには熟練した技術としっかりとした設備を必要とするからだ。
だからこそ、ハイ・ダマスカスを全身用の重甲冑に使用するという行為は――アトリの予想を大きく上回っていた。
そして、甲冑の弱点である間接部に撃ち込んだ銃弾さえダメージを与えられなかった事。
それはつまり、恐ろしいことだがあの甲冑は――本当に1%の混じり気も無く、細かな装飾具に至るまで全てハイ・ダマスカスで作られている。
それはあまりに馬鹿馬鹿しい話であったが、現実として目の前に示されている以上、馬鹿馬鹿しいで片付けられなかった。

部屋の外からは、あれほど聞こえていた銃声は聞こえない。
恐らく、本当にこの部屋を開けるため――マスターキーを確保しに行ったのだろう。
だとすれば、残された時間は最早殆ど残されていなかった。

部屋の中を素早く見回し――考える。
今の彼に出来ることは、この部屋で迎え撃つ際、少しでも状況を有利に運ぶため――誰よりもこの部屋の配置を知っておくこと。
そして、現状を打開するための方策が本当に無いのかどうか――ただ考えを巡らせることだけだ。
あの甲冑に対し、打開策があるとするなら――その糸口はこの部屋に入る直前の応酬、全ての弾丸を撃ち込んだあの瞬間。
連続して叩き込まれた銃撃にあの猛進に翳りが生じたように、一見無敵に思えるあの鎧の衝撃拡散能力にも限界がある。
限界以上の衝撃を与えれば、先刻の様に鎧の中身にまで衝撃を及ぼし、あるいは鎧そのものを破壊することも出来るだろう。
だが、銃であの甲冑を貫くためには弾丸の絶対数が足り無すぎる。
一体だけならともかく、五体を相手にすることは間違いなく不可能だ。
ならばこの状況、如何にして打開するか――
「こん・ば・ん・は」
思案を巡らせていたアトリに、その後ろから声がかけられたのは丁度その時だった。
思わず、舌打ちしそうになる――いつの間に背後に忍び寄られていたのか、その気配を察知できなかったためだ。
反射的に拳銃を向けて振り返るが、だがそこにいたのは襲撃者達ではなく――
そもそも、人でさえ無かった。
「お客・様・です・ね。生憎・主人マスター・は・出かけて・おりま・す」
自動人形オートマトン――それもこの宿で使われているような最新型ではない、相当の年季物だ。
本来、この部屋に宿泊していた利用客のものだったのだろう――三世代前に流行った髪形に、可愛らしいが『人形』の顔。
現在では喋る自動人形は珍しく無いが、この人形が作られた当時は、まだその技術が確立していなかった。
そのため、あくまで決められたパターンの言葉を口から話す程度の機能しか備えておらず――
それも喋る度、行動を初期化するために口を閉じなくてはいけない。
今となっては骨董品のような存在だが――まだ稼動するということは、元の持ち主は余程丁寧に扱って来たのだろう。

だが――今アトリが置かれている状況とはまるで関係の無い事。
せいぜい銃撃戦の邪魔にならないよう、浴室にでも押し込めておこうと、その手を握り――立ち上がった時。

脳裏を過ぎる、一つの閃き。
「……」
銃をホルスターへと仕舞い込み、代わりに引き抜いたのは榴弾投擲砲。
白銀に鈍く輝く砲身と、自動人形の少女を見比べながら――軽く顎に手を当て、閃きを具体的な形へと整えて。

幾許の猶予も残されていない時間。
手を握る自動人形と榴弾投擲砲。

極限に追い込まれた状況の中で。

「……よし」

蒼を刷いた銀の瞳が、一つの確信に輝いた。