どんな記憶、どんな想いも。
積み重ねる時の中に、少しづつ薄れていく。

けれど、あの冬の日の記憶。
黄金の空の下で感じた、想いの全ては。

思い返すたび――この胸に。


恋心の様に色鮮やかに、何度でも蘇る――




「――ぇ、ねぇってば」

そこで肩を揺さぶられ、私の意識は過去から現実へと引き戻された。
ここは冬の山中ではなく――人間の集落、小さな公園にあるベンチの一つ。
辺りには雪なんて影も形も見当たらなく、空から差す日の光は仄かに熱を帯びていている。
来月になれば、公園に植えられた桜の木も立派に花を咲かせるだろう。

あの頃より、今は随分と春に近い。

背後に振り返ると、そこに立っていたのは唇を尖らせた男の子。
くりっとした目が印象的で、やんちゃ盛りの年頃だけど――心根は優しい子だ。

「慧音お姉ちゃん、やっぱり聞いてなかったんだね……」
「だねー」

男の子の言葉尻を、幼い声が復唱する。
一昨年生まれた小さな弟――小さい紅葉みたいな手をしっかりと握った男の子。
そういった何気ないところでの『お兄ちゃん』らしい行動が微笑ましく、この二人を気に入っている。

「ごめんごめん……それで、何か用?」
「うん。あのね――集落の東で、妖怪に鶏が齧られたんだ」
「たんだー」


なるほど――と納得する寸前、男の子の妙な言い回しが引っかかる。

「……『齧られた』? 『喰われた』じゃなくて?」
「うん。ちらっと見ただけだったけど、こう、がじがじーって。金髪に紅いリボンの――」

軽く手を上げ、やんわりと男の子の言葉を遮る。
皆まで言わずとも、その特徴だけで犯人を特定するのは簡単だ。
妖怪が現れたという割には、どこか緊張感に欠ける態度も理解出来る。

凶暴な性格というわけでも、人間を憎んでるわけでもない。
まあ、人間にありありと敵意をむき出しにしている妖怪の方が珍しい――という話は置いておくとしても。
さほど力のある妖怪ではないとはいえ、普通の人間が相手をするには少々荷が重い。
そして多くの妖怪達の例に漏れず、彼女は人間を食う――放っておくわけにもいかない。

「慧音お姉ちゃん、空を飛んでくの?」
「くのー?」
「ああ。――危ないから、少し下がって」

素直に頷き、しっかりと弟の手を握って――公園の隅に避難する男の子。
幼い兄弟は邪魔にならないところから、きらきらと目を輝かせて私を見ている。
その眼差しが、少しこそばゆい。
この兄弟に限らず――このぐらいの年の子の前で飛ぶ時は、大概この視線を感じている。

まあ、でも。
その期待に応えてあげるのも――悪くないと思うから。

だから私はいつもより丁寧にドレスの裾を直し、帽子の位置を正して。
そのまま、軽く瞳を伏せて――背中へと意識を集中する。

空気が、軽く熱を帯びる。
難しいことじゃない。
人が手足を自在に扱って見せるように。

延長線上へと――感覚を、伸ばす。


私の背に浮かび上がった――不死鳥の紋様。
それは巨大な炎を孕み、まるで鳥が翼を広げるように天を衝いて。


私の根幹をよく現した――再生と不死の、炎の翼――


「――頑張って、慧音お姉ちゃん!!」
「がんばってー!!」


子供達の声援に、軽く手を振って応えながら。
軽く地を蹴り、力強く。

空へ向って、羽ばたいた――






「……あれは……」
「慧音様、じゃな、相変わらず……青空によく映える翼よ」
「あの方は変わりませんね……懐かしいなぁ。
 私も小さな頃は、毎日のように空を見上げていました」
「そんなものはわしも同じさ。いや……集落の者達全てがそうだろうよ。
 誰も彼も例外なく、あの炎の翼を見上げていた――目を、きらきらさせてな」
「慧音様は……妖怪では、無いのですよね……?」
「伝え聞く限りはな……不死鳥の翼を背に負った、不老不死の蓬莱人。
 我々には及びもつかんような、遥か昔から――ずっと集落を護って下さっているのじゃよ」






