No.03-EX02 Alfail story Episode Penetrater

双隻眼のアトリ・イスカ


第二十一話 are you ready?(前編)



ふう、と。
鏡越しに向き合った、端整な自分の顔を眺めて――アトリは軽く息を吐く。
その長い銀髪にも鍛えられた肉体にも水滴が滴っているのは、つい先刻までシャワーを浴びていたためである。

彼は基本的に、入浴をしないように心がけている。
それは別に『お風呂嫌い』というわけではなく、湯の張った浴槽に長時間浸かることを自ら禁じているのである。
確かに、全身が熱いお湯に包まれる入浴時特有の感覚は、何物にも換え難い至福の一時を与えてくれる。
しかし入浴行為は、日々の活動で蓄積された肉体の疲労を顕現させるという効果も持ち合わせているのである。
入浴後に、その疲れを癒せるだけの就寝時間を常に確保できるような生活を送っていれば、それでも問題はないのだが。
彼は『双隻眼』――最も多くの魔術師を始末ペネトレイトし、最も多くの魔術師から忌み嫌われているペネトレイター。
そしてネフェル=テムの一件からも判るように、彼を奇襲するような相手が、こちらの肉体の都合などいちいち考えるはずも無い。
逆恨みで襲い掛かってくるような手合いに易々と渡せる命の余裕は無い以上、彼はいついかなる時も、襲撃に対応できる万全の体調を求められる。
ゆっくりと風呂に浸かっていては、いざという時に体が動かない可能性が高いのだ。
そのため、彼の浴室の利用法は、体の清潔を保つ程度にシャワーで湯を浴び、最後に一度水を被るに留めたものとなっている。
最後に水を頭から被るのは、何となくそれで意識が引き締まる想いがするため――毎日続けていれば、この程度で寒さを感じることもない。
そしてこの習慣おかげで、アトリは風邪を引いたことが今まで一度もないのである。
もっともその事を告げるたび、「風邪を引かないのは他の理由からだ」と懇々と諭されるのだが。

壁に備え付けられていたタオルで、少々乱暴に頭を拭き取っていく。
他人の目からは、まるで生ある銀糸のように輝いて映る髪であっても、彼にとっては体の一部でしかない。
それも腕や足とは違い、鍛えることも出来なければ――この髪が戦う際に、状況を有利に運んだということもない。
流石に無下に扱いこそしないものの、必然的に心を配る優先順位は低下し、特に手入れも何もこの髪には行なっていない。
それでも、輝くような白銀を保っている――そのことを以前、何気なく女性のペネトレイターに話したことがある。
その返答は硬い拳による洗礼だった。
今でもあれは、赫怒の理由がまるで判らない一件である。
と――視界の中、鏡に映った自身の表情がかすかに歪むのを捉える。
顔をしかめたその理由は、後頭部から根を張るようにして頭全体に響き渡っている、この鈍い痛みのためだろう。
何かに強烈に頭をぶつけたような雰囲気の痛みなのだが、該当するような事態に思い辺りがない。
彼が覚えているのは、シャワーを浴びる前――ほんの微か、意識の空白が存在すること。
抱きついてきたトトを支えきれずに、ベッドに倒れこんだ際――天地を揺るがすように、揺れた視界。
視界一面の紅に古鉄の味と臭い、噴水でも浴びたように体に降り注ぐ何かの液体――
確か、意識を取り戻した時、ベッドのすぐ側の壁が、何かの強い衝撃に陥没していたようにも見えた。
あれは一体、何だったのだろうか。
思案を巡らせるが、考えても考えても、この一連の記憶の関連性がまるで見えてこない。
鏡を覗き込みながら、しばらくアトリはこの痛みについて考え込んでいたが――やがて軽く頭を振り、思考を振り払う。
(……考えても、詮の無い事か)
思い悩みは迷いとなって、行動の遅延を生む。
よほど重要なことでもない限り、思案するという行動は自分が行なうべきものでない。
しかし悲しいかな、人間の知的好奇心というものは貪欲で――得てして、本人の想像を凌駕する勢いを見せることがある。
どうやら今もまた、そういった局面にあるらしい。
自分の中で、疑問の追求を求めて止まない衝動を、抑えることが出来そうにない。
だがアトリが他人と違ったのは、そういった――本来ならば止めることの出来ない、不必要な好奇心さえ。
『殺してしまう』ための術を、その身に会得しているということだろう。
軽く息を吐いて瞑目し――暗闇の中、思いを馳せる。
一つには、自身が気絶する前に何が起こったのかを知りたいという、知的好奇心の衝動。
一つには、先日の夕餉に食べたものは何だったかを思い出してみようという、無謀なる挑戦。
そして――最後に、自身の言動を見て『天然』と称したペネトレイターの言葉の裏に隠された真意を探る、深き洞察――
やがて、瞳を開いた時。
「……む……俺は一体、何を考えていたんだ?」
鏡の中の自分と向き合い、アトリは軽く小首をかしげたが――
先刻まで彼を思い悩ませていた疑問に関して、思い出すことは無かった。

