人妖弾幕幻夜 東方永夜抄 〜 Imperishable Night.

Keine Kamishirasawa -歴史喰いの“歴史”-




5.人と妖の狭間で



肩に突き刺さった矢は、大型の動物を狩るときに使う特別な鏃を使っていた。
射抜かれた後も暴れる獲物から、矢が抜けないように特殊な返しがついていて、動けば動くほど鏃は傷に食い込んでいく。
そして、矢の羽根の重みに振り回された鏃は遠慮なく肉を引き裂き、神経に鉛を溶かし込んだような激痛を与え続けるのだ。

その特殊な鏃のせいで、引き抜くことは、諦めるより他に無かった。
仕方なく、矢を中ほどから折ってしまうことで、それ以上の傷の拡大を防ぐ。
それでも、痛みが続くことには変わらない――気を抜けばそのまま、意識さえ引き裂かれそうになる。

だが、それでも私は立ち止まらなかった。

もう村人達の罵声も、持っていた松明の炎も見えなくなっていたが。

山脈の奥へ、突き動かされるように歩き続けて。


――ずっと――考えていた。




あの時の、眼。
――彼らの瞳を支配していた、恐怖。

無理も無い話だと、思う。

私の力は、確かに強大だ。
妖怪の中には、私の力など簡単に跳ね除けるような者も存在するが――
人間達にとってみれば、瞬く間に彼らを血祭りに上げることも造作も無いこの力は、脅威以外の何者でもないだろう。

そして恐らく、彼らがこれほどまでに私を恐れ、憎むのは――

私に、半分は人間としての姿が存在していたからではないのだろうか。

――あの時間、あの瞬間まで、村人達は誰一人として私の正体に気付けなかった。
私の事を人間だと、自分達と同じ存在だと――思いこんでいた。

同じ存在であるからこそ、心を開き、打ち解けていたのだ。

だが、私は彼らとは同じ存在ではなかった。

こんなにも、似ていながら――彼らとは決して共有できない部分があった。


それが――全ての元凶だったのだ。


私の姿が、それこそ身の丈何尺もあるような異形の姿だったなら――最初から恐怖し、距離を置けばいい
私のこの力に見合うだけの――人とは明らかに違う、異形だったならば。

しかし私は、何食わぬ顔で、人と同じような顔をして。
彼らの警戒心を解き放ち――彼らの中に、潜り込んでいた。


人に似た顔の下で、人と同じ言葉を紡ぎながら――何を考えているのか判らない存在。
しかもそれは、途方も無く物騒な力を持ち合わせているのである。


人間は、弱い。
弱いからこそ、彼らは集団で生活し――自分達と同じモノ同士で、寄り添い合う。
それは、彼らが同じ「弱さ」を共有しあっているから。
弱い場所を見せ合うことで、互いに敵意が無い事を示し――同じ弱さの形を共有し会うことの連帯感が、仲間としての意識を強めていく。
そして、そうであるからこそ――彼らは陰の可能性に、酷く敏感になる。

隣人が、瞬きをする間にもこちらを殺すことのできる力を持っている。
彼らにとって恐ろしいのはその「力」であり、殺すかもしれない「可能性」なのだ。

例え、その隣人が心穏やかな人物であっても。
どれだけ人格的に高潔な人物であっても――関係無い。

――いつ、こちらの予想を裏切って牙を向くか判らない。
人間じゃないから、自分達とは別の存在だから、信用することなど出来ない。


何せ、その気になれば彼らは、抵抗する暇も無く自分達を殺すことが出来るのだ――


その、潜在的な恐怖。
陰の可能性が疑心暗鬼を生み、やがては「殺さなければ自分達が殺される」という執念に変わっていく。


――あの村人達のように。


それが、人間の弱さ。
最も悲しく、哀れで――醜い、側面の一つ。


……そこまで判っていて。
何故、私は――それでもなお、人間に関わる事を止められなかったのだろう。
何故、人間達に牙を向こうと思わなかったのだろう。

あの時、あの瞬間――私のあの姿を見た全員の歴史を操り、記憶を弄って忘れさせることも出来たというのに。
何故、私はそうしなかったのだろう――




ただでさえ足元が不安定な場所で、考え半分に歩いていたのが仇になった。
気づいた時には、木の根に足を取られ――私は派手に転倒してしまう。
森の腐葉土は柔らかく、怪我をすることは無かったが――代わりに、降りていた夜露に着物が汚れる。

……だが、その泥の汚れが気にならないほど――今の私の格好は、酷い有様だった。

木々の間を走りぬけ、矢で貫かれた着物は最早ぼろのように大きく裂け、血に滲んでいる。
ところどころ露出した肌も、痣や擦り傷が絶えず、矢の掠めた場所も裂傷が酷い。
履いていた筈の草履も、いつの間にかどこかに消えて、むき出しになった足の裏は皮がずるりと裂け、ひりひりと腫れていた。
今更此処に、泥や木の葉の汚れが加わったところで、一体それが何だと言うのだろうか。

――だが。
転んだ拍子、手放してしまったものがあった事に気付いた時。

手にしていた菫の押し花が土に汚れてしまった時の私の慌てぶりは、自分で考えても酷いものだった。
慌てて拾い上げ、汚れを手で払う――幸い、さほど汚れていない。

安心して、ため息が漏れる。

だが、何故私は、こんなものをまだ後生大事に取っているのか。

これをくれた、少年は――先刻、私を殺さんと矢を番えていた。
そのうちの一本は今も、私の肩に突き刺さり、傷口を開いている。
私が半獣でなかったなら、これほどの痛みと出血に、とうに命は尽き果てていたはずである。

この花を見て、逆に人間達への憎悪や殺意を抱いたところで――誰がそれを、咎めることができるだろうか――?

