No.03-EX02 Alfail story Episode Penetrater

双隻眼のアトリ・イスカ


第十九話 羽休めし黒朱鷺(前編)



夕闇はいよいよその濃さを増し、一日の終わりを告げようとしていた。
と――その時、暗くなり始めていた室内に白い光が燈り始める。
周囲の明度を感知し、自動的に作動する照明の付与魔術。
日常に属するものと考えれば地味ながら非常に便利だが、明るさを自動で感知し、灯るという『意味』が含む情報は、存外に多い。
結果として、設置にはそれなりに金額がかかる――少なくとも一般家庭ではそうそう手の出せるような値ではないだろう。
いわゆる『贅沢品』というものの一つである。

そんな贅沢を注ぎ込んだスイートルームの一室で、アトリは一人、ストレッチを行なっていた。
下はジーンズ一枚きりで、上にはなにも羽織っていない姿――いや、それはよく見ればストレッチとは微妙に異なる動き。
自身の体の機能を、一つ一つ確かめるように筋肉を伸ばしている。
そして実際、彼はその動きの中で、自身の体の具合を一つ一つ調べていた。
オズワルドに撃ち貫かれた肩の怪我や火傷の跡は、トトの魔術によってその痕跡さえ残っていない。
……彼女の魔術の腕前を考えれば、治癒後に何処かしらの不具合が発生するという事自体が『有り得ない事』であるが、
これは彼女の腕前を信頼していないというわけではなく、単に今までのペネトレイターとしての生活からくる習慣のようなものだ。

2dcを超える長躯は筋肉質という単語とは程遠い、すらりとしたものでありながら、鍛え上げられた筋肉によって絞められていた。
そのしなやかな体つきは、剣――いや、鋼で出来た鞭を思わせる柔軟さと撓り、力強さを兼ね備えている。
服の全てにそれぞれ付与魔術による構成を伴い、大型の拳銃を操る彼の装備は、確かにどれもが資金を惜しまず注ぎ込んだ一級品ぞろいだ。
しかし、その一級品の装備の性能を限界まで引き上げられるのは、一重に彼の技量と肉体がそれに見合うだけの性能を伴っているためだ。
でなければ、いかに付与魔術による防護があろうと、事象として展開された炎の壁の僅かな隙を突き、躊躇うことなく身を投げ出すことなど出来ない。
それ以前に、常人は彼の拳銃が牙と共に吐き出す反動にまず耐えられない―― 一発撃てば、指どころか手首が食い千切られてしまうだろう。
生き残るためには、己の装備と、それ以上に己の肉体を把握し、丁寧に扱わねばならない。
勇猛さと無謀さは似て非なる存在だ。
故に、治癒の魔術で傷が塞がったとしても、アトリは決して安堵はしなかった。
それが万全の状態であるか、肉体の状態に異常が無いか――確認を行なうことを癖となるまで習慣付けていたのである。

背をゆっくりと伸ばし――自身の体に、何処にも異常無いことを確認する。
これならば一秒後、魔術師の奇襲を受けようとも即座にペネトレイト出来るだろう。
それを確認して、ようやく彼の端整な横顔に、仄かな安堵が広がっていく。
そのまま、ベッドのスプリングを軋ませ――腰掛けて、何をするでもなく窓の外を眺める。
目の前をさらさらと吹き抜けていく風が、彼の長い銀髪を弄んで流れていく。
その風は、日が昇っていた時とは対照的に涼しく――人によっては、肌寒ささえ感じさせるかもしれないものだった。


