――まだ、地上の人間が『クニ』という概念を持たなかった頃から。
彼らの頭上に浮かぶ月には――人と、規律と、文明があった。
皇宮。
月を統べる君主である『皇』のためだけに作られた居住区にして、政の中核たる巨大な建物。
数々の試験を突破し、皇の下で働く事を許された――超一流の人材だけが集うこの建物の中で。
私は颯爽と白衣を翻し、埃一つ落ちていない磨きこまれた廊下に、律動的な靴音を響かせて進む。
その途中、すれ違った相手の半数が思わず振り返り、残り半数は慌てて道を開け、深く頭を下げた。
それを横目に見ながら――私は肩で風を切るように、堂々とした足取りで廊下を歩いていく。
ここで、私の事を知らぬ者はいない。
ここで、私の事を畏れぬ者もいない。
『月の頭脳』――そう呼ばれてから、いったいどれ程の年月が過ぎたのかしら。
私の見た目は、ここで働く者にとって、まだ少女の域を抜け出した青二才にしか見えないと思う。
まるで光を選りすぐり、一本一本束ねていったような透ける銀の髪を三つ編みにして。
少しだけ反抗的な鋭さを秘めた表情の私は、今年から皇宮で働き始めた新米とならべても何ら違和感は無い。
自分の実力と自尊心に絶対的な自信を持ち――まだ、譲歩するという余裕を知らない若き精鋭たち――
けれど。
この建物で、私は間違いなく最古参の人間。
なぜなら私は、この皇宮が建てられた時に――その場に居合わせていたのだから。
私の名は、八意永琳。
気の遠くなるほど昔から生き続ける『月の頭脳』。
永遠にその歩みを止めない『終わりなき者』。
この皇宮に関わる全ての者が、尊敬と畏怖をもって接する者――それが、私。
足を止めずに――透き通った廊下の天井から、私は空を見上げた。
そこには、ぞっとするほど黒い空と、膨大に散りばめられたの星々の輝き。
そして、静謐な闇の中に浮かぶ、大きく美しい蒼の円盤。
それは、この月から見た地上の姿。
何時の頃からか、暇さえあれば私はあの蒼い星を見上げることが多くなっていた。
……きっとそれは、親近感のようなものだったのかもしれない。
何故なら、私は――
「――なんで、怒ってるの?」
がらんと広い廊下に――その声は、よく響く。
辺りには私以外の誰もいなかったから、それは私に対してかけられた言葉だったんだろう。
それは、幼い少女の声だった。
それが、妙に私の気を引いた。
私の視線の先にいたのは、その声に違わず――まだ年端も行かない、一人の少女。
つやつやとした長い黒髪を垂らしたその少女の笑顔は、子供特有の愛嬌がたっぷりと感じられる。
まだ、女性特有の美しさは微塵も感じられない。
それでもあと数年もすれば――輝くような美しい女性に育つだろう、そんな少女。
……思えば、不思議な夜だった。
皇宮にこんな幼い子供がいたことに、普段の私なら疑問を持ち、まともに取り合おうとはしなかった。
しかし、この時の私は何故か――少女の言葉に、立ち止まっていた。
「……怒っている……私が?」
「だって、とってもこわい顔してるよ? そんなに――きれいなのに」
台詞だけを考えれば、まるで一昔前の口説き文句の様な言葉だった。
しかし、それを口にする少女の大きな瞳は――あまりに、真っ直ぐ私を見るものだから。
少女の瞳の中に映る、私の表情は――確かに少し、怖かったから。
「……なら――これで、どうかしら?」
引き締めていた頬を緩め、真一文字に引き結んでいた唇に――緩やかな弧を描かせる。
少女の瞳の奥で、穏やかな笑顔を浮かべる私の姿が見えて。
「うん――もう、こわくない」
少女はまるで、満月のように柔らかく――華のように可愛らしい笑顔を咲かせた。
それが、姫様と私の――最初の出会いだった。
人妖弾幕幻夜 東方永夜抄 〜 Imperishable Night.