……だと、いうのに。
不思議なもので、どうあっても、これを捨てることなどを、私は考えられなかった。
随分と年月を重ね、少し色褪せた菫の先にあるのは――顔を真っ赤にしていた、あの少年の姿。

そして、あの時感じた「嬉しい」という感情――


……そうか。
そういうことだったのか。

私は、あの時のことが忘れられなかったのだ。
先刻、あれほどの仕打ちを受けながら。
あれほど醜い一面を見せ付けられながら、それだけが人間の全てではないと、誰よりも知っていたから。
残酷な面と同じだけ、美しく、暖かい心も持っている事を、誰よりも知っていたから。

その、心と姿に触れて――救われた私がいたことを、誰よりも知っていたから。

今も、痛む左肩がありながら――それでも、人間達に復讐したいとか、そういう気持ちには慣れなかった。



人間達のそういった「弱さ」が存在することは、仕方が無い。
あの醜い部分があるからこそ、美しく、優しい部分も持ちうるのだから。

その二つを、まとめて――人は人たりえるのだ。

人間と妖怪、その二つの側面を合わせて、私という存在がいるように。


思えば私は、どうしようもないほどに半端者だった。

最初から、妖怪にも人間にもなれぬ存在であると知っていたのに。
妖怪としての誇りと矜持だけで孤独を耐え抜けるほどに、私は強くなく。
人としておとなしくあの場で殺されてやるほど、私は弱くもなかった。

最初から、拒絶と絶望に打ちひしがれる結末があることを知っていたのに。
もし私が、もう少し愚かだったなら――あの場にいた人間を素直に憎み、復讐を考え、憎悪に身を委ねることもできた。
もし私が、もう少し賢かったなら――予見したあの内容を忠実に護り、最後まで人間に関わらず、ひっそりと穏やかに、今もあの場所で生きていけた。

中途半端に生まれ。
中途半端に強く。

中途半端に、賢かったから。

私はどちらに溶け込むことも出来ず、かりそめに得ただけのものを失ったことに傷つき。
こうして傷を負い、最初から知っていた通りの結末通りに、拒絶され――山の中を、あてもなく彷徨っている。


……幻想を、信じてしまった。
人間と共に、いつまでも暮らせるという、幻想を。

この世界の何処にも、そんな幻想など存在しないというのに。


私は本当に、中途半端に、愚かだ――


そして私は、それを理解してもなお、半端者だった。
悲しみに暮れるほど、弱くなく――達観してしまえるほど、強くも無い。

涙も、出そうになかった。

だから私は、すっかり乾いてしまった心から湧き上がる衝動に従って――笑った。

自らの情けなさに。
自らの中途半端さに。
こんなにも、どうしようもない私の可笑しな生き様を――私は、笑った。

涙は無い。
そんなものは、もうからからに乾いた心の何処にも見出せない。

ただ、かさかさに乾いた唇から――低く静かに、私は笑った。


もうこれ以上、失うもののない私の未来を――私はいつまでも、笑い続けた。








……それから、どれだけの時間がたったのか。
どれほどの距離を歩いたのか――私は覚えていない。

もう、どうでもよかった。
私自身のことなど、どうでもいい。

突き詰めた答を知ってなお、中途半端な私は、死ぬことも生きるために抗うこともせず、歩き続けるだけだった。

行けども行けども、木々が茂り、光さえ差さない森の中を歩き続けた。

この頃になると、もう体に感覚は殆ど残っていなかった。
棒の様に硬く、汚れた足をつっかえるように前に突き出し、生えている木々にもたれかかるようにして、一歩一歩歩く。
その先に何があるかも知らないし――知ろうという気にさえ、ならなかった。

まるで空を切り裂くように高い山脈の空気は冷え、吐く息は凍えるように白い。
ぞっとするほど冷たくなった体は、矢の食い込んだ左肩だけが、まだ焼けるような痛みを熱さのように訴え続けていた。
もう、私が生きていることを実感できるのは、命を削るこの左肩の傷の痛みだけだった。
流れる血と共に、命さえ流れ出てしまっているかのような錯覚を覚えていたが、それもだんだんと薄れ始めてきている。

いつになったら、終わりが来るのだろう。
いつになったら、私はこの足を止めて楽になれるのだろう。

すっかり鈍くなった頭で――そんな問いを、誰にも会う事無く、一人でのろのろと続けている。

この山脈には、多数の妖怪が住んでいるはずだったが――私は一度も彼らの姿を見て取ることは出来なかった。
取るに足らないような、下級の妖怪でさえ一匹も見ていない。
恐らく彼らは、私の姿を遠巻きに眺めているのだろう。

私の命が尽きた時――その屍を喰らうために。

もう、居場所の無い私には、こんな命などどうでもいいはずのものだというのに。
そう思うと、まだ足が動いた。

血に汚れないよう手に持った菫の押し花に目をやると、引きずるように重い体がまだ動いた。

私の心は、一体何を感じ、何を思っているのだろう。
自分自身の心さえ判らなくなっているほど、私は乾き、壊れる寸前だった。


しかしそれも、やがては限界が訪れる。
張り詰めていた最後の糸が、ぷつんと切れるように。
死に至る傷は、決して癒える事が無い――それを証明するかのように。

私は、その場に崩れる。

一度止まってしまうと、もう一歩も先に進む気ににはならなくなった。
このまま土の中に埋もれて、分解されてしまっても構わない。

いっそ、そうなってしまえば。
屍になり、土に還ってしまえば。
私にも、ようやく居場所というものが出来るのかもしれない。


そう思うと、この死を誘う眠気さえ――とても心地の良いものに感じた。