人妖弾幕幻夜 東方永夜抄 〜 Imperishable Night.
Keine Kamishirasawa -歴史喰いの“歴史”-

6.幻想の世界
永遠に目覚めることなど無い眠りに、私は転がり落ちたはずだ。
だとすれば。
今、うっすらと開けた目に映る、見知らぬ天井は一体何なのだろう。
相当深く眠っていたらしく、全身に動きを働きかけても、まるで言う事を聞かない。
まだ半分以上眠っている意識では、まともに考えも纏まらない――
半身を起こすまで、結果として五分以上の時間をかけることとなった。
そしてやはり、寝かされていたのは見知らぬ家の布団――寝かされていた私は、最後に倒れた時とは別の着物に袖を通され。
そして一番驚いたことは、全身、あれほどあった怪我全てにびっしりと治療が施されていたことだろう。
左肩のあの屋も、鏃を抜かれ、しっかりと包帯が巻かれていて――
「これこれ、まだ起きちゃいかん」
その声に、振り返る。
そこにいたのは、相当な年齢になるだろう老翁。
しかし足腰はしっかりと立ち、枯木のような手はよく動いた。
老翁の体から匂う、この独特の香りは――漢方――
「……この治療は、貴方が……?」
「そうじゃ。……まったく、一体どのような事をすればあれほど体を酷使できるのやら……。
あと少し治療が遅ければ、その左腕――今頃は使い物にならんところだったわい。
それでなくとも、お前さんの全身悲鳴を上げておる。今はゆっくり、体を労わってやらんか」
優しいが、力強く半身を押され、私は再び枕に頭を沈める。
はだけてしまった布団をかけなおす老翁の様子には、恐怖や嫌悪などを欠片も見ることは出来ない。
どうやら、あの村とはまったく無関係の場所に迷い込んだらしい。
この山脈の奥に、人間の集落が存在していたことには驚きだったが――
「普通の人間なら、とうにくたばっておる。見たところ妖怪でも無いようじゃが――はて、これはどういうことじゃのう?」
――は?
私はもう少しで、そのまま鸚鵡返しに聞き返しているところだった。
この老翁は今、何と言ったのだろう?
今、全く何気ない様子で「妖怪」と口にするとは、一体どういう――
「――で、この人間はいつになったら食べていーの?」
「!?」
唐突にかけられた声に、ぎょっとなって振り返った。
この部屋に、老翁以外の誰かの気配を感じることが無かったからだ。
しかし今、部屋の隅の暗がりから聞こえてきた声――そこにいたのは、一人の少女。
金色の髪に、紅い瞳――銀髪の私が言うのも何だが、一瞬鬼子か何かと思った。
だが、そうではない。それどころか、人間でさえなかった。
人の様に服を着て、能天気に老翁に話しかけているが、この「匂い」は間違いなく――妖怪だ。
にもかかわらず。
老翁は、大して気にした様子もなく――妖怪の少女に普通に話しかけていた。
「人は食べちゃいかんと言っておろうに……それにこの娘は人間とは違う生き物じゃぞ」
「そーなのかー」
「ほれ、行った行った。……鶏や牛なら、適当に見繕って喰っても構わんから」
「んー」
老翁の、それでもよくよく考えれば物騒な提案に、少女の妖怪は何か考え込んでいたようだったが。
やがて何も考えていない様子で頷くと、そのままとんとんと部屋を後にしていく――
後には老翁と、完全に呆気に取られた私の姿があるだけだ。
「お前さんを拾ってきたのはあの娘でな。別にいつでも構わんから、一度くらい礼を言っておいてやると――」
「ご……ご老人!?」
「ん……どうした? 何をそんなに驚いておるんじゃ?」
「貴方は自分のやってることが判っているのか!? 今の娘は、人間では無い――妖怪だぞ!?」
「そうじゃな。人肉を喰らうのが好みの宵闇の妖怪――しかも随分と食い意地のはっとる子じゃ」
今日の味噌汁の具は大根だった――まるでそんなことを口にしているかのように、あっさりと言ってのける老翁。
「ご老人……ひょっとして、貴方は妖怪相手にも、医者業を営んでおられるのか……?」
「ふむ……頼まれれば、確かにそうしておるが――ん、どうした布団に突っ伏して?」
こうもあっさりと言われては――返す言葉も見つからない。
「……貴方は、魔界の住人か何かか……?」
「人並み外れてしぶといお前さんにそう言われるとは思わなんだぞ。
まあ、人の世界からやってきたのであれば、お前さんの目に随分と此処は奇異に見えるんじゃろうがな」
――私は、冗談として「魔界」などと口にしただけだったから。
老翁が「人の世界」と口にしたことに驚き、一体どういう意味なのか尋ねようとする。
だが、それよりも一歩早く、老翁は私の心を見透かしたように――口を開いた。
「此処は『幻想郷』――幻想の生き物達が暮らす場所じゃよ」
妖怪と人間が、一つところで共存している。
それは私にとって、完全に夢物語――幻想世界の、話だ。
しかしまさか、この深山にひっそりと存在する里が――人の世界とは異なる、幻想の世界などとは――
