――紅い。
紅い夕日が、今日もまた西の空に沈もうとしている。

妹紅なら、この夕日を眺めて血の色だと苦笑を浮かべ――
あの吸血鬼なら、自らの刻限の始まりを告げるこの紅を喜ぶのだろう。



沈む夕日の紅は、世界の何処で眺めても変わらない。



変わっていくのは、それを見つめる者の心の方だ。




そう、それは。

……私が、幻想郷にたどりつく前のことに、なる――




人妖弾幕幻夜 東方永夜抄 〜 Imperishable Night.

Keine Kamishirasawa -歴史喰いの“歴史”-




1.目覚め



私には両親の記憶というものが無い。
気が付いた時には、私は今の姿より僅かに幼い程度の姿で、はっきりとした自我と知恵を持ち、山の中で一人立ち尽くしていた。
これが、生まれた時には幼く、親の庇護が無くては生きられぬ人間と妖怪との大きく異なる点だろうか――
勿論、妖怪が生まれた際の状況を統計で調べたわけではないから、私だけがこのような形で生まれてきたということもある。

ともかく、私には両親の記憶も、幼かった子供の頃の記憶というものも無い。
記憶に残る最も古い記憶の頃から――私は慧音という名と、銀の髪を持つこの体。
白沢としての力――歴史を喰らい、創造するこの力。

そして「半獣」という異端の烙印を背負って――私は生きてきた。


私がいたのは、この辺り一帯に広がる長い山脈へと連なっていく山の一つで――麓には小さな村が一つ、ひっそりと開いていた。

山脈には、人を寄せ付けぬ鬱蒼とした自然と妖怪達が。
麓には、開けた土地と村、人間達が。
互いの領分を侵害せぬよう、顔を突き合わせることも無くそれぞれ暮らしていた。

そんな二つの種が、互いに干渉せぬよう引いた境界線で私が目覚めたのは、一体何の因果だったのだろうか。


白沢は歴史に通じ、そうであるが故に万物に通暁し、森羅万象を知る存在だという。
……そこまで仰々しいかは知らないが――私が、他の者よりは多少、物知りであったのは確かだった。
そうであるがゆえに、悲しいかな――目覚めた時から、私は既に知ってしまっていた。
自分が、妖怪の中にも人間の中にも入り込むことの出来ない存在だと言う事を。


例えどちらか一方と親密になれたとしても、それは刹那の事に過ぎない。
やがては、親愛は嫌悪に変わり、掌を返したような拒絶と絶望感に、打ちのめされるだけ――


私は、この人間と妖怪の境界で、存在を知られぬように生きていくのが似合いなのだ。
私が他者に馴染めない要因は、場所や後天的な人間関係に拠る所ではないから。

そしてそれは、何も此処だけに限ったことではなかった。
例え世界の何処へ行こうとも、私には共存できる誰か、許される「居場所」などはない。
そんなものは、所詮幻想の中の出来事に過ぎない。

何処にいても、弾かれる存在なのならば。
何処にいようと、変わらない。宛も無く世界を放浪しても、此処に居を構えて生活したとしても。

だったら、わざわざ動く必要は無いと私は判断した。

幸い山は森の木々や草木で鬱蒼と茂り、見通しは悪く、道らしい道も無い。
後ろの山脈に済む妖怪達の存在も手伝って、不用意に村の人間達が入り込んでくることも無い。
――考えてみれば、案外理想的な場所だった。


私の、妖としての半身――「白沢」としての力は、歴史を喰らい、創造する力である。
数々の知恵の集約である「歴史」を自在に操るということは、私は生まれついた時から様々な知識を会得していた。

生きるための知識にも勿論、精通していた。

月の殆どを人と同じ姿で過ごすのならば、妖怪よりも人間の生活を参考にするべきだと私は判断した。
そこで、自分自身の力を図る目的も兼ねて、人が暮らす時のように、小屋と衣服、生活のための道具を揃えた。
勿論、人間にも妖怪にも目に付かない場所に居を構える必要があったが――それこそ「白沢」としての真価の見せ所だ。
麓の村は土地が痩せていて、そのためにこの山へ、野性の動物を狩る猟師たちが時折足を運ぶことはあったが、
山脈の妖怪を不必要に刺激せぬよう、狩りは山の低いところで行われていたし――
彼らが、長年の狩猟の際に踏み固め、出来上がった獣道の網目から外れた場所を探すのも、私にとっては造作も無いことだった。

野兎を狩り、時には猪のような大きな獲物を狩っては、誇らしげに村に帰ってく人間達の姿をそっと眺めて。
私は静まり返った山の中で――西の空に落ちる夕日を眺めて過ごすのが、いつの間にか日課の一つになっていた。

夕焼けは、切り立った山脈にも、麓の村にも――この山にも、等しく降り注ぐ。
妖怪も、人間も――その狭間の私にも、分け隔てなく注がれる、紅の輝き。

こんな私でさえ、まるで母のように――紅い腕で、優しく包み込んでくれているようで。
空に浮かぶ夕焼けの紅だけが、私の存在を知り、認めてくれる、たった一つの存在だった。