このメンフィス一帯は、温度を一定に保つために不可欠な緑が少ないため、気温というものは太陽の有無によって非常に強く左右される。
日中は灼熱を誇る熱砂の街は――日が落ちると身を切るような冷たさを伴うというわけである。
今は観光都市と化しているため、日が落ちようとも人々の流れと活気は早々途絶えることはないが――
かつて魔術師達が、己の魔術の研究のためだけに集っていた時代には、日が落ちれば文字通り街には静寂の冷たさが訪れていたに違いない。
お世辞にも人が住むのに良い環境とは言いがたい有様であるが、では何故、魔術師達はかつてこの街を世界の中心としていたのか。
それは、この街の付近のマナの密度が他よりも比較的高いという土地の立地条件自体が良かったこともあるが、
何より魔術師達にとって、生活環境の最大の問題点たる苛酷な温度差が、さほど脅威とならなかったためである。
付与魔術を利用した、環境の調整――人が快適に過ごせる温・湿度への、空調の自動調整。
この付与魔術は中々に高度な技術を必要とされたため、流石に街全体をカバーするわけには行かず、範囲は個々の屋内程度のものが精一杯だったが、
付与魔術の効果範囲内に居る限り、彼らは日中は涼しく、日没後は暖かく――快適な環境下の元、魔術の研究に専念することが出来たのである。

アトリ達が泊まっているこの一室にも、それと全く同じ付与魔術が利用されていた。
照明の構成よりも、当然ながら求められる技術は遥かに上であり――故に、設置を依頼するための金額も洒落にならない。
メンフィスであっても、この付与魔術が利用されているのはこのホテルを含め、3軒も存在していないはずである。
アトリも流石に初めてというわけではないが、気温調節まで完備された部屋は滅多に利用したことが無かった。
部屋の中と外で気温が違うというのは、中々に不思議な感覚だが――なるほど、確かに快適ではある。
この地で快適に過ごすため、知恵を絞った魔術師達の気持ちが判らなくも無い。
あまりに快適すぎるため、外へと赴こうとする魔術師が誰もいなくなり――後にメンフィスでは魔術師の運動不足が深刻な問題となったという落ち・・まである。
「……外、か」
ぽつりと呟きを漏らし、アトリは大きく開かれた窓の外へ視線を向ける。
空にかけられた、群青の天蓋――西の空の隅に輝く紅が、街を赤と黒の二色に染め上げていた。

内と外。
この二つを、人は一体どのようにして区別しているものなのだろうか。
閉ざされた世界が『内』であり、開かれた世界が『外』であるとするならば――この世界に『外』など無い。
何故なら、この世界は物理的に閉ざされてしまっているのだから。


この世界は閉ざされている。
空には陽が掲げられ、景色は何処までも続いているにも拘らず――この世界には限りがある。
視認することの適わない、無色透明の巨大障壁――通称『果て』と呼ばれている存在のために。
『果て』の展開されている規模は大きく――魔術師協会本部が設けられ、世界の中心となっている都市・ヘリオポリスを中心としたドーム型。
東西南北、そして上空―― ただ一つの抜け穴も無く、この目に見えぬ障壁によって世界は閉鎖されてしまっているのだ。
『果て』一体何時から存在するのかも不明ならば、その正体が何なのかも不明。何故世界を閉ざしているのかも、やはり不明。
そんな不明だらけの存在を、魔術師達が――その本質に『探求者』としての面を持つ彼らが、不明なままで放置しておくわけが無く。
過去、様々な者達が『果て』を研究し、その真実を追い求め。
またある者はそれを破り、『果て』の外へ一歩を踏み出そうと試みた。