二つの物事を同時に考えれば、一つを忘れ。
三つの物事を同時に考えれば、その全てを忘れる。
これぞ、双隻眼の頭脳が誇る脅威のメカニズム。
一見すれば、容易に欠点となりそうなこの特殊な性質を――先刻のように能動的に利用することによって。
自分の決断の意思から鈍りや曇りを失わせ、冴え冴えとした即断をもって、ここまで幾度となく訪れた死線を潜り抜けてきたのである。
いわばこの特性は、彼の強さにおける最大の要素といっても過言ではないだろう。

果てしなく過言であるような気がするが、決して深く追求してはならない。
それが人間関係を円滑に進めるための有用な手段の一つ『大人の判断』というものである。




「――ねぇアトリ、またお手紙届いたわよ?」
浴室から出たところで、丁度トトと眼が合った。
自分のベッドに腰掛けて、彼女が片手に握っていたのは一通の封筒。
ちょっとした書類を納められるような大きさのそれで、団扇のようにひらひらと自分の首筋を煽っている。
今の彼女の格好は、先刻までのショーツ一枚の上から、軽く羽織ったワイシャツが一枚。
先刻よりも随分と肌の露出は抑えられてはいたが――白い薄手の生地は容易にその下の素肌を透かし、かえって想像力をかきたてる。
下は相変わらずショーツ一枚であるために、犯罪的なまでに露になった素足を無造作に組んだ様は、眩しいほどに艶かしい。
結果として、先刻よりもずっと色香を引き立たせているが――年齢の印象を5つは下げているであろう、眼鏡の存在。
そしてころころと変わる豊かな表情のおかげで大分雰囲気が壊され、緩和されているのだが。
「……開けなかったのか?」
「だって、アトリ宛に届いているもの。そこはそれ――『親しき仲にも礼儀あり』よ。
 それに――この手紙『シーリング』がされてたから、私じゃ開けられないのよね」
なら中を改めるには、アトリに手渡すのが一番の行動の最適化じゃない――と、付け加えて。
彼女は封筒を、アトリへと手渡す。
表にも裏にも、差出人や自身への宛名が記載されていなかったが、裏返した綴じの部分に封蝋が施されていた。
その印の形で、彼はこの手紙が誰から送られてきたものかを確信する。
「……店長マスターからか」
かつては凄腕のペネトレイターにして、今では最大規模の収集網を持つ情報屋を営む老バーテンダー。
その姿を瞼の裏に思い出し、親指の腹で軽く触れると――封蝋は僅かに輝きを放ち。
僅か数秒後には、まるで宙に溶けるかのように――封は跡形もなく消え去っていた。

シーリング』は手紙にのみ適用される、付与魔術を応用した封印の一つである。
ペネトレイターの銀の弾丸のように、特定個人の情報取得を『条件』として加えた付与魔術を封蝋へ与え、開封者を限定するというものである。
開封を許可された者以外が強引に封を開け、中身を暴こうとすれば――封筒ごと手紙を燃してしまうなどといった自衛措置を取る。
情報の漏洩を防ぐために相当な昔から考案され、時代の流れと共に幾度と無く改良に改良が重ねられ――
現在は付与魔術にまで発展させたことにより、人間の間でも利用が出来る様になった。
使う蝋も印も特別製であるため、毎回の手紙に使うには少々値は張るものの――
情報保護の信頼分の代金と考えれば、それも決して高い出費ではない。