陽が紅に染まってから、空の果てに沈むまでの僅かな時間。
必ず私は、眺めて過ごした。







そんな風に生きるようになって、何年も過ぎた頃。
煌々と輝く月明かりの元、夜の山の中をこっそりと散歩していた時のことだ。
こんな時間には、酷く不似合いなものが聞こえてきた。

子供の泣き声だった。

声のするほうへ足を向ける。
見た目は少女でも、半獣の私にとって、この山を走破することなど容易い。
程なくして、私は泣き声の元凶を見つける――そこにいたのは、大きな声で泣き叫ぶ数人の人間の子供達。
恐らく大人達の目を盗み、勇み足で山の中を探検して、そして帰り道が判らなくなってしまったのだろう。
この山には狼などは出ないが――それでも子供達にとってみれば、こんな山の中、光の無い場所に取り残されたのでは怖いに決まっていた。

人間は脆弱な存在だが、例え一食ぐらい食事を抜いたところで、命に別状があるわけではない。
あれだけ泣き叫ぶことが出来るのなら、体力も有り余っているだろう。
村の人間が気付いていないとも思えないから、明日になれば本格的に子供達を捜索にかかり――見つけることが出来るはずだ。

私が、その存在を気取られる危険性を侵してまで、彼らを助ける道理は何処にも無い。


だが。
万物に通じるという私の知識は、同時に彼らを探す村の人々の心境も教えていた。
彼らの不安と焦燥、特に子供達の親の抱く、まるで心が張り裂けてしまいそうなほどの心の焦り――

親というものを知らない私には、あくまで一般的な知識の中の一つでしかない。
しかし、実感を伴わぬ知識の一端でしかないからこそ、想像力は勝手に働いて。

……上手く立ち回れば、大事にならずに済むかも知れない。
逆に捜索が難航し、山の奥にまで踏み込まれて、私の小屋を見つけられるよりはましなはずだ――

一瞬だけ、躊躇した後に――私は思い切って、彼らの前に姿を表わしたのだった。

よほど人の姿が恋しかったのだろう。私の姿を見つけるや否や、飛びつくように駆け寄ってくる。
もう少し成長すれば、こんな山奥に年若い娘が唐突に現れたことに、安堵より不審を抱くのだろうが……。

口々に闇夜の恐怖を訴え――べそをかき、泣きじゃくる子供達をあやして。
その小さな手を引きながら、私と子供達はゆっくりと山を降りていった。
子供達にしては、随分と奥までやってきたもので、眼科に村が見えてくるようになるまでには相当な距離を歩いた。
泣き疲れていた子供達には強行軍を強いることとなった。特に一番小さな少年は途中で眠ってしまい、今も私の背で規則的な寝息を立てている。

誰かと言葉を交わすこと、こうやって傍にいることさえ、私にとっては全て初めてのことだったが。
得た知識を総動員し、なんとか怪しまれずに済むように子供達を励まし、一歩一歩山を降りていった。

ようやく見えてきた村には、幾つもの松明の火が見える――やはり村の方でも、子供達がいなくなったことに既に気付いていたらしい。
闇の中――ちらちらとせわしなく動くその輝きは、まるでどちらが迷子なのか判らなくなるほど、上から見ていると落ち着きが無い。
そのことに、ちょっと笑みが零れた。

此処まで来れば充分だろう。何より、もう村が見えているのだ。
あれほど泣き、恐怖していた子供達の目がきらきらと輝いていた。
背中で眠っていた子供も目を覚ましたので降ろしてやると、他の子供達同様、今にも走り去ってしまいそうな様子で村を見下ろしている。

もう、これ以上付き合う必要は無い――子供達の背中を見ながら、しみじみと実感して。
私はそのまま歴史を操り、まるで蜃気楼のように音を立てず、そっとその場を後にしたのだった。


子供達の記憶は弄らなかった。
あの様に去ってしまえば、狐か狸、もしくは幽霊か何かの仕業と思い、これ以上深く関わることは無いと踏んだのもある。
だが一番の理由は、そう――なんとなく彼らの記憶を弄る事が躊躇われたのだ。

私にとっては初めて誰かと共に過ごした時間であり、誰かに頼られるということも初めての経験だった。

彼らの記憶を弄ってしまえば。
私のこの経験が全て、夢か幻か――現実のものでは無くなる。そんな錯覚に捕われて。

例え向こうは夢や幻の事と、記憶の底に沈めてくれてもかまわない。
ただその頭の片隅に、今日の一夜が確かにあった事を覚えていてほしかった。

そうすれば、この日の出来事の記憶を持つ私だけは、それが現実のことだったと知っていられるから――


小屋に帰り、布団に潜った後も。
あの小さな手の感触を確かめるように、月明かりに自分の手を透かしながら――私は眠れぬ一晩を過ごした。




ところが、その次の日。
私の小屋に、生まれて初めての来客が訪れた。

――昨晩の、子供達だった。