私にとって、『名前』というものは。
雨の日の傘を差し、祝いの席で正装に身を包むように。
そのときの自分に応じて、自在に変えていくものなのだと思う。

だから、種を明かしてしまえば。
それほど複雑な話でも、大した事というわけでもなく。

生まれた時につけられた名を、人を止めた時に棄てたように。
この手を紅に染める決意に――『妹紅』という名を名乗ったように。

今は違う名を名乗っている。
ただ、それだけのこと。

あの冬の日から、指折り数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの年月が過ぎて。
慧音が息を引き取ってから、私は『慧音』と名乗りはじめて――
その名前が示す通りに、今は人間を護りながら日々を過ごしているという、ただそれだけの話。


輝夜とは。
あれから、殺し合っていない。






「――姫様は何故、妹紅を殺すことを止められたのですか?」
「永琳? どうしたの、突然そんな事聞くなんて」
「あの時は何かお考えあっての事と思い、理由を尋ねませんでしたが……。
 屋敷の中を整理していたら、色々と昔のものが見つかりましてね……それで思い出しまして」
「ん……そうねぇ……明確に『これこれこうだから』とは言えないけど。
 強いて言うなら、私が殺したいのは『妹紅』だから――かしら?」
「名を変えたことが原因……と?」
「ええ。私が殺したいと思ってるのは――紅に染まった蓬莱の人型。
 永遠に口の減りそうにない、あの生意気で暑苦しい妹紅だけ。
 人間でも無い癖に、人間を護る変わり者なんて――別に興味も湧かないわ」
「……姫様は。それで……宜しかったのですか?」
「――ねぇ、永琳。万物は常に変化を繰り返し形を変えるけれど、私達にはそれが無いわ。
 どれだけ変わったように振舞おうと、別人を装うと……最後は『不変』に帰結する。
 魂魄があっての器である私達は――結局どこまでいこうとも、ありのままの自分にしかなれない」
「彼女も……そうだと?」
「それを信じるぐらいには、永い付き合いと思ってるいるわ」

「……随分と、信用しておいでなのですね……彼女の事を」
「あら……ひょっとして永琳、嫉妬してる?」
「ええ。少し、妬けてしまいそうです」
「ふふ……ごめんなさい。でも、この想いだけは譲れないわ。
 私はあの子を待ち続けるの。それが私の特権だから」


「私はあの子を愛してる。殺したいほど、愛してる。
 焦がれるような想いを抱いて、想い人の事を信じて。
 永遠にも等しい時間を――待ち続けることが出来るなんて」



「これって、素敵な関係と――思わない?」






「……はぁ……本当、物の覚えが悪いったら」

ぼやきみたいな呟きが、青空の中に溶けていく。
男の子が報告してくれた妖怪を撃退する事に、苦労は殆どしなかった。
大体にして、相手にして骨が折れるような実力の持ち主は、集落を襲うなんて無粋な真似をしない。
やってくるのは、弾幕ごっこの延長線上ぐらいの意識で相手をして丁度いいぐらいの相手ばかりだ。
だから苦労はしていない。
苦労は、していないのだけれど――思わず、溜息が出そうになる。

あの妖怪を追い返したのは、今日が初めてというわけじゃない。
というよりまるでもぐら叩きの様に、撃退しても撃退しても懲りずにまたやってくるのだ。
こんな時、慧音なら――集落の歴史を喰らうことで存在を隠し、戦わずしてやり過ごすのだろうけれど。
そんな便利な能力の無い私の場合、出没する度に追い払わないといけないわけで――

「あんまり悩むと禿げ上がるぞー」
「余計なお世話よ、大体蓬莱人の私が禿げるわけ――って、まだいたのか!?」

愕然と振り返った先、景色にぽっかりと穴を開けたような宵闇が、ふらふらと蛇行しつつ離れていく。
思わず頭を抱えたくなるけど、思い返せば――私が幻想郷に来た頃から、ずっとあんな調子だった気がする。
実際にはあの頃の彼女と今の彼女は、世代を跨いだ別の存在なのだけれど。
自然から発生する歪みから生まれる彼女たちは、子供と言うよりは同一の存在に近しい。

母体となってるものが自然である以上は、発生源から断ち切ると言う事もまず出来ないし……。
長い目で見てみれば、これもある意味『不死の存在』なのかもしれない。
……同一に置かれるのは、正直勘弁して欲しいところだけれど。


軽く頭を振って、不毛な思考を外へ追いやる。
気分転換とばかりに体を傾け、緩やかに滑空しながら――見下ろした集落の風景。
呆れてしまいそうなほど穏やかで平和で、地味な人間達の日常。