「で――内容は何なのかしら? こう、何処かの無料お食事券とかだと私としては万々歳なんだけれど」
「いくら店長でも、会った直後にお前の趣味嗜好を把握するのは無理だと思うが」
言いながら封筒をひっくり返すと――ひらりと舞い落ちたのは、一枚の紙切れ。
何気なく拾い上げ、目を走らせたアトリが――軽く目を瞬かせたことに、トトの好奇心が刺激された。
彼の隣から覗き込むと、紙片に記載されていたのは、数字の羅列と複数の単語――そして、太字で大きく明記された――
「……請求書……?」
「ああ。……グラスとスツールの弁償代、しっかりと請求されてしまった」
二人して、これをしたためている時の店長の様子を頭の中に思い描く。
確かに、店を後にした時――『スツールは返す』と伝えていながら、結局はあの襲撃でそれも不可能となってしまった。
恐らく現場に戻ったところで、今はもう一握りの灰となった残骸が転がっているだけであろう。
しかし、階位“アルバア”の魔術師の奇襲を受けたと知ってから、最初に思い至ったのが――
自分達への心配でも何でもなく、ショットグラスとスツールの請求という辺りが尋常ではない。
もっとも、彼らがあの程度の奇襲でやられる事などないという――確信に似た信頼の現われなのかもしれないが。
「でも――これだけじゃないんでしょう、中身?」
アトリの返答を待つでもなく、まだ彼の手の内の封筒はふっくらとしたボリュームを保っている。
裏返した時に零れ落ちてこなかったことと、その軽さから――恐らく何らかの書類の束であることは判っていた。
「そういえば……あの店で情報を買おうとしてたみたいだけど――」
「いや……流石にそれはまだだろう。いくら何でも、この短期間で依頼した情報を集めてくるのは店長にも無理だ」
そう言いながらアトリが封筒から取り出したのは、厚みが出来るほどの便箋の束。
軽く見積もっても、百枚以上はあるだろう――細かいが丁寧な文字で、箇条書きに何事かを書き連ねてある。
紙面に目を落としたアトリの目線を追う様にして、便箋へと視線を走らせると――そこに記載されていたのは。

――世界各地で名を馳せる魔術師の勢力分布と、ここ最近の動向。

「……これって……『買った』の?」
「いや……これだけの情報を『買う』のなら、この街一つを丸ごと買収した方がまだ安上がりに済むぞ」
「と、なると……ひょっとして『サービス』ってやつ?」
「まあ、そういう事になるな」
紙面から目を離さず――アトリは一つ頷く。
「情報網から取得した情報を、自分で整理する段階の走り書きらしい。
 ここから情報の鮮度や流れを取捨選択して、商売道具にしているようなんだが――
 放っておくには勿体無いし、かといってこの混沌さ加減では売りに出すわけにもいかんらしいんでな。
 こっち側で処分する引き換えに、特別に、使用済みのものを回してもらっている」
あっさりと言ってのけるアトリだが――彼の手にしている束は、文字通り『宝の山』である。
誰でも既に知っているような情報も、部外秘の『掘り出し物』も十把一絡げにされているが、
ペネトレイターとしての長年の経験から、どの情報を拾い、あるいは取捨選択するかの判断力がアトリには備わっている。
そんな相手に対して、普通の情報屋なら絶対に漏らすことの無いような情報の『山』を無料で手渡す――
あの店長にとって、アトリが一体どういう存在なのか。
彼らの関係を詳しく知らないトトにも、何となく理解することができた。

鋭い表情で、紙上に視線を走らせていくアトリの横顔。
暫くそれを眺めていたトトだったが――その目の動きから、彼の読んだ跡を順次追っていく。
既に封印を解かれて数年は過ごしているものの、やはり約二百年間という間のブランクは大きいのか。
書かれている内容、名前の半分以上が見たこともないものだったが――
彼が幾度も目を留めた単語の中から拾い上げた一つの人名には、彼女も覚えがあった。

