姿見の前に立ち、自分の姿を眺める。

仄かに輝く、銀の髪。

理性と知識を宿した瞳。

一糸纏わぬ体には、ただ一つの染みも無く。

初雪のような白い肌の下、流れる命の紅が瑞々しい輝きを添える。


されど。
鏡に映る姿は虚。
その実は、人と妖の狭間を移ろう半獣。

人であり妖であり――そのどちらでもない私。
果たして、この身は何処このように生れ落ちたのか。
万物に通暁する筈の歴史は黙して語らず。

そして。
……私は――


そこでふと我に返り、苦笑する。
姿見の前、裸で考えるような事ではない。
一度思考に耽ってしまうと、つい深く考え込むのは私の悪癖だ。



衣装棚へと手を伸ばす。


肌を滑る、ひんやりとした感触。
いつもの帽子を頭に載せて、もう一度眺めた姿見。

きゅっと締まった腰に膨らんだ両袖。
ふんだんに生地を使い、柔らかく広がったロングスカート。
デザインとしては多少古いが、あまり女性らしさの無い私でも、これに袖を通せば少しはそれらしく見える。
お気に入りの、いつものドレス。


ただし。

その、色は――黒。




「……よし」




帽子の位置を整えて。

荷物を片手、靴を揃え――玄関の戸に、手を掛ける。


肌が引き締まるような寒気。

一度だけ、家の方を振り返って。



鉛色の空の下を、私は真っ直ぐに歩き始めた――




人妖弾幕幻夜 東方永夜抄 〜 Imperishable Night.

Keine Kamishirasawa & Mokou Huziwara

-不器用な手で紡がれた、優しい“歴史”に想いを馳せて-




1.不器用な蓬莱の人型



春はゆっくりと近づいてきていた。

身を切るような寒さは薄れ、降り積もる雪も減ってきている。
まだ幻想郷を覆う雪は厚く、一面に銀世界は広がっているけれど。
ふと頭上を見上げれば、枝先を伸ばして雪を背負った桜の木にも幾つかの蕾。
硬い皮に包まって春を待つ姿は、まるで明日の遠足を心待ちにする布団の中の子供達のようで。

春の足音が聞こえてくるような微笑ましい光景の中を歩く。
手に握っているのは、山の中で生っていたずっしり重い林檎の実。
幻想郷の厳しい寒さに旬がずれたらしく、食べ頃の状態だったものを一つ拝借したのだ。
仄かに香る甘い香りに誘われ歯を突き立てれば、広がる至福に頬が緩む。

美味しい。
ちょっとした運動の後だったから、尚更甘みが嬉しく感じる。
生きる事に食べ物を必要としなくなってから随分と経ったけれど。
食べ物を『美味しい』と感じる事が嬉しいのは、あの頃から何も変わらない。


ふと視線を、横手へと向ける。
真っ白雪の中に咲いた、小さな小さな紅い花。
けれど、目を凝らしてよく見てみれば――それは花なんかじゃなく。
雪の上に垂れ落ちた血が、まるで花の様に鮮やかに眼に写ったということ。

左腕の骨を貫き、深々と突き刺さった一本の氷杭。
血はその氷杭を伝って垂れ落ち、生きている証とばかりに銀世界へと花を咲かせる。
つい先刻まで氷精とやりあっていたのだけれど――確かその時、一本突き刺さったのをそのままにしていたっけ。
なまじ痛覚に危機感が伴わないものだから、負ってしまった傷には寛容的というか、鈍くなりがちなのが悪い癖だと思う。

私は命を狙われている。
……言葉に悲壮感が漂わないから今ひとつ説得力に欠けるけれど。
幻想郷の人妖達は、とある女の依頼を受けて――丁度いい退屈凌ぎに私の命を狙いに来る。
その刺客達を、ぐうの音も出ないほど叩いてのめし、四折りにしてから熨斗をつけて返すのが私の日常。

刺客達を差し向ける元凶を叩いてしまえば、死に脅かされる日常から解放されると思うかもしれない。
けれど、この一件に関してだけは話は全く違ってくる。
何故なら、私も――私の命を狙う女も。


『死』を、忘れてしまったから。


音も無く、左腕を炎が包む。
伴うべき肉の焦げる悪臭はそこに漂わず、炎は杭だけを溶かして。
炎の中で癒える傷口――時間にして数秒と経たず、綺麗に塞がった左腕。
雪に咲いた紅い花の存在だけが、ただ先刻までの痛みを現実のものであったと訴えている。


色素の薄い髪。
箸より重いものなど持った事の無いような、華奢な手足。
一見、ただの少女にしか見えないこの体は――『死』を忘れてしまっている。
傷を負えば痛みを感じ、何も食べなければ空腹を感じても。
その感覚に伴うはずの『死の危険』が私には欠落している。

世界の輪廻の輪から外れて、自身の内にそれを秘めた不老不死の具現『蓬莱人』。
それが私を示す言葉で――同時に、相憎むあの女を示す言葉。

蓬莱山 輝夜。
私に刺客を差し向ける女の名前であり、互いに互いを殺したくて仕方の無い相手。
けれど、彼女の右腕的存在の永琳を含めて――私達の関係には『死』という終焉が無い。