だが、誰一人として『果て』の正体を掴んだものは現れなかった。

研究していく内に、『果て』は完全に物理的な存在ではなく、魔術によって引き起こされた事象に近い存在だと判ってきた。
しかし、仮に『果て』が魔術なのだとすれば、その規模と力から推察するに――
信じられない話だが、階位“ワーヒド”以上の力を持った魔術ということになる。
しかも『果て』の存在は、世界最古の書物とされている五千年以上昔の文献にも示されているため、
この時点で『果て』を展開している魔術師は少なくとも五千年以上生き続け、なお力が衰えていないという話になる。
無茶苦茶を通り越して、あまりに荒唐無稽――だとすれば、考えられるのはこれが付与魔術であるという可能性だが、
付与魔術は“ワーヒド”の魔術師をもってしても、“アルバア”以上の力を持ったものは作り出せないという事が明らかになっている。
故に、『果て』は魔術ではないとされている――その解除も不可能であるというのが一般常識だ。
その次に考えられたのが、物理的に事象として存在している以上、物理的な衝撃での破壊が可能なのではないかということ。
だがこれも、実際に試してみて不可能であると知れた。
剣・弓といった武器から、騎車による質量爆弾・そして『魔術』――あらゆる魔術、あらゆる手段が試されたが。
結果として『果て』に綻びの一つさえ作り出すことは敵わなかった。
『果て』が外部から受けた衝撃を吸収・分散させてしまうという、非常に厄介な特性を持っているためだ。
実際に『果て』に触れてみれば判るが、それはとても柔らかい、透明なゴムのような感触に近い。
決して『硬く』はないが、どれほど力を込めてもやんわりと――そして必ず押し戻されてしまうのである。

そうして、『果て』を破ることが不可能なことであると判った後――学会で人気を集めたのは、次のような説だった。
曰く、『果て』には外など存在せず――果ての先にある光景は、全て見せかけの偶像・まやかしであるというのである。
考えてみれば、そうだ。
まるで実在の光景のような幻影を作り出す魔術というものは、障壁の魔術同様、存在している。
誰も知らない、たどり着いたことも無い場所が、目に見えるからといって実在すると何故断言できるのか。
だが、その考えに縋り、外の存在という魅惑的な誘惑から逃れようとした魔術師達を――現実は残酷にも打ち砕いた。
何故なら――『果て』の『外』から流れ着いたとされる『漂流物』が、この世界には少なからず存在しているからである――


「んふ〜……あー……さっぱりした……♪」
と、その時だった。
アトリの耳元を擽る、蕩ける様にご機嫌な囁き。
彼が振り返り、何事か呟こうとするよりも早く、背中に感じた人の重み。
開こうとした唇には、そっと添えられた人差し指。
ふわりと鼻腔をくすぐったのは、彼女の体から仄かに香る――石鹸の香りだ。
「ふふ……大人しくしてなさい? 別にとって食べたりするんじゃないんだから……♪」
くすくすと笑って、首に回される細い腕。
彼の肩の辺りに顎を置いて、嬉しそうに細めた瞳は黒曜石。
滝のように流れる黒髪を、銀髪と絡ませるようにして――上機嫌に呟くのは、彼の同行人――トトだ。
「……呑んだのか、風呂場で」
「ふふ……そりゃだって、ユニットバスにジャグジーよ?
 こういうお風呂に入ることって、久しぶりだもの――自然とお酒に手が伸びるのは必定でしょう?」
火照った体の力をそっと抜いて――体を預けるように、そっと横目でアトリを眺めて微笑む。
眼鏡をかけていない彼女は、風呂上りという事も重なってか――普段よりもずっと、色香を感じさせる艶やかさがあった。
白磁を思わせる、上品な白い肌が――湯上りのせいで、輝きさえ帯びそうなほど綺麗な桜色を透かしている。
芸術品めいた決め細やかな美しさを誇りながら、まるで吸い付くような柔らかさと張りを持つ柔肌。
さらさらと真っ直ぐに伸び、包み込むように広がった長い黒髪と、細めた瞳の蟲惑的な輝き――熱を帯びた声。
よほど特殊な性癖にしか興味を示さないような例外を除き、彼女のこの様子に情欲を刺激されない男などいないと思われたが――
「……じゃれるなら、せめて下着ぐらい着てからにしろ」
「む。……案外、冷静な反応よね。きちんと穿いてるわよ?」
下着を『着ろ』という問いに『穿く』と応えた時点で、彼女が大体どのような格好をしているかが自ずと知れてくるというものである。
アトリの意外なまでの冷静な切り返しに、トトは拍子抜けしたような様子で瞬きを繰り返し、アトリを見上げる。
「ひょ……ひょっとして、どこか私、太ったりとかして魅力落ちたのかしら?」
「違う。……単に誘う時とからかっている時の区別がつかんほど、短い付き合いではないだけだ」
「んー……別に、このまま流れても私は別にいいんだけど……まあ、アトリもお風呂入ってないし、焦らなくてもいいかな」
ぱちぱちと、瞬きを二度繰り返して――そこであっさりと気持ちを切り替えたらしい。
今までの様子とは一転して、トトは自分の髪の中へ指先をそっと絡ませた。
瞬間、ほんの僅か――彼女の髪が、照明の輝きを反射したものとは別種の輝きを帯び、ぬらりと輝く。
だがそれも、ほんの僅かの錯覚と思うほど短い合間――まるで手品のように彼女の手に現れたのは、黒い小さな眼鏡ケース。
「ふふ……便利便利♪」
「いつも思うが、髪の毛を濡らしたままでも中身までは濡れないんだな」
「実際に髪の中に収まってるわけじゃないもの……あくまで、髪は髪。
 だから別に、ショートにしても出来たりするのよね、これって」
彼女の髪は、本人曰く――『別の次元へと繋がっている』。
それが斯様な次元であるかは不明だが、髪の中に放り込んだ食べ物が一向に腐らないところを見る限り、
少なくとも四次元以上の高次元であることは間違いないだろう。
「アトリはショートカットの方が好き?」
「……いや、特に好みは無い。お前にはその長い髪が一番似合うだろうしな」
「そう――良かった。手入れは面倒だけど、何だかんだで愛着のある髪型なのよね」
ケースから眼鏡を取り出し、慣れた手つきで装着する。
「ふふふ……こっちの方が、アトリの顔がよく見える♪」
色香よりも、可愛らしさを感じさせるような表情でにっこりと笑って、さらにアトリへと抱きつく。
その様子は、女性として彼を煽情するというより、本当に猫や子供がじゃれるような仕草に近く――
何か言おうと口を開きかけたアトリも、結局言葉を飲み込み、彼女の好きにさせることとした。