モーリス・ヘンリーソン。
このメンフィスを治めている魔術師である。

あの時店長に話した通り、アトリは元からモーリスに対して目をつけ、動向を伺ってきていた。
これほどの大都市の領主でありながら、典型的な『人間嫌い』――それも、表では何とか体裁を取り繕うだけの体面はもっている。
それは裏返せば、心の内ではどれほど人間に対しての憤りと蔑みが、黒い感情の嵐となって吹き荒れていてもおかしくは無いという事である。
内側に押さえ込んだその暴風が耐え切れず、表に現れてしまった時――果たして、如何なる凶事がこの大都市を襲うこととなるのか。
アトリだけに限らず、その動向に注意を払うペネトレイターは多い。
しかし、それはあくまでも、まだ『警戒』の域を過ぎるものではない。
人間嫌いであり、暴発の危険性を孕んでいるものの――魔術師協会に背くような不正を働いているわけではないのだ。
それに、例え内に火種を抱いていても――それがメンフィスに災厄を招く劫火となると限ったわけでもない。
領主としての腕も、決して名腕と言うわけではないが、謗りを受けるような手落ちを露にすることは無い。
ならば下手に事態をかき回すことで、この街の秩序を乱すよりは――
少し雲行きは怪しいが、このまま波風を立てないでいるのが賢明な判断というものだろう。
この街にとっても、ペネトレイターにとっても、他ならぬモーリス自身にとっても。

それはモーリス自身も含めて、誰もが理解していることであるはず――なのだが。

「ひょっとして、何か疑惑深まったんじゃない?」
アトリは紙面から目を離さないまま、無言で頷く。
「……昼間の襲撃の事後処理で、少し気になる点が少しな」
言うまでも無く、昼間の襲撃とは――オズワルドのあの一件のことだ。
アトリ達は彼を始末した後、事情聴取などが面倒だったためにこっそりと現場を離れたが――
無論、この街の治安を担当する保安官達が、彼と同じことをするわけにはいかないのある。
「少し気になる、ね……保安官が駆けつけるのが遅かった、とか?」
「いや……ネフェル=テムの従業員から連絡を受けて、保安官が現場に駆けつけた時には――既に一件の決着はついていた。
 ここには何ら、悪意も作為も感じるところはない――単純に俺達の始末が早かっただけだろう。
 ……気になるのは、そこではなく――この時に動員された保安官達『階位』の最高位だ」
そう言って、アトリは便箋の中でも末尾の方に記載されていた文章の塊を指で示す。
「……“ハムサ”?」
「そうだ。通報を受けた際にはっきりと、襲撃者の階位が“アルバア”と判明していたにも拘らずな」
魔術師にとって、実力を形式化した階位の上下関係とは絶対のものである。
どれほど戦闘に場慣れした歴戦の勇士であっても、自身より上位に存在する階位の魔術師に勝利を収めることは出来ない。
秩序を乱し、暴虐の限りを尽くす魔術師を――同じ魔術師の力によって諌めるためには。
その魔術師と同じか、あるいはそれ以上の階位の魔術師を投下することでしか方法は無いのである。
「……単にこの街に、“アルバア”以上の階位の子がいなかったのとは、また違うの?」
「考えられなくも無いが……それならば、別の街に要請を一つ頼めば済む。
 魔術師にとって距離などさほど問題ではないのだからな。
 それに、メンフィスは既知の通り、領主であるモーリスの立ち位置がグレーゾーンにある。
 それを他ならぬモーリス自身が自覚している以上、不要な諍いが、あらぬ誤解を招くことも判っている。
 だからこの街は、領主であるモーリス自身の強い指示で、トラブルの解決に対して尽力を惜しまない傾向にある」
多大に己の保身も含む行為であるが――ある意味、潔いとも言える。
それにその判断があるからこそ、観光都市でありながら比較的この街は治安が良く、訪れるものが後を絶たないのである。
「だが……この保安局との通信履歴を見る限り、モーリスは通報を受けたその時点で、
 “アルバア”以上の階位を持つ保安官を投下しようとはしなかった。
 オズワルドが、仮に俺を仕留めた後――破壊の衝動を街へと向ける可能性は十二分に考慮されたはずだというのに、だ。
 この判断は、最初から事件解決後の事後処理を予見していたとしか思えん」
「そうよね……確かに、結果としてアトリ……というか私があの子を始末して、解決はしたけれど。
 襲撃されたのが私達じゃなかったらどうなってたかは判らないし――
 そもそも、襲撃されたのが私達だっていうのが、この通報から判るようには思えないもの」
「仮に俺が襲撃されたことを何らかの手段で知っていたとしても、モーリスは人間嫌いだ。
 ペネトレイターとはいえ、人間である俺に一件の解決を委ねるよりは――自身の手による解決を試みるだろう」