老人の言葉だけでは足りず、私は疲れた体に鞭を打って力を解放すると、この「幻想郷」の歴史を調べた。
そして、更なる衝撃に打ちのめされる。
妖怪だけではない。
妖精や精霊といった、正に「幻想の生き物」と呼ぶべき存在が、この幻想郷には無数に存在し。
そして、彼らと人間達が、本当に此処では共存しているのだ。
……私の知る、世界――人間界のそれらとは、全く違う関係を結び。
人間は脆弱ながらも、この幻想郷にとって欠いてならない存在として、駆逐されることも無く共存している――
「……お前さん……その格好から察するに、ひょっとして人の世界を追われてきたのか?」
老翁の言葉に――こくりと頷く。
そんな私を見つめる瞳は、何故だかとても暖かいものを称えていて――
「……そうか……さて、それならばどうしたものかな」
顎をしゃくって、暫くの間考え込む。
「傷が癒えるまで、此処に泊まっておるのは構わんが……ただ飯を食わせるほど、わしも儲かっておらんからな。
……お前さん、何か得意なことのようなものは無いのかな?」
「え……?」
「働くのなら、全く知らん事をやるより、経験があることのほうが馴染みやすいじゃろうに」
働く。
……それは――
「……私は――此処にいて、良いのか……?」
――駄目だと、頭の中で声が響く。
それは、私の正体が人であると思い込んでいるから口に出来る言葉。
もう、私は誰も――傷つけたく無かったから。
「ご老人が、先刻指摘したとおり――私は人間ではない。……満月の夜に、異形の姿となる半獣だ」
人間でも妖怪でもない、狭間の異端。
そんな私が、誰かと共存できるなど――それこそ、幻想でしかないというのに――
私の言葉に、老翁は困ったように首を捻る。
「異形、のぅ……お前さん、満月の夜には理性を失うのか?」
「いや、そういう訳ではないが……」
「では毒を吐き散らすのか? 雷を落し、炎を吐くか?
はたまた、厄介な疫病でも流行らせるか――ああ、自分で言って何じゃがそれは困る。
患者が増えるのは構わんが、増えすぎると手に負えんからのう」
冗談めいた、どこかずれた様子で――しかし本人は至って真剣に言葉を選び、真面目に悩む老翁の姿。
私を全く怖がらない、その様子。
……これでは。
これではまるで、此処には私の居場所さえ、あると言わんばかりに――
「……何故だ……?」
「……ん?」
「何故、私が怖くない……私は、半獣なのだぞ!?」
「怖くないなどと誰が言った。怖いに決まっておろうが」
しれっと、老翁は呟き――
「しかし、お前さんはわしと初対面じゃ――別に敵意を抱くとか、殺したいとかは考えておらんじゃろう?
ならお前さんはただの重態の患者で、わしは医者。面倒を見んで、それこそどうする?」
からからと、笑う。
「……それにな。お前さんが、外で果たしてどのような扱いを受けてきたのか、わしには想像もつかんが……」
そう呟く老人の瞳は、温かい輝きを称えて。
使い込まれて、すっかりごつごつと硬く乾いた掌が、少々不器用に私の頭を撫でる――
「居ることに、いちいち咎めを立てるような狭量な者は――此処には、居らんさ」
……その手は、あの夕日を思わせるような力強さと――暖かさで。
「ただそこに居るだけのことに、一々理由が必要など……随分と不健康な話ではないか。……なぁ?」
……何気ない、その言葉。
その言葉を口にさせた、老翁の心は。
……もう二度と、感じることのないものと思っていた、あの頃の人間達の暖かさと同じで――
「――せんせい!」
その時、部屋の中に誰かが駆け込んでくる。
この集落の子供だろうか。なかなか利発そうな顔立ちをした少年だった。
「何じゃ、坊か……入ってくるなと言うておったろう? 此処におるこの娘さんは絶対安静なんじゃぞ」
「ご、ごめんなさい……でも」
よほど息もつかず、此処まで走ってきたのだろう。そこで言葉を切り、俯いて苦しげに肩を上下させる。
老翁が背中をさすってやると、落ち着いてきたのだろうか――それでもひぃひぃと、喉を鳴らしながら。
「お姉さんが倒れてたってところで、こんなものを見つけて――」
少年はそう言って、後ろ手に持っていたものを差し出す。
「これ……お姉さんのものじゃ、ないですか……?」
――ところどころが汚れている、菫の押し花、一輪――
そしてそれを差し出す少年の姿に、あの日の少年の姿が重なって。
かさかさに乾き、凍えていた心に。
――じんと、響いた。
まるで堰が決壊したように。
感情が、溢れ出して――止まらない――
「っ!? お、お姉さん……どこかいたいの!? 大丈夫!?」
俯いて、肩を震わせた私に。
心配そうに少年が歩み寄ろうとして、その肩を老翁がやんわりと止めた。
振り返った少年に、軽く首を――横に振る。
……助かった。
今の、私の顔を――あまり見られたくは、無かったから。
ぎゅっと、握り締めた布団に――ぼつぼつと、大粒の涙が零れ落ちる。
今までせき止めていた想いが決壊するように。
今まで、泣けなかった分――私は、泣いた。