トト。
彼女のこの名前を知るものは、存外に少ない。
両親も親族も無く、どこかの家に名を連ねているわけでもなく――
彼女はこの名で、魔術の進歩に貢献するような研究を発表しているわけでもないためだ。
そもそも、専門的に魔術を習得し、研究を重ねる生活に没頭する魔術師は、実はそう多い存在ではない。
そういった専門的な魔術を理解するに必要な“スィッタ”以上の階位を持つものが、絶対数としてさほど多くないためである。
大概の魔術師は、メンフィスの保安官をやっていたフィリップ青年のように、自身の魔術を手足の延長上の技能として利用するか。
もしくは、本当に自分の職業には魔術を用いないで――ごくごく当たり前な家庭を築き、生活する『庶民層の魔術師』というのも増えている。
普段は“サブア”程度にまで力を抑え込んでいることもあって、彼女は良くも悪くも『何処にでも居るような、ごく当たり前の魔術師』に過ぎなかった。
もっとも、この性格を『ごく当たり前』と称するには多大なる抵抗と素晴らしいほどの労力を伴うが、この際それは除外しておく。
そんな彼女であるが――では『彼女自身が知られていないのか』といえば、決してそうではない。
彼女自身は、魔術師・人間を問わずして――間違いなく他の誰よりも、この世界で存在を知られている魔術師であろう。

『ジェフティ』という名と、共に。


「……そういえば」
大きな猫にじゃれつかれているような状態のまま、アトリがふと顔を上げる。
きょとんとした様子のトトの黒瞳と、静かな銀色の瞳が交錯する中、アトリは淡々と。
「吸わないのか、煙草」
「え?」
「よく吸っていただろう、前は。ここしばらく、煙草自体を手にする機会が無かったようだが――ここなら遠慮なく吸えると思うぞ」
アトリのその提案に――しかし、トトは思ったよりも平然とした様子で、一言
「ん……もう吸うの、止めちゃったのよ」
世の中の、禁煙に苦しみ悩む人々の懊悩などまるで知らないようにあっさりと、禁煙を宣言して見せたトト。
「煙草程度で健康を害するような体の構造はしていないんじゃなかったのか?」
「それはそうだけど……だって、アトリ、煙草嫌いでしょう?」
「……まあ、それはそうだが」
頷くと、トトは何が嬉しいのか――向日葵のような笑顔をにっこりと浮かべて。
「だったら、わざわざアトリが不快感抱くようなもの吸ってても――馬鹿馬鹿しいじゃない」
自分のことのようににこにこと、機嫌の良さそうな彼女の様子に――アトリの口元も、知らず僅かに綻んでいた。