――これが、つまりはどういう事なのかといえば。
モーリスは、襲撃されたのが他ならぬアトリであることを予め知っていた。
しかし、アトリに対してオズワルドのペネトレイトという形での事件の解決を望んでもいなかった。
彼は、オズワルドの手によってアトリが逆に始末され――かつ、アトリへの復讐心だけで動く、あのウォルター家の魔術師が。
街の破壊に対しては、何の興味も抱いていなかったことを事前に知りえていた・・・・・・・・・という事に他ならない。

「……アトリ、何か恨まれるようなことって、した覚えは?」
「無い……な。そもそも、モーリスをペネトレイトの対象にしようにも、告発するための理由が無い。
 ……だが――ペネトレイトに繋がらずとも、この辺りに関しては少し認識を改めなおす必要はあるだろうな」
厳しい顔でそこまで呟いて――ようやく彼は、便箋の束から目を離した。
一気に読み薦めていった反動で、目が疲れたらしい――軽く目を揉み解しているその傍ら、トトは便箋の束をひったくる。
「これ、読ませてもらっていいかしら? 現代の有名どころの魔術師ってどんな子なのか、ちょっと知りたいし」
「……別に構わんが、読み終わったあとは焼却しておいてくれ。残っていると厄介なんでな」
「もちろん♪」
言いながらも、許可を貰う前から既にトトの目は文字列の踏破に入っている。
――相当、速読なのだろう。
一枚一枚をめくっていく速度が、アトリのそれよりもなお速い。
「ん……有名どころの魔術師っていうことなのに――『北の魔女』の動きは無いのね」
「お前は存在自体が伝承や童話の一部にまで薄められているだろう」
たった一人で、世界を破滅させかけた魔術師――普通に考えれば、存在を信じている方がおかしい。
が、現実に今、アトリの目の前に実在しているという事実は、悪夢よりなお性質が悪いのだが。

しばらくの間、私だけ仲間はずれなどと呟きながら、悲しそうな様子で肩を落としていたトトだったが――
そのままある箇所まで読み薦めたところで、ふっとその目が止まる。
「あら……? 何だか、私のニセモノがいるみたいなんだけど」
「……何?」
その珍妙な物言いに、アトリは思わず便箋の束を覗き込む。
――トトの白く細い指が示す、便箋の一文。
「『南の賢者』――ヘクター・アーチボルド。……これってどう見ても、私の『北の魔女』を意識してるわよね?」
「……ああ、そういう事か」
トトの言葉に、アトリは一人納得したように頷く。
「知ってるの?」
「知っているも何も――『南の賢者』は、今の魔術師協会総帥だ。
 今日の昼食の無料券――あれを発行したのも、この魔術師の名前の下だぞ」
「……そういえば」
思い出した、とばかりに口元に手を当てたトトの様子を横目で眺めて。
「流石に俺でも、『南の賢者』の名は忘れん――俺だけではなく、人間も魔術師も、この男の名を知らない者はいない。
 何せ人間が魔術師から人としての尊厳と権利を勝ち取った時の、魔術師側最大の功労者だからな」

ヘクター・アーチボルド。
現在の魔術師協会総帥にして、“ワーヒド”の階位にまでたどり着いた最高位の魔術師。
そして、彼がいなければ――人間と魔術師の対等なる関係という現代のような社会は生まれていなかっただろう。
そのことをはっきりと断言出来るほどに、人間達の独立運動に際し、多大な貢献をした魔術師である。
元々、南方の一都市に生まれた彼は――若い頃から高い魔術の才を遺憾なく発揮し、神童ぶりを発揮してきた。
やがて中央の大都市に引き抜かれて、本格的に魔術を研究するようになってからも、その天才ぶりは翳る事が無かったのだが――
唯一つ、彼は他の魔術師とは違い、人間も魔術師も同じ『人』だという考えを抱いていた。
それは当時の社会情勢からすれば『異端』であり――彼自身は、それを恥じたことは一度も無かったものの。
誰かにそれを打ち明ける気も無ければ、本気でこの世界の体制を覆そうなどという考えも抱いてはいなかった。
しかし歴史は、その奔流が如き激動の時代の到来に彼という要因を巻き込むため――様々な運命を以って彼の背を押したのだ。
自身と同じような考えを抱く魔術師達との出会い。
人間達の中でも魔術師からの独立を目指して戦う、地下組織との接触――
そういった人々達の真っ直ぐな意思は、やがて彼の心に一つの夢を築き上げる。