Eirin Yagokoro -“永”き罪を、紅に刻んで-

待宵 -月の頭脳-
八意家といえば、月でその名を知らない者のないであろう、薬師・医師の名門中の名門。
遥かな昔から、数々の優れた薬師や医師を世に送り出し、現在の当主である人物も名の知れた薬師である。
そして、私の名前――『八意 永琳』の名が示すように、この私もまた、八意家に関わりを持っている。
ただし、『八意家』は世間に広く認知されていても――『八意 永琳』を『外』で知るものは誰もいない。
「永琳様。ご注文の薬草と器材――それから調剤を頼まれていた新薬の試供品です」
「ご苦労様――そちらの棚に並べておいていただけるかしら」
八意家で、世間に知られている部分を『表』と表すのなら。
世に知られていない、私という存在は――八意家の『裏』と呼ぶのが相応しいのかもしれない。
表の八意家が、大衆のために薬を作り、患者を診ているのとは対照的に――
裏である私は、高貴な身分の方達だけのために薬を考え、病気を診る――皇室専門の薬師である。
「永琳様、ご依頼のあった資料です――纏めておきました」
「有難う。……ええ、これなら充分ね……この辺りの事を調べておきたかったのよ」
もっとも実際のところは、本来の仕事の合間に、余暇として『表』用の薬剤を考案してたりするのだけれど。
皇族というのは数が少ないし、健康にも気を配った食事を摂り、たっぷりと睡眠もしている。
非常に健康的な生活を送っているために、あまり病気にかかることもなく――平たく言うと、暇なのである。
「それで、次にご注文いただける品はどのような感じでしょうか」
「ん……そうね。まず、いの一番で足りなくなってるのが――」
てきぱきと指示を出し――細やかなところまで、きちんと説明を加える。
この診療所を兼ねた研究室は、私の第二の家であると同時に、私の戦場。
自然、表情も意識も引き締まるのを感じ――
「…………永琳……?」
その、遠慮がちな声に――ふっと、顔を上げた。
部屋の入り口から、僅かに顔を覗かせてこちらを伺う黒髪の少女の姿。
私はふっと表情を緩めて――席を立ち、少女の下に歩み寄っていく。
「わざわざ訪ねに来られたのですか?」
目の前でしゃがみ込み――同じ高さに視線を合わせると。
少女は遠慮がちに、こくりと頷く。
その姿が、いじらしくて――私は優しく少女の頭を撫でると、
「それでは、ここで立ち話もなんです……少し場所を変えましょうか」
少女の小さな手を取り、私はゆっくりと立ち上がる。
「次に入荷して欲しい薬品のリストはその書類に纏めてあるわ――お仕事、ご苦労様。もう下がっていいわよ」
私のこの行動にぽかんとなっている業者の者に振り返りそれだけを告げて、私達はそのまま部屋を後にした。
「永琳……お仕事中じゃなかったの……?」
皇宮の廊下は広い――特に中庭に面した部分は大きく窓が設けられ、この時期には温かい風が香しい花の香りを連れてくる。
そんな中を歩きながら、少女は不思議そうに私を見上げ、聞いてきた。
「仕事といっても、あれは半ば趣味の範囲ですからね……問題ありません」
「そうなんだ……」
「ええ。つまり、ああ見えても大概は暇ということです」
「そういうこと言ってもいいの?」
「いいのですよ、たまには」
この、満月のように白い肌に夜のような輝く黒髪を持つ少女の名は「カグヤ」。
名が片仮名なのは、まだ成人としての年齢に達していなく、その名前に値する漢字が与えられていないため。
そんな年端もいかない子供が、何故この皇宮にいるのか――
「私の本来の仕事が忙しくなったら――それこそ一大事です。
それはつまり、貴女や陛下の身に何かが起こっているということなのですからね」
それは、彼女もまた、皇族の一人だから。
しかも、皇族の中でも最重要中の最重要人物――現在の皇の一人娘。
いずれは皇の後を継ぎ、女皇としてこの月を統べるべき尊き御身ということになる。
「――今度からは、もっと気安く声をかけて下さっても大丈夫ですよ」
私の言葉に――姫様はぱちくりと目を数度瞬かせる。
「気付いてたの!?」
「いえ。……でも、私に遠慮して、ずっとあの場所で待っていたのでしょう?」
私の言葉に――姫様は恥ずかしそうに目を背けて、こくんと頷く。
その姿がとても微笑ましい。
「……しかし、姫様も随分と変わってられますね」
「……?」
「貴女様は姫で、私は臣下の一人。
私も数々の姫を見てきましたが、そう遠慮なさらずとも――」
「……そういうのは、あんまり好きじゃないの」
姫様の表情が、その話題に移った途端、はっきりと曇ったのが判った。
だから私は、そんな姫様を――ぎゅっと抱きしめる。
「なら、尚更ですよ。子供が大人に対して、遠慮することなんて無いんですから――ね?」
暖かい匂いのする、小さな少女は――私の腕の中で、嬉しそうに頷いた。