『ジェフティ』という名を、人々の記憶から探り出した時。
その脳裏に思い描かれる存在は、殆どの人にとっては二つあるだろう。

様々な知識に通暁し、人々に文字や測量技術といった、己の持つ知識や技術を惜しみなく提供したとされる、偉大なる貢献者。
死後の人々の供養を行い、その罪の計測と是非を判定――時にいがみ合う神々の仲介と仲裁も勤めた、良識の象徴。
絶対神・ラーの司る太陽と対となる存在である『月』を司り、時の支配者としての姿も持っていた、神々屈指の実力者。
そしてこの世界に存在する魔術を、人の扱える知識として作り上げたと言われている、魔術師の始祖。
それがジェフティ――『時と知恵を統べる者』と呼ばれる神の名である。
しかし、このジェフティは完全に伝承の中の存在――神話上の存在に過ぎない。
確かに魔術師達にとっては無視できない縁ある神ではあるが、実在していたかどうかの信憑性など、考えることも馬鹿馬鹿しい。

ならば、世の大半の人々にとって――彼女と結びつく、もう少し『現実的なジェフティ』の存在は。
今から、二百年以上前に歴史の表舞台に現れた『北の魔女』のことを指し示すものである。

『北』。
巨大な大塩湖が広がる南とは裏腹、剣のように高い山脈が連なる地。
だが、それ以上に特徴的な事として――北方面には、何故か昔から不可思議な現象が相次ぎ、絶えることなく噂が流れていた。
曰く、朝焼けの輝きの元――霧の中に浮かぶという、幻の魔術大都市。
曰く、山中を彷徨い、行き倒れた人々を、助けて麓まで連れて行ってくれるという不思議な黒髪の魔女。
だが、それらよりも現実的な不思議として――北には、何故か魔術師が一人もいないということが上げられる。
この世界はただでさえ、『果て』によって閉ざされている――絶対的な土地面積は、限られている。
如何にやせ細った地であっても、魔術を使って土壌を改良し、開墾してしまえば、多少の環境の悪条件は改善することが出来るのだ。
そして北の山々には、魔術の研究に必要な触媒の材料や金属といった地下資源が豊富に存在していることでも有名である。
広大な地と、豊富な資源――文字通り『宝の山』である北を、魔術師がほうっておく理由は何処にも無いのだが。
にも、関わらず――何故か魔術師は、北へと足を踏み入れることを拒絶した。
それも意識してのことではなく、無意識の内に足が北へと向かうことを拒絶してしまうのである。
そのことに気がついた魔術師達は、今度は意識して北へ向けて足を進めてみたが、やはり結果は同じだった。
本能的な直感、あるいは第六感とでも言えばいいのだろうか――それが、北へ向えば向うほど、何故か騒ぎ出すのである。
無理やり押さえ込んで踏み出せば、いつか発狂してしまうことを確信できる程に。
北は他の地に比べ、マナの密度が高いことでも有名であるが、それがこの現象と何処まで結びつくものなのか。
ともかく、そんな不可思議を遺したまま、その真相を解明することさえ適わず、結果として現在も北の方面は放置され続けている。

長らく、北は――僅かに人間が小さな集落を築き、広大だが厳しい自然の中、細々と暮らすだけの閑地でしかなかった。
だが、その常識を覆す一人の魔術師が『北』より輩出され、歴史の表舞台へと表れたのは――