それは、魔術師と人間が――対等に向かい合い、手を取り合うことの出来る世界の実現。

そしてついには、自身の夢を現実へと変えるため、数多くの同志を率いて矢面に立ち、人間達の独立のためにその才を惜しみなく発揮したのである。
魔術師達の力を統計的に判断し、人間たちがその手で魔術師を仕留めることの出来るであろう武器――『銃』の開発。
様々な人脈と交渉術、時に家の権力や――魔術師としての己の力を利用しての、魔術師側からの意識改革。
人間と魔術師との間の橋渡しに尽力し、時には陣頭で――己の信念のため、血を被ることさえも厭わず戦うこともあった。
そうして、人間達が遂に――その手に自由を掴み取った時。
ヘクターは、五千年以上の魔術師の歴史の中でも、たった三人の前例しか確認されていない――最高階位“ワーヒド”の位にまで上り詰めていたのである。
その偉業と実力、さながら往年の『北の魔女』を思わせながらも――彼が人にもたらしたのは、破滅の対極のような『未来』。
それが人々に、彼を新たな統治機関――『魔術師協会』の総帥に推させると共に、自然と『賢者』の名を口にさせることとなり。
やがてそれが、北の魔女に対しての『南の賢者』――史上最高の魔術師と呼ばれ、人々に尊敬される存在へとなっていったのである――

「……やっぱり、私の物真似じゃない」
話を聞き終えた後、開口一番でトトはばっさりと彼を切り捨てる。
「そう膨れるな。お前あってこその、この二つ名だろう」
アトリはそうなだめてみせるが、それで彼女が機嫌を戻した様子は無かった。
「……珍しいな、お前がこんなに誰かに噛み付くのは」
「ん……別に、噛み付いてるわけじゃないわよ。……ただ、何か……このヘクターって子、嫌な感じがするのよね」
階位“スィフル”――彼のそれよりさらに上に位置する魔術師は、疑念の表情を崩さず、紙面に書かれたヘクターの名を睨みつける。
「嫌も何も……ヘクターは他ならぬ魔術師協会の総帥だろう」
「まあ、それは判ってるんだけれど……何なのかしら。……妙に引っかかるのよね」
「引っかかる……?」
「ええ。……本当、適当な言葉が見当たらないんだけれど……この子の行動、額面どおりに見えないというか」
トトの言葉に疑問を抱く、アトリの考えもまた――よく判っているのだろう。
彼女にしては珍しく、歯切れ悪く呟いて――眉根を寄せたまま首をかしげてみせる。

普通に考えれば、彼に対してそのような考えを抱くことはまず有り得ない。
何か裏があって、何らかの利益を得るための打算的な行動で――果たして人は、そこまで献身的になれるのだろうか?
魔術師の不正を正す『ペネトレイター』を考案し、世の秩序を保つ組織の最高権利者を疑うなど――失笑の、極み。

だが。

「……判った。なら……この男の動向も、これからは見ておくことにしよう」

彼女のその言葉を、アトリは決して笑わなかった。

彼は『常識』よりも、トトの言葉を。
魔術師として根源にたどり着き、全ての知識を得たといわれている魔術師を。
たった一人の同行者の言葉を――ごく普通に、信じていた。




観光都市メンフィス領主、モーリス・ヘンリーソン。
そして魔術師協会総帥、ヘクター・アーチボルド。


立場も距離も、そして――疑うべき素地も、全く異なる二人の魔術師。
彼らと、今後の自分達の道が、交差することが果たしてあるのか。
そしてその時は――手を握り合う間となるか、銃を突きつける標的として向かい合うのか。



紙面は何も語ろうとはしない。