それからも、姫様はよく研究室に足を運ぶようになっていた。
私も私で、どうしても外せないような用件の場合以外は、出来る限り姫様の相手になった。
皇宮で働く職員達は最初、私のこの態度に何故か随分と驚いていたけれど――
やがて「私は姫のお気に入り」という理由をつけて納得したらしいようだった。
果たして「お気に入り」かどうかは知らない。
ただ、姫様は私と一緒にいるのが楽しそうで。
そして私も、姫様と一緒にいることが楽しかったことだけは確かだった。
やがて姫様が成長し、皇として恥ずかしくないような人物になるため、数々の講師を呼び、学問を修めるようになった。
私も薬学の分野において、教鞭を振るうことになり――それにより、さらに姫様と関わりあいになる時間が増えた。
いざ勉強を教える身になって知ったこともある。
姫様は、単なる皇の一人娘にしておくには勿体ないほど、数々の分野において才能を発揮した。
まるで、乾いた土地に水が染み込むような勢いで、教わった事をどんどんと吸収し、自らの知識へと蓄えていく。
単に記憶するだけではない。その知識を応用し、活用する術にも非常に長けていた。
私も『月の頭脳』などと呼ばれ、それなりに自分の頭の冴えには自信があったほうだけど、
その私でさえ、果たして姫様の年頃の頃にこれほどまでの賢さを持っていたとは思えない。
学問と治世の才が直結しているわけではないけれど、この時から姫様は、希代の名君になるだろうという期待の眼差しを一身に受けていた。
実際、永らく皇宮に居座る私も、姫様以上の才覚を持った皇は見たことは無かった。
しかし、姫様は確かに賢く、公の場では正に『絵に書いたような賢姫』という姿を保っていたけれど。
実際は、年相応の子供らしいわがままを言ったりすることがある事もあった。
そういった場合、他の講師なら、懇々と姫の在り方について説教をするか、二つ返事で聞いてくれるかの二つの反応しか無かったらしい。
私の場合は、少し違った。
例えば、授業を休みたいといった際――単に面倒くさいからなどといった場合、それを許すことは絶対にしなかった。
しかし、ある時の姫様が授業の休止を願った際――
「折角満開の桜が咲いたのに、全然見にいけなくて……ほんの十分でいい、見に行きたいんだけど……駄目?」
――私の授業の担当時間は、たまたまその日の一番最初にあったんだけれど――
結果として姫様は、その一日の授業を全て無断欠席することとなった。
他ならぬ私自身が率先して姫様を誘い、日が暮れるまで花見に興じていたからだ。
当然、私も姫様もこっぴどく叱られたが――わがままを通すのに、犠牲というものはつきものというもの。
あの日一日に受けるはずだった授業の内容より、一緒に見た桜の美しさのほうがずっと価値があったと、後で顔を見合わせてこっそり笑ったりもした。
私は姫様に甘い人間だったのかもしれない。
ただ、私は「姫だから」という理由で彼女を甘やかすことは絶対にしなかった。
姫様は「姫だから」という視点や考え方で自分を取られたり、それを利用することが嫌いなようだった。
だからといって、自分が姫である事を否定するほど愚かではなかったし――姫だからこそ持ちうる力の使い道も熟知していたけれど。
その気持ちは、私も判らないわけではなかった。
私もまた――姫様と同じだったから。
『月の頭脳』『終わり無き者』。そういった私の側面に畏怖するか、媚び諂うか。
なまじ、皇よりも遥かに昔から生き続けているという立場からか、それは皇相手でもそう変わらなかった。
私を、遥か昔から生き続ける賢人として崇めるか――それとも自らの部下としての扱いを徹底するかの二つでしかない。
姫様のように真っ直ぐに私を見てくれた者は、誰もいなかったから。
私は姫様が、心から愛しかった。
私を慕ってくれるこの少女を見ていると、まるで昔に戻ったような気がして。
まだ私が、他の皆と同じ『終わりある者』だった頃に。
周りの皆と同じ場所に立ち、同じ足取りで歩く、ただの『永琳』である私を見てくれていたあの頃に戻った気がして。
私は、この体になってから恋愛も結婚もしなかった。
もう大分、直接的な血の流れも薄れつつある、『表』の八意家の人間が亡くなるだけで、心は痛むというのに。
自分が愛した人が、自分より先に逝ってしまう。
そして、その愛した人との間に育んだ子までもが、私より先に亡くなる。
その痛みに耐えられるとは思えなかった。
だから私は、決して口には出来ないけれど――姫様を、自分の娘のように。
自分には持つことの出来ない「子供」を授かったような、そんな気分で姫様と接していた。
だから。
「永琳って、まるで私のお母さんみたい。
本当のお母様より、乳母達より……ずっとずっと、暖かくてやさしくて……大好きだよ」
そんなことは、決して口にしてはいけませんと――嗜めながらも。
その言葉が、凄く嬉しかったのを今でも覚えている。