縁〈えにし〉は色褪せる事も無く、永遠に。

幻想郷の少女達が、『弾幕ごっこ』という遊びに興じるように。
死という危機を失った私達にとっては、命の奪い合いでさえ――遊びの一つでしかないのかも知れない。


……と。
そこで私は頭を振って、不毛な思考を頭から追いやる。
輝夜との因縁に思考を巡らせる事より、想いを馳せることは他にある。

冬空の下、私の目の前に真っ直ぐ伸びるこの道は。
一時間も歩き続ければ、やがて人の集落へ至る。
人を止めた私にとって、人の生活には何の関心も無いのだけれど。

そこには、永遠を生きる私がわざわざ足を運ぶだけの――『理由』が。
もう随分と付き合いも長い、一人の古い友人がいる。

つい先刻、刺客に襲われたのは僥倖だったかもしれない。
輝夜が刺客を差し向けるのは定期的だから、暫くの間は襲われる心配は無いだろう。
私自身はどんな相手だろうと返り討ちにするだけだから構わないが、人の集落で殺し合いなどすれば『彼女』が悲しむ。
私は、彼女に悲しい思いをさせるために会いに行くわけじゃないから。

人でも妖でも無いというのに、自ら人を護ろうとする変わり者。
不老不死の私にさえ、気を配り心を配ろうとする筋金っぷり。
そのくせ、自分の事は棚に上げるんだから……たまに会いにいって、ガス抜きをしてやらないと。
そう考えると、彼女に会いに行くまでのこの道程さえも楽しいものに思えてくる。

最初に姿を見かけたら、何と声をかけてみよう?
そんな事を考えながら歩く、冬と春の境界。
そう遠くない先へと想いを馳せ、上機嫌な私は鼻歌など歌っ――




「随分と、機嫌がよさそうだな」




……心臓が。
口から、飛び出るかと思った。

危うく出掛かった悲鳴を呑み込み、私は目の前に向き直る。
不老不死の蓬莱人をショックで殺しかけるなんていう偉業を達したその声は。
あと一時間は聞くことも無いと思っていた――『彼女』の、ものだったから。

「久しぶりだな、妹紅。元気そうで何よりだ」

歴史と知識の半獣、上白沢 慧音。
私が集落に足を向けた理由であり、掛替えのない古い友人。
彼女の姿を見た瞬間、思わず頬は緩み、自然と笑顔が浮かんでいる。
現金な事だなと心の中で苦笑しながらも、悪い気分じゃなかった。

「集落へ向かう途中か?」
「まあ、そんなとこね――久々に慧音の顔、見たくなったから」
「嬉しい事を言ってくれる」
「あら、これでも結構本音だけど?」

鎖もしがらみも無く、風光明媚な幻想郷をあてもなく渡り歩く。
そんな今の生活に不満は無いけど、たまには私も、こうして誰かと言葉遊びに興じてみたい時もある。
確かに私の体は、他の何者にも依存せずとも生き続けられる――けれど、心は違ってくる。
特に、時を経れば経る程に見知った知人が減っていくことになる私にしてみれば。
白沢を半身に持つためか、長い寿命を誇る慧音は――過去を懐かしみ杯を酌み交わせる、唯一の相手。

時折、ふらりと訪れては――数日間、慧音の家に厄介になりながら緩やかに時間を過ごす。
そんな事をするようになってからも相当に長い私達だけれど。

何故だか今日は、その様子が違っていた。

「ふむ……ということは妹紅、今日は他に何か予定があるわけではないのだな?」
「え? え、ええ……まあ、そういう事になるけど」

慧音の言葉に素直に答えながらも、改まってそんな事を聞くなんて初めての事。
一体どうしたのだろうと思った時――私はようやく、普段と今の彼女の『違い』に気付く。


「……喪服……?」


ふわりと膨らんだスカートは普段着ているものと似通っているけれど、良く見れば細部のデザインは幾分か控えめに。
そしてその色は、ただ一点の曇りも無い、夜闇の様な黒。
慧音のこの格好――喪服姿そのものは、今までにも何度か見たことがある。
集落に住まう人間達と交流の親しい彼女は、冠婚葬祭の度、通える限りは積極的に足を運ぶ。
それは『葬』も例外ではなく――実際、以前に彼女と出会った時も葬儀の真っ只中だった。

だから、慧音が喪服に袖を通す事自体はそう珍しい事じゃない。
けれど今、目の前に立っている彼女に感じる――妙な違和感が、心に引っかかって。
その違和感の正体に気付くまでは、そう時間を必要とはしなかった。

「何で……そんな格好で、こっちに歩いてきてたの?」

幻想郷の外と違い、ここでの人間の絶対数は妖怪よりも少ないため、集落自体がそう大きなものではない。
だから歩いて一時間とはいえ――今私達がいる場所に、弔問すべき人家は一軒も無いのである。
人里から離れて暮らす変わり者もいないわけじゃないけれど、妖怪達の生活圏が近いこの方角にいない事だけは確か。

集落の只中ならともかく、こんな姿の慧音と――こんな場所で出会う事は『ありえない』。

その疑問を、私は表情の下に隠そうとはしなかった。
だからはっきりと伝わった疑問符に、慧音は私の瞳を見つめ返すと。

「ここで出会う事が出来たのも……意味の有る事なのかもしれない」
「え……?」

久しぶりに見た、慧音の瞳。
沈着で深い瞳の奥にあったのは。

「私も妹紅に用があった。急いていたわけではなかったが……出会えたのなら丁度いい」

長い付き合いの中でも、滅多に見たことが無いほど――真摯な決意と、意思の輝き。


「来て欲しい場所がある。……出来れば、付き合ってくれないか?」