今より二百年前のことである。


「それに、ほら。……女には煙草より、他に咥えたり吸ったりするものがあるって言うし?」
口元に指を当てて――くすりと流し目で笑いかけるトトに、アトリは幽かに考え込む素振りを見せて。
「……霞か?」
「そうそう……って、霞?」
予想していた答えの右斜め上を行くアトリの言葉に、頷きかけたトトも目を瞬かせ、アトリを見返す。
「……何で、霞?」
「長い年月を生きるものは、霞を食らって生き永らえていると聞く」
「そうなの?」
こくりと頷き――何かを思い返すように、天井を見上げてアトリは呟く。
「昔、『お前のそのボケっぷりは天然か狙ってるのか? それとも老化か? 霞でも食って生きているのか?』
と言われたことがあってな。何故霞なのかと聞いたらそう応えられた」
「ボケ……確か、花の名前よね」
「うむ。何故そこで俺と花の名前が関わるんだと問うと何故か呆れられたが……まあ、それはこの際考慮しなくてもいいだろう」
「そっか。……でも、それってあくまで『食べる』んでしょう?」
「確かにそうだが……元々霞に形などは無い。それを『食う』事が出来るならば、咥えたり吸ったりしてもおかしくはあるまい」
「なるほど……。ひょっとして美味しいのかしら、霞って」
「少なくとも食材費はゼロだろうな」
「懐にも優しい親切食材?」
「うむ」
………………。
彼らの話の脱線振りは、既に人としての限界を超越したところに存在する気がしてならない。
しかし何よりも恐ろしいのは、彼らは常に真摯に物事を考え、言葉を選んでいるということだろう。
あくまで、真剣なのだ。
だからこそ、誰にも止めることが出来ないのかもしれない。

決して突っ込めないことを言い訳して逃げているわけではないので、そこを間違えないように注意していただきたい。



『北』より輩出されたその魔術師は、当時、世界の中心地であった魔術都市・ヘルモポリスに居を構えると。
瞬く間に数々の高度な魔術技術を確立させ、停滞しつつあった当時の魔術に、変革の強い追い風を巻き起こしていった。
大胆にして斬新、誰も思いつきもしないような観点から次々に発見されていく法則性や特質、理論・新たな構成。
しかも、それをただ己だけの知識とするのではなく――他の魔術師達にも理解できるよう、論理的なものへ組み上げ直してしまう。
それも、誰の手も借りない、完全な独力で。
まるで、数千年に渡って魔術師が追い求め、なお辿り着けぬ魔術の根源――『書庫』を垣間見てきたように。
その魔術師の残した数々の変革は、それまでの魔術とは一線を画する高度で洗練されたものへの進化を促した。
現在の魔術の基礎となっている数々の理論は、この時代に彼女が作り上げたものを基礎としているほどである。

その魔術師は、決して自らの本名を語らなかった。
いや――これが仮に本名であったとしても、決して魔術師はそれを認めるわけにはいかなかっただろう。
ジェフティ。
偉大なる始祖の魔術師と同じ名を語るなど――あるいは、自らの子に同じ名を与えるなど。
畏れ多くも、真っ当な精神を持つ魔術師には到底不可能なことである。
しかし、次々と淀んだ学会に風を巻き起こした、その魔術師ならば。
正に、現代に現れたジェフティとさえ思えるほどの成果を為したその魔術師が、真の名を明かせぬというのならば。
魔術師の始祖と同じ名を名乗っても、それを咎めるものは誰もいない。

それ程までに、魔術の才に満ち溢れた逸材だった。


故に、その魔術師は。
長い黒髪を持つ――まだ年若い、その女性は。

類稀なる美貌と、魔術の腕前から――北の不可思議な噂の一つになぞらえ、いつしかこう呼ばれることとなる。


『北の魔女』ジェフティ。




この名が、恐怖の代名詞となるのは。
世界規模の情報統制と規制を行ない、彼女の存在を単なるおとぎ話の上の存在だと、
社会的に抹殺しなければならないほどの恐怖を撒き散らすのは。


それより、暫く後のこととなる。