今日も相変わらず、幻想郷は幻想郷のままだ。




如何なる力を持っていても、時の流れは強く――無慈悲に。
あの頃の人妖達の殆どを、思い出の中だけの存在へと追いやってしまった。

けれど。
例えば、閑静な湖の畔に佇む紅の洋館。
閑古鳥が住み着いたような、辛気臭い森の古道具屋。
昨今の博麗神社はすっかり妖怪達に乗っ取られたという嘆きを、集落の人間達から何度か聞いた。

魂は輪廻し、何度でも転生する。
煮出せば灰汁でも出てくるような個性的なものなら尚更。
『不変』とまではいかなくても――繰り返される因と縁の宴。

胡散臭い笑顔で微笑む、マヨヒガのすきま妖怪。
能天気なまでに何にも縛られない、生を忘れた亡霊の姫君。
かたや地上へと目を向けた時、竹林に潜むは死を忘れた姫君――もっとも、それは私も同じ。


あの頃と変わったもの。
あの頃から変わらないもの。


織り成す者達は変わっても――変わらない不思議な調和。



幻想郷が幻想郷たる所以は、この調和にこそあるのかもしれない。




空からざっと見渡す限り、特に問題が起こりそうな気配は見て取れなかった。
この様子なら、今日はもう集落が厄介事に巻き込まれることも無いだろう。
そう判断して、私は力強く羽ばたく。
ぐん、と体が持ち上がり――瞬く間に地上は遠く、眼下の集落は小さくなる――

幻想郷中をあてもなく歩き回っていた昔と違い、今は集落から離れる事が殆どない。
私が今、目指している場所も――実のところ、集落からそう離れた場所じゃなかった。
ただ、あまり他人にはこの場所を知られたくないため、いつも少しだけ遠回りをしていく。

集落に接した、小高い山。
ゆっくりと高度を落し、翼を折り畳みながら――張られた結界を擦り抜ける。
結界の存在を『知っている』私に、排斥の為の力は働かず。

長いトンネルを抜けた後のように、結界の内側で世界は姿を変えていた。


透き通るような青空は、燃え盛るような黄昏に輝き。
鼻先をくすぐる風に、仄かに枯れた木々達の香りが漂う。
腰ほどまでの高さもある、すすきの穂の中へ――ゆっくりと着地した時。

包み込むように一面に広がる――黄金の世界――


この場所もまた、あの頃から変わらない。
訪れる私の名と姿は、随分と変わってしまったけれど。




歴史の止まったこの場所は、あの頃から何も変わっていない――




慧音の『代わり』が勤められると思うほど、私は傲慢に出来ていない。
そんな事は誰にも出来ない――何よりあの子が、そんな事を喜びはしない。
そして私は人間に対して、自分を犠牲にするほどの愛情も恩も――感じたことは一度も無かった。

ただ。
人間達には無くても、慧音に対しては感じていた。
あの子に返してあげたかった、沢山の感謝の気持ちを。

納得がいくまで、私は――彼女に返してあげられなかった。

だから私は、この胸に残った感謝の気持ちを。
あの子から貰った優しい気持ちを。


何よりも大事にしていた人間達へ、返してやることに決めた。


人間達に囲まれ、彼らを護りながら過ごす日常。
まったくもって私の柄じゃないけれど、そんな生き方を選んでもう随分になる。
長年続けていくうちに、それなりに心も体も環境への適応を試みてくれたらしく。
手と手を取って助け合い、感謝されながら生きてみるのも――悪くはないと思えるようになった。

ただ……誰かに優しくあろうとするには。
紅に染まる、復讐者の『妹紅』のままでは――少しだけ、気恥ずかしかったから。
あの子の名前を、私は借りて。
人を愛した変わり者の――『慧音』という名を借りることとして。


私は今、ここにいる――




「……さて、と。そろそろ――集落に戻ろうかな?」




慧音が、二度目の死を迎えることは無いだろう。

何故なら、あの子の優しさを通じて。
あの子に優しい想いをくれた、全ての人間達の姿が在るように。


慧音から貰った優しさを――私が人間達へと伝え、返し続ける限り。
その想いを通じて、人間達の心の中に。

あの子の姿は――在り続ける。


この暖かい気持ちが、きっと彼女の生きた“証”。




……私の柄じゃない。
柄じゃない、けれど――


彼女の想いを伝えていける、今の私は上出来だ。






――此処の名は幻想郷。
妖怪と人間――少女達の飛び交う、幻想と弾幕の世界。


蓬莱の時の中、友の心を伝えながら……私は今日も生きて――








その時。


「……え……?」




すすき達の、ざわめきの中に。

違うものが聞